上着を肩にかけると、彼は大きく息を吐き出した。それから鞄を足元に置き、扉を開ける。 扉がぎい、と小さな悲鳴を上げた。 こつりこつりと擦れる靴底の音も妙に響くような気がする。 寮内はまだ静かで、どうやら自分の他に戻ってきた者の気配はないようだ。 昨年から彼のものになった寮の個室。南西向きで日当たりが良い他は、特にどうという特徴もない部屋である。ベッドや机、クローゼットに書棚などが元から備え付けてあり、広いとも狭いとも言い難い。 彼がこの部屋を与えられてから変化したものを挙げるとすれば、本の冊数だけだった。書棚に収まりきらない分がいくつかの山になり、床の上に高く積まれている。 その山を崩さないよう慎重に歩を進め、彼はようやく荷物を置いた。 上着を椅子にかけようとして、彼は動きを止めた。その真新しい黒い上着には、長時間馬車に揺られていた証――深い皺が刻まれている。よくよく観察する必要もないくらい、くっきりと。 身長が伸びたのだから新調する必要がある――と冗談なのか本気なのか今一つわからないことを言いながらも、やけに上機嫌で祖父が選んでくれたものだった。 向きを変えてから眺めても、一度目を閉じてから見やっても、皺は残ったままだ。 ――せっかく買ってもらったのにな 長旅の疲れが、一気に両肩に圧し掛かったような気がした。 どうしようもないため息が漏れる。 彼はぐったりとベッドに座り込んだ。鞄をこちらへと引き上げる。 そのまま荷物をほどいてみるものの、何となく気持ちが落ち着かない。とりなすように天井の不規則な紋様――雨漏りの跡だ――や、壁の色あせた箇所に目をやるが、それでも変わらなかった。全て見慣れたものであるはずなのに、だ。 深く息を吐き、窓の外を見やる。いつもの王立魔術学院の裏庭。その風景が沈む夕日の橙色に染まっていた。それより先に見える西の空は、橙色と藍色が溶け合っている。明かりがなくても周囲は見渡せるが、少々薄暗い。家々の明かりも灯り始めている。夕餉の支度をしているのか、うっすらと煙が昇っているのも見える。 エセルの街が、夜を迎えようとしていた。 また一つ、ため息が零れた。 再び鞄の中に手を伸ばす。しかし、鞄に入れた記憶がない感触を覚えて動きを止める。何か硬いものが紛れ込んでいるようだ。 「…………?」 怪訝に思って、それを持ち上げると―― ハンカチやらおろしたてのローブやらの間に入っていたのは。 緑色のリボンで丁寧に結われていた、包みだった。 開けてみる。かすかに、だが、確かに甘い香りが鼻をくすぐった。 入っていたのは、クッキーだった。 一つ摘んでやろうと指を伸ばす。と―― 「あれ?」 クッキーよりも何か薄いものが入っている。眉根を寄せてそちらを摘み上げた。 それは、手紙というよりはカードといった方が良いような紙片であった。上質ではないが、丈夫そうな紙質。水や油を弾くように魔術が施されているのが見て取れた。 紙にはたった数行、手書きの文字が記してあっただけだった。よく見慣れた、几帳面な文字。 宿題 身体に十分気を配ること がんばりすぎないことをがんばること たまには手紙を書くこと 嘆息して、独りごちた。 「そうか。――寂しいんだ」 窓に手をかけ、開ける。 外からのよどみない空気が風となり、頬を撫でていく。 深く、深く呼吸する。 それからすっかり凝ってしまった肩をほぐしながら立ち上がる。 荷解きが終わったら、お手製クッキーの感想を早速祖母に送ってやろうと思いながら。 |