タイニー・ベル令嬢と慰めの報酬

第3話 ヘンリー殿下とタイニー・ベル令嬢

「殿下、お疲れ様です」
「ありがとう。オーキッド侯爵邸まで頼む」
「かしこまりました」
 馬車が動き出し、ヘンリーはネクタイと襟を緩めた。窓の向こうでは芽吹き始めたやわらかな緑が陽光を浴び、背を伸ばしている。そこで彼は日脚がだいぶ伸びたことを知る。このところ月が昇り始めてから研究所を出てばかりいたので季節の進みに気づかなかった。

 ひょんなことからと実際に形容する出来事が起きるとは思いませんでした――と婚約者殿は眉を下げて笑っていた。

 あの場に居合わせたのに彼女を守りきれなかったヘンリーとしては、その明るい発言に救われるようで救われないような、なんとも複雑な心境である。
 一昨日、婚約者のイザベル・オーキッド嬢が呪われた。婚約者には何の非もなかった。全く。これっぽっちも。
 二人だけの時間を望んだことが良くなかったのか――
 あの日のことを思い出すとヘンリーは後悔で胸が締めつけられる。

 一昨日からヘンリーが王立魔術研究所を定時で上がれているのは、ヘンリーの相談に上司の許可が出たからだ。ありがたいことに上司と同僚からは可及的速やかに婚約者のそばに向かうようにと始業から終業までせっせと急き立てられている。
 婚約者イザベルの父君であるオーキッド侯爵は冷静であった。侯爵自身が魔術師であることを差し引いても極めて冷静であった。事故とはいえ愛娘が呪われて胸に去来する思いは山ほどあったはずなのに、侯爵がヘンリーを責めることは一切なかった。代わりに解呪までの経過を毎日詳細に報告するよう厳命された。曰く、
「殿下のお見舞いに心から感謝申し上げます。娘との最接近距離は猫一匹分までならば許可いたしますが、くれぐれも厳守を……猫一匹分までですからね」
 イザベルの兄――ヘンリーの先輩魔術師でもある――ニール・オーキッドからも苦言を零されることはなかった。研究所ですれ違う度に面白そうな口ぶりで、「妹は家で退屈しているようですよ」「妹は暇つぶしにあのキング船長の冒険シリーズを一から読み直し始めています」「妹は七巻のキング船長のあの素晴らしいシーンを見舞いに来てくれたクラスメイトに説いていました」と声をかけられた。
 事故だから気にすることはないのだ、とオーキッド家の人々は明るく言ってくれる。イザベルたちの優しさと朗らかさには励まされてばかりだ。呪われたけれどイザベルが無事で良かったという安堵、そして何に感謝をすれば良いのだろうという気持ちがないまぜになっている。
 あの日からヘンリーは大切なイザベルを守りきれなかった後悔と自身の力不足、そして、浮かび始めたぼんやりとした不安に胸が締めつけられている。


 末の第四王子として生まれたヘンリーであるが、イザベルの学院卒業を待ってこの秋に結婚と臣籍降下が決まっている。現国王は彼の祖父であり、王太子の父もその後継である長兄も幸い心身共に頑丈である。弟王子たちに王位が回るのは、そこれそ四男の自分にとっては天文学的数字にも等しい。そして、「王は君臨すれども統治せず」に則り、国の政治は議会が担っている。次兄と三兄も既に臣籍降下を果たした。
 幼い時分から臣籍降下をあっさり決めていた次兄曰く、
「父上はともかく、やさしい兄上は無茶と無理を履き違えている節があるだろう? 俺たち弟をスペアにできるからと無茶と無理を重ねて身を滅ぼしかねない。だから俺は一抜けする」
 幼少期からの夢を叶えて獣医となった三兄も「一秒でも長く、多くの動物のそばに在りたい」と次兄よりも早い年齢で決意を固めた。
 ヘンリーも次兄と三兄に続き、臣籍降下を決めた。次兄と三兄のような立派な志があったわけではない。ただ、大の大人の食い扶持を国民の税金全てで賄われるのは嫌だったし、いたたまれないものがあった。
 祖父や父の側近として辣腕を振う叔父にも引けを取らずに国を思い努力を重ねて外交官として飛び回る長兄、長兄のスペアは御免被ると嘯きながらも演奏家として誰よりも華やかに「外交」を果たしている次兄、東に病気の犬が居れば行って治療をし東に疲れた馬が居れば行ってその看病をして王都中を毎日駆け回る三兄。
 ヘンリーには自身が三人の兄のように立ち回れる実感も自信もない。ただ、兄たちのように自分の考えたその時の最善・最良の道の先で誇れる自分で在りたいと願っている。


 末の弟王子として生まれ、周りの誰もが年長者であり、誰からも大切に守られてきたヘンリーにとって、初めての年下の女の子イザベルは特別な存在だった。
 四兄弟の末弟であった彼を「ヘンリーおにいさま」と呼び、無邪気に甘えてくるイザベルは誰よりも可愛かった。

 彼女が生まれたころには家格が釣り合うからと婚約者候補の一人ではあったが、祖父と父、オーキッド侯爵にぜひイザベルを婚約者にと希ったのはヘンリーである。
 それまで与えられるものをただ受け入れることしかなかった末の王子が初めて何かを自分で強く希った出来事であり、止められるどころか家族そろって大いに祝福された。その夜はヘンリーの好物ばかりが夕食に並んだことを今でも覚えている。
 祖父母や両親は今も末の王子の微笑ましい思い出話として時折取り出しては花を咲かせる。兄たちも、とりわけ次兄は今でもその日のことを鮮明に覚えており、酔っ払うと当時のヘンリーの口上の真似をしてみせる。正直うっとうしい。
 しかし、次兄ラグランドはイザベルの兄君の仲の良い友人であり、婚約前からヘンリーはオーキッド邸に遊びに行く次兄のお供としてイザベルの元に通っていたので強くは出られない。そして、次兄にはもう一つ大きな借りがあるのでやはり強くは出られないのである。

 イザベルは兄のニールとは十歳違いで年が大きく離れていたこともあってか、殊更ヘンリーに懐いてくれた。大きな瞳をきらきら輝かせてはヘンリーの話にじっと耳を傾けたり、おっとりとおしゃべりをしたりする侯爵家の小さなレディは可愛かった。
 彼にとってはごくありふれた光景――例えば王宮の庭園に例年通りに薔薇が丸く大きなつぼみを膨らませただとか、夏と秋の端境期特有の夕焼けのグラデーションの鮮やかさ、暖炉の前ではふくふくと毛玉のように丸くなるのに叔父がとっておきのチーズを取り出すと、シュッと縦長に伸びて俊敏に擦り寄る猫――もイザベルと一緒だといつもより不思議と素敵に見えた。
 美しいものを目の当たりにした瞬間、それを一緒に見たい、胸に湧き上がったその瞬間の気持ちを伝えたいと真っ先に思い浮かぶのがイザベルで、何かよいものに出合えば目にも心にも焼き付けて次にイザベルに会うときまで大事にしまっておこうとすることがいつの間にか日々の習慣になった。
 それがどんなに幸せなのかを、ヘンリーは知ってしまった。

 兄や大人たちに倣って甘やかしたい「小さなイザベル嬢」だった少女が、特別な「レディ・タイニー・ベル」になるのは、ヘンリーにとってはごくごく自然なことであった。

 婚約が正式に決まっても、王妃――ヘンリーたちの祖母――と同じ「イザベル」の名を持つ少女のことをなかなか上手く呼べずやきもきする末弟に苦笑しながら「それならば特別な愛称を付けてごらん」と提案してくれたのも次兄だった。
 二人だけの秘密にしたくて、ずっとヘンリーだけの小さなイザベル嬢でいてほしいと願いを込めて、どきどきしながら耳打ちで初めて彼女を「レディ・タイニー・ベル」と呼んだ。
 少女は薄青と薄紅を淡く溶かした曙の空のように輝く瞳を大きく三度瞬いた。それから白い小さな耳と頬をほのりと朱く染め、潤んだ瞳でこちらを見上げては何度もこくこくと頷いた。彼は、きゅうっとヘンリーの手を握り返してくるイザベルの両の手のひらの小ささとあたたかさに息を止めた。
 彼女が兄君と次兄の元に勢いよく走り去ってしまったことにようやく気づいたのは、手のひらの温度がなくなってだいぶ経ってからであった。興奮して手振り身振りで一生懸命に訴える少女に兄二人は大きな身体をかがめて聞いていた。やがて、珍しく口元をほころばせた兄君とやけににやにやした次兄に手を引かれて少女はヘンリーの元に戻ってきた。
 二人の兄に「タイニー・ベル」と呼ばれ、嬉しそうに誇らしげに微笑むイザベルはやっぱりとても可愛かった。

 次兄も兄君もその愛称を気に入り、王宮でもオーキッド侯爵家でも彼女を「タイニー・ベル」と呼んだ。特別な愛称は、二人だけの秘密にはならなかった。
 けれども、あのときのイザベルのとびきり愛らしい笑顔はヘンリーの初めての宝物になった。――次兄には大きな借りができてしまったが。

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