「おとうさんっ!」 何事かと振り返る前に足に軽く衝撃が走った。あまりの勢いに、少々ぐらつく。 見下ろせば、娘が尻餅をついていた。どうやらこちらの足にぶつかった衝撃に耐え切れなかったようだ。 何が起こったのかわからない様子で、彼女は何度も何度もまばたきを繰り返す。 「こら、サティ。危ないよ」 目線を合わせて軽くたしなめる。 するとサティは少し考えて、ごめんなさーい、と元気良く返事をした。 その声にうなずき、抱き起こそうと手を伸ばしたその時。 「おとうさん、これ」 耳に入ったのは、弾んだ声。 目に飛び込んできたのは、鮮やかな原色。 そして、鼻孔をくすぐったのは、ほんのりと甘い香り。 ――黄色い薔薇のつぼみだった。 思わず驚いて手を止めた。 こちらを見上げたまま、娘は首を傾げる。それからどこか不安そうな声をあげた。 「いらないの?」 「……え?」 どうやら自分は状況に頭はついて行っているようだが、気持ちが置いてけぼりのようだ。 彼女の頭に手を置く。 そっと息を吐き、尋ねてみる。 「お父さんに?」 「……うん」 こちらを見上げる蒼と琥珀の瞳が、不安そうに揺れている。 安心させるように頭を撫で、それから娘を抱き上げる。 思っていたよりも、重い。 しかし、彼女のあたたかなそれは、一緒に過ごせた年月の重さでもある。 それは、しあわせの重みだ。 目を合わせて、彼はようやく笑った。 「ありがとう」 「うんっ!」 彼は、嬉しそうで誇らしげな笑顔と共に、小さくあたたかい薔薇のつぼみを受け取った。 ――さて、どうしたものかな。 受け取ってはみたものの、彼は内心首を傾げていた。 自分の記憶違いでなければ今月のお小遣いをまだ彼女に渡していなかったし、この近くの花屋は今日は休みのはずだった。 「おとうさん」 そんなことを考えていると、上着の裾が軽くひっぱられた。 そして。 事件はあっさり解決した。邪気のない圧倒的な笑顔付きで。 「あのねー、あそこにねー、いーっぱい咲いてるよ」 彼女の指す方向に視線を伸ばす。そして、思わず目を見張った。 瞳に飛び込んできたのは、小さな庭園だった。 早く早く、とサティに急かされて、足早に近寄る。 甘い香りが鼻に飛び込んだ。 燃えるような赤に雪のような白。輝く黄色。色とりどりの薔薇が、透明な風に揺れているのだ。 サティの亜麻色の髪が頬を撫でる。自身の髪も宙を舞うのを感じた。 何度も行き来しているはずだが、こんな場所があるだなんて気がつかなかった。 子どもは道草の天才だな、と妙に感心した。 ――と 葉擦れの音以外にも、ぱちん、ぱちんと何かを切る音が聞こえてきた。 「…………」 なんだか穏やかならぬ心もちがした。 よく見れば、栗色のふさふさした毛並みの何か長いものが、風の流れとは無関係に揺れている。 それから、日光を弾いてきらめく高枝剪定鋏。 ――セレスト大聖堂の紋章入りの。 後日、ベルさんの元に丁寧な手紙と共に菓子折りが届けられたのは別の話。 |