このはながいっとうすきなの、とそのひとはわらった。

 差し出した花瓶に、そのひとは虚を突かれたように目を瞬かせた。しばらくそのまま花を見つめていたが、その後ゆっくりと瞳を細め、ほどけるように笑った。木漏れ日が、白いヴェールを透かしてきらきらと光り、そのひとの顔を照らす。
 そのひとは愛おしそうな眼差しでカーネーションを見つめ、葉の一枚を優しく撫でた。慈しみに満ちた手付きだった。そこから伝う温もりは、きっと、我が子の頭を撫でる温かさと同じなのだろう。


みどりのゆび




 ひとつ、またひとつ、呼吸を落とす。繰り返すごとに、淡く甘い薔薇の香りが胸に広がっていく。ひとくちに薔薇といっても、この庭園には様々な色や大きさのものがそろっていた。アーチに絡まる蔓薔薇。赤い大輪のものもあれば黄色の小ぶりなものもある。花弁が豪華な八重咲きのもの、上品なフリル型になっているものもあった。常磐色の葉の上に花開く白薔薇は、清らかで、けれど誇り高く見える。
 木陰の隅に腰を下ろす。少年は抱えた膝に顎を埋めた。
 葉擦れの他には、ぱちん、ぱちん、と剪定鋏の動く規則的な音しか聞こえてこない。そのハーモニーを聴きながら、薔薇のアーチにくり抜かれた青空を眺める静かな時間を少年は好んでいた。
「みーつけた」
 透明な声がひとつ。
 植え込みの間から――そのひとは顔を出した。
「この特等席にいたのね」
 かんけいないだろう、あなたには。
 返した言葉は葉擦れと鋏のハーモニーに阻まれはしなかったはずだが、聞き流された。
「よいしょ」
 スカートの裾が地面に付いて汚れるのを気にした様子もなく、少年の横に膝をついた。白いヴェールが揺れ、銀色の髪が一房零れて光を散らす。
 まるで悪戯っ子を見つけたかのように、そのひとは小さく笑みを刻む。いつも優しげに細まる紫色の瞳は、何故だか苦手だ。
 このひとたちはどうして、いつも哀しいくらいに少年に優しかった。セレスト大聖堂の他の者も同じだ。親も故郷も自ら捨てた負い目を一つも感じさせないくらい、彼らは優しく少年に笑みを向ける。
「あの花がいっとう好きなの」
 唐突な話題に、少年は目を瞬かせながら首を傾げる。そんな彼を見て、そのひとは一層柔らかに微笑んだ。
「別にあのひとに初めて貰った花だからじゃないのよ。こう、薔薇よりもやさしくて身近な感じがいいのよね……ごめん。嘘。やっぱりあの人に貰ったからだ。元々好きな花を貰ったからもっと好きになったのよね。うん」
 早口で何やら言い訳がましいことを一気に捲し立てたかと思えば、紫水晶に似た双眸をまっすぐに向けてくる。
「だからね、ありがとう」
 少年が首を傾げれば、そのひとは微笑んでもう一度言葉をなぞる。
「大事にしてくれてありがとう。正直もうダメだと思ったの。一番好きだなんて豪語しておきながら、自分でうまく世話できなくて枯らしかけちゃうんだから本当にダメよね」
 このひとは決して少年のことを否定しない。他人が絵空事だと馬鹿にする世界にも、遠巻きに覗いて冷ややかに批判だけする世界にも、ただ笑みを刻むだけだ。そして、いつだって優しい視線を向けてくる。その眼差しで、言葉で、決して否定なんてしないのだ。
「元気がはち切れそうなくらいあるのは素晴らしいわね。満点花丸二重丸」
 このひとはいつもそうだ。ふっと何かほどけるように笑う。胸に温かなものが満ちてくるような笑みを惜しげもなく投げてくる。そんな笑顔の持ち主を、もう一人、知っている。ぱちん、ぱちん。司祭の操る剪定鋏の規則正しい音が、胸を打つ。
「でも」
 澄んだ声が、耳を叩く。
「どんなに自分が悪くなくても、どれだけ相手にムカついたとしても手を出しちゃったのはよくなかったわね。五十点減点」
それでもやるなら徹底的にこっそりとやるか向こうから手を出させなきゃ、と何やら不穏なことも言い添えて。
「仮にも司祭夫人が言うことではないとおれは思う」
 少年が脱力すると、そのひとが小さく笑う。呆れながらも少年は目を細めた。
「正解。賢いベルには追加得点キャンペーンを案内してあげる。さて、この後ユーは何しに行きますか?」
「み、ミー?」
 声を引きつらせたベルに、そのひとは細くて白い人差し指をぴんと立ててみせた。
「ヒント。特別ゲストはクラスメイトのハリー君」
 反対側の手のひらが向けられたアーチの入り口には、頬を腫らした同級生がいた。
 さっさとベルを立ち上がらせ、そのひとは無邪気に笑いかけてくる。
「さあ、一言どうぞ」
 怪訝をあらわに一瞥し、ベルは口を開いた。
「腫れるなら逆ではないかとおれは思う」
「メールにやられたんだよ!」
 弾かれたようにハリーが訴え、右頬を押さえた。
 ベルが叩いたのは――といっても軽く小突いた程度だ――左頬だったのだが、何故だか右頬の方が大きく腫れていた。顔を伏せたハリーの薄茶色の髪が小刻みに揺れている。痛むらしい。
「ベル。ハリー」
 レヴェランド・メールは細い両腕を腰に当てると、二人の名を透明な声で呼んだ。
「もう一つヒントをあげましょう」
 紫色の瞳は何か面白がるような、そんな光を帯びていた。
「喧嘩は大いに結構。あくまでも双方が同じラインに立って、それぞれが守る領域に許可なく踏み込まなければね。そうでなければ、単なる侵略や争いにしかならない。ハリー、あんたはベルの大事なものを壊したのはよくなかったわね。ベル、あんたも自分より小さい子をグーで叩くのはなし」
 と――ベルは舌を噛みかけた。レヴェランド・メールが素早くこちらの首根っこを掴んできたのだ。ハリーの悲鳴じみたうめき声も聞こえてきた。彼の鳶色の瞳に薄い水膜が張っている。腫れた頬も相まって、苦しそうに見える。
「わかったよわかったってば! 悪かったな、お前の鉢植えぶっ壊したのにしらばっくれて。……ごめんなさい」
 ふてくされたような声音だが、鳶色の眼差しはまっすぐとこちらに向けられていた。
「あ……」
 常日頃会話の主導権を大人たちに任せているのが祟り、とっさの一言が出てこない。
 と――メールに首根っこから手を離され、肩をポンと叩かれた。細い指先からじわり、じわりと温もりが伝わってくる。
「叩いたのはおれも悪かった。ごめんなさい」
 ハリーのしたことをすべて許せるかと問われたら、ベルは素直にうなずくことはできない。けれども、赤く腫れ上がった彼の頬は目に痛々しく映った。
 ひとに殴られたときの痛みを、自分は知っている。知っているのだ。よく。
 四つ葉の刺繍の入ったハンカチをハリーに差し出す。親ではなく、司祭夫婦から入学祝いにもらったそれを、ハリーはもう決して笑わなかった。振り払うこともなく、ただ黙したまま受け取った。

 ハンカチを頬に当てたハリーが低くうめく。せわしなく瞬きを繰り返している。どうやら目に浮いた涙を乾かそうとしているらしい。やっぱり痛そうである。
 だから、つい。
「自分から手を出すのはよくないとメールは言った」
「言ったわね」
「自分より小さい子をグーで叩いてもいけないとメールは言った」
「……言いました」
「…………」
 じ、と紫色の瞳をのぞき込む。レヴェランド・メールがわずかに身じろいだ。
「違うよ。やったのはメールだけど殴られてはねえから」
 メールではなくハリーから返事が飛んできて、ベルはちょっとびっくりした。
「なんだよ」
「…………」
 呆れたような響きの声に、身じろいだり息を呑んだりは、たぶんしなかったと思う。びっくりはしたが、そのくらいは隠し通せる。尻尾は少し逆立ったかもしれないが。たぶん。
 まっすぐにハリーを振り仰いだ。目が合うとハリーはますます顔をしかめる。やはり喋ると痛むらしい。
「だから! さっきからなんだよ。聞きたいことがあるならはっきり言えよ」
「殴られていないのにどうしたら頬がそんなに腫れるのだ? 虫歯なのか」
 はっきり言った。ハリーの顔はますます険悪になった。
「違う! 虫歯じゃねえよ!」
 目を丸くしたベルに、彼は「だから」と声を荒らげた。
「謝りに行きづらいのならばいい演出方法があるわよってメールがよくわかんねえ魔術使ってきたんだよ! 腫れるし痛いしろくなもんじゃねーよ! メールもそこで笑ってないで早くこれ元に戻せよな! マジで痛いんだけど!」
 ハリーの怒号につられてレヴェランド・メールの元へ視線が引き寄せられた。細い肩と、白いヴェールは確かに不自然なほど揺れている。
「ごめんごめん。戻してほしい?」
「ほしいに決まってんだろ!?」
「いいけど、ここに来る前にあんたに言ったこと、忘れるんじゃないわよ」
「わかってるよ! 鉢植え、元に戻せばいいんだろう!?」
 よろしい、と首肯がひとつ落ちる。そして、そのひとが指で円を描いた。その跡を光が追いかけるように走り、輝きを増していく。ぱちんっ、と破裂するような音と共に白い光が弾けた。
 光が消え、眩しさが和らぐ。同級生の頬も元の大きさに戻っていた。

「ベル」

 聞き慣れた、けれども聞き慣れぬ響きだ。この声がその二音をかたどることは今までなかったのだから。
 目を瞠る自分に相手は怪訝な眼差しを遠慮なく寄越してくる。
「……なんだよベル。お前の名前だろう? 呼ばれてびっくりするなんて変な奴だな」
 同級生は眉間に皺を刻んでいるものの、
「なあなあ、さっき、ぱーって光ったとき、尻尾が一瞬ぶわっとしたよな」
 鳶色の瞳をまっすぐベルの背後に注いでくる。そろそろと動かして隠そうとするが、なんだかくすぐったいような心地に毛がちょっぴり逆立ってきた。
 と――笑い声が弾けた。
 肩を大きく震わせてメールが笑っている。
「なんだよメール! 笑うことないだろ!? っていうかメールにベル! あの鉢植え、ベルのじゃなくてメールのだったんだろう? なのになんでベルが怒るんだよ!?」
 メールは苦しそうにお腹を押さえている。どうやらそれはなかなか治まらないらしい。未だ笑いを堪えきれない様子で左手で眦に浮いた涙を拭う。
「リヒトに……司祭にメールがもらったのだ。枯らしたのもメールだ」
「お前が代わりに世話してやってたのかよ。なんでまた」
 代わりに答えてやると、ハリーがじっとりと半眼になった。
 ベルは続けて口を開く。だが、うまく言葉が紡げず、答えに詰まってしまった。やはり会話の主導権を大人たちに任せきりなのはよくないのかもしれない。

 でも、哀しんでいたのだ。あの花を目にしたそのひとは。もしかしたら泣いていたのかもしれない。 でも、泣くのをこらえていたのかもしれない。 嘘が得意な人なのだ。いつもそのひとは弱さを見せようとはしない。 決して。何一つとして。その姿に、どこかあの影が重なるのだ。 常磐色の村でどこまでも笑っていた母の姿が。痛みをこらえ、傷痕を隠し、辛さに気付かないふりをして、それでも笑うのだ。 嘘で綺麗に装って。自分はあの頃、気付けなかったけれど。だから。でも。

 固まったベルの思考ごと包むように手を伸ばし、レヴェランド・メールそのひとがそっと頭を撫でた。やさしい温もりが、細い指先から伝わってくる。
 そのひとは片目を瞑ってみせると、告げた。
「答えは簡単、昔の人は言いました。適材適所。ひとには向き不向きというものがあります。よって、みどりの指の持ち主のベルが育てるのが花のためであり、ひいてはこのレヴェランド・メールのためでもあるわけよ」
 銀髪が風に揺れ、紫水晶に似た瞳が柔らかな弧を描いて細められる。陽光がかたどる細い指、白いかんばせはとても美しい。
「……あのさあ」
 くい、とベルの裾を引き、ハリーが眉を寄せて言ってくる。
「このひと、そもそも自分がきちんと世話できなかったの棚上げにしてるよな? 思いっきり」
「その通りだとおれも思う」
「ベル、お前っていい奴だなあ」
「新しい植木鉢、リヒトに言えば丈夫で一番よいものをくれるとおれは思う」
「ベル、お前って本当にいい奴だなあ」
 風が抜けた。
 揺れる枝から葉が降りかかってくる。濡れた子犬のようにかぶりを振って払い、二人は顔を見合わせて笑った。



「ベルさんベルさん」
 扉を開けるなり、小さな幼なじみたちが彼の袖を掴んできた。
「お届け物のハリーです!」
 じゃーん、と反対側の腕を力いっぱい広げ、小さなジークとサティが笑う。
 二人に挟まれるように中央に立っていたのは、ハリーだった。
 あれからいくつかの年月を経て、十五歳になってからハリーの背はずいぶんと伸びた。まとわりつく子どもたちと比べるととても高い。ベルよりは低いが、本人は「俺たちの成長期はまだこれからだ」と公言している。
 足下でじゃれる二人をぞんざいに追い払い、鳶色の瞳が吊り上がる。
「ハリーさんだろ? なんでベルにはさん付けで俺は呼び捨てなんだよ」
 ハルドがひょいと肩をすくめた。
「だって、ハリーはじんぼうがないから!」
「ねー!」
 サティも大きくうなずいた。答えるや否や、くすくすと笑いながら二人はベルの背後に隠れた。黒色と亜麻色のそれぞれの髪が、柔らかそうに揺れている。
「うるさいよっつーか、よくそんな難しい単語知ってるなあ」
 アートルム先生んちもウェントゥスさんも教育方法間違っているぞ、と苦い表情で吐き捨てる。
「それはそうと、ご注文の品をお届けに上がりました」
 口角を上げ、ハリーが恭しく箱からそれを取り出した。
 細長い花瓶だ。翠蜜色の細い蔓が丁寧に編まれている。光が差し込むと、薄い蒼色が映った。蔓薔薇の合間から見える遠い空の輝きだ。
 光に透けては消える美しさに見入るベルを、子どもたちをしばらく見つめていたハリーだったが、ほどけるように笑った。
 日光が窓硝子に反射してきらきらと光り、ハリーの顔を明るく照らす。
「そうだろうそうだろう、美しかろう? なんたって、未来の大芸術家様が丹精込めた作品だからな! 美しいのは当然である」
 胸を張る硝子アトリエの一年生に、ベルもまた瞳を緩めた。
「ありがとう、ハリー。きっと、今年もあのひとは気に入ってくれるとおれは思う」
「当然だろ。お前の育てた花と、俺の作った花瓶なんだからな!」
 鳶色の眦を細めて笑う友と、どちらからともなく互いの作った拳と拳を合わせた。
「でも、そういうこと平気で言っちゃうハリーの心はきれいじゃないよな?」
「ねー! 花瓶はきれいなのにざんねん」
 後ろから飛んでくる指摘の声にハリーは眉をくっきりとしかめた。
「本当にうるさいなあ! それよりベル、お客様に茶の一つでも出せよな。急いで持ってきたからこっちは喉がカラカラなんだ。あとはちび助どもにおやつな、おやつ。今日はビアンカさん仕事で留守なんだろ」
 ぞんざいな口ぶりだが、子どもたちを部屋へ上がらせようと、背を押す手付きはとてもやさしい。
 風が渡った。
 ベルはそっと目を細める。友人たちの向かう窓辺では、薄紅色をしたカーネーションの花が、今年も淡く揺れている。








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