セレスト大聖堂の食堂はいつも混み合っている。この大聖堂で働く者の休憩所も兼ねているからである。空腹を満たして幸福な笑顔を浮かべる者もいれば、一息入れがてらに立ち寄って談笑に興じる者もいる。 昼時からだいぶ下がった時間ではあったが、今日もやはり混雑していた。 その食堂の奥――窓際のテーブルに一人、レオンは腰掛けていた。 水の入ったコップが日の光を透す。 こめかみを押さえて、目を閉じる。 座り心地が良いと言いきることはできない椅子に背を預けて、彼は沈黙を吐き出すと、本を閉じた。 もうひとつ深く嘆息する。 何度となく目を通したが、いまひとつ咀嚼できない代物であった。 ぼんやりと影が触れた。自身のそれとは違う形のものがひとつ。 レオンはゆっくりと振り向いた。 「や」 目を向けると、見知った青年が立っていた。 窓の外に広がる空よりも深い紺碧の瞳を上機嫌に躍らせている。 「……おう、ジークか。今から昼飯か?」 「いや、とっくに終わらせてるよ。外を通りかかったら君が見えたからさ」 邪魔するぜ、と彼はレオンの向かいの席についた。 彼は、こちらの手元をじっと見下ろす。一瞬、不思議そうな顔をしたようだが、すぐに人の良い笑みを浮かべて聞いてきた。 「『錬金術入門』ねえ……興味あるの?」 「……いや、ここに置きっぱなしになってた本なんだよ」 レオンはげんなりとうめく。 「興味半分、暇つぶし半分で読んでみたんだが、交換に必要な法則だとか、不老調整薬だとかよく分からん話のオンパレードでな……。結局、かえって疲れただけだった」 ため息交じりのその返答にジークは苦笑した。彼はレオンの手元から自身の方へと『錬金術入門』の本を寄せながら、笑う。 「ま、これも学問の一つだからね」 「それもそうだな……」 レオンもあっさりとうなずいた。 コップの水を飲み干すと、レオンは相手に向き直る。 「しかし、不老調整薬は不老不死に憧れる金持ちの話もあるくらいだから直接金になるというのも分からんでもないが、交換ってのはいったい何なんだ?」 問いに、ジークはうなずくと快く説明を始めた。 「んー……簡単に言えば、何かを生み出すには代償を払う必要があるということだよ。錬金術と言っても無から有を生み出せるものではないからさ」 「でも、それをやるのが錬金術なんじゃないのか……?」 なんとなく腑に落ちないものを感じ、声をあげる。 相手はこちらの問いには答えずに―― 「やれやれ。仕方ないなあ。これ以上説明するよりは実際に見せたほうが早そうだな」 「できるのか?」 疑わしげに指摘すると、ジークは口の端をにやりと上げる。 「こらこら。俺をなんだと思ってるんだね、ユーは」 「み、ミー?」 「あっはっはっは、つられたつられた」 指差してくる相手を半眼になって見やる。しかし、彼はますます可笑しそうに肩を揺らすだけだった。 こほん、と軽く咳払いをしてレオンは話を戻した。 「――まさか、できるのか? 錬金術」 「んー、俺の専門分野とは違うんだけど、これでも一応魔術方面で食ってる身ですから。簡単なものくらいは」 ジークはさらりと言ってのけ、自身の懐を探る。 取り出したのは、黒革の財布であった。どうということはない、ただ薄っぺらい財布である。 彼は眉一つ動かさずにその中から一枚を抜くと、こちらに差し出してきた。 受けとってみると、カールされた髭にやけに厳めしい顔つきをした男がこちらを向いていた。誰もが常日頃世話になっているであろうアレクシス卿の肖像――千ジェム札である。 「いいかい。ここに千ジェム札がある」 「おう」 「それから、……あー、ないな。悪いんだけど、五千ジェム札、持ってる?」 「五千ジェム?」 レオンもポケットから財布を取り出してみる。探れば奥の方でアルトゥール博士の五千ジェムの微笑みが迎えてくれた。 「ああ、あるぞ」 「ありがとう」 レオンの差し出したそれを彼はにこやかに受け取った。 きらり、とジークの紺碧の瞳が輝いた。 「つまりさ、この千ジェム札を五千ジェム札にするには――」 「するには……?」 彼はもう一度こちらに五千ジェム札をひらりと見せる。 そして。 それを懐に収めた。それからおもむろに腕まくりを始める。 意外なことに――ひょろそうな見た目とは裏腹に――彼の腕は筋肉でほどよく引き締まっていた。 これから彼が実践してくれるであろう錬金術に少々の期待を込めて、レオンは背筋を伸ばす。 相手はゆっくりと深呼吸し、うなずいた。 右肩を引き、左手を前に出す。いつになく真剣な色を帯びた瞳が、そっと伏せられた。 一瞬、辺りが翳る。どうやら風に押された雲に太陽が覆われたようだ。 ごくり、とレオンは唾を飲み込む。 心なしか、食堂内のざわめきが遠く感じられた。 二人の間を、緊張が走る。 再び風が吹いた。 雲が過ぎて日差しが戻ってくる。 音も立てずにジークがゆっくりと立ち上がる。 窓に向かって座っているレオンには、ちょうど逆光になっていて、相手の表情はよく見えない。 刹那。 目が眩んだ。 彼が移動したために、光が再びレオンに降り注いできたのだ。 あまりの眩しさに、顔をしかめる。 ――と 不意に肩に重さを感じた。 「――あと四千ジェム必要ってことさ」 耳に入ったのは、低く囁かれた声で。 肩に触れたのは、ジークの手で。 それらをようやく理解し、相手の姿を再び視界に捉えようとする。 が。 ジークはいなかった。影も形もなくなっていた。 思わず、目をぱちくりさせて辺りを見回す。 ――と 「よい午後を送りたまえ!」 何やらやけに弾んだ声が耳を通った。 声のした方へ慌てて顔を向ければ、ジークがちょうど食堂の出口をくぐろうとしているところだった。 彼はご丁寧にも片目をパチンと閉じ、左手の人差し指と中指、親指の三本を立てサインを投げてくる。 こちらに向けて。ちゃっ、と。 「アディオス!」 そのまま軽快な笑い声をあげ、彼は足早に駆け去って行った。 それをレオンはただ見送ることしかできなかった。常とは全く異なり、飛び跳ねるように走る彼の姿にあっけに取られていたのだ。 ややあって、彼はようやく我に返った。 不本意ながらも現実を突きつけられたのだ――テーブルの上でこちらを見上げてくるものによって。 一枚の千ジェム札。 それを握り締め、うめく。 「…………畜生、やられた」 窓の外で風が通った。 白い蝶が、それに流されるようにひらひらと飛んでいく。 梢が揺れて、芝生に落ちる影が躍る。 梢の隙間から、顔を覗かせる青空と白い雲。 さざめく談笑の声。 ため息も出ない。 外の光景は眩しすぎた。 ――忌々しい。 それはもう、どうしようもないくらいに。とても。 |