藤林邸は、なだらかな坂道の上にある。
 坂の上に到達すると、満開の桜の園が一面に広がっていた。
 門扉の前で、葉加瀬歩(はかせあゆむ)は上着を脱ぐ。 風に乗って白い花びらがいくつか、彼の肩口から落ちた。指でつまもうとすれば、それは風にさらわれてしまう。 やがて、空の蒼に吸い込まれるようにして見えなくなった。
 彼は襟を僅かに緩めた。春の盛り、光の満ちたうららかな午後である。
 そのまま奥にある邸の方へまなざしを注ぐ。澄み切った青空の下、白い壁と緑の切妻屋根の対比が美しい。
 満開の桜の下、邸目掛けて進む。
 先代だか先々代だかの藤林家当主が重度の愛桜家で、この邸を建て替える時に藤とそっくり植え替えてしまったのがこの庭園の始まりらしい。
 強い風が吹き、視界が白色に染まる。ほのかに朱の走った白い花びらが、ひらりひらりと降りてくる。

 ――花の下には、涯がないんだって。

 長い睫毛を伏せながらそう言っていたのは、(めぐむ)だ。

 ――掴めそうなのにちっとも花びらを掴めないのは、花の下へ還ってしまうからなのかもしれないね。

 世界を桜一色に染めるかの如く、花が幾重にも降り積もる。空も大地も何もかもが桜一色に仕立て上げられていた。
 けれども、その手に閉じ込めようとすれば、たちまちにして花はすり抜け、風にさらわれていく。繋ぎとめておくことは、確かに難しい。
 溺れてしまいそうな桜の海の中、彼は大きく吐息した。
 葉加瀬歩は、桜の上位科目に属する植物に憑かれた(『疲れた』とも言える)研究員であった。


 黒く塗られた重い両開きの扉を、そっと押し開く。部屋の中に入り、後ろ手のまま音を立てずに扉を閉める。 彼のその行為は、指と心に手順の一切を刷り込んでいた。
 南向きの陽のあたる広い部屋。天上付近まで取られた大きな窓の方へまなざしだけを送る。 窓の外では桜の枝が思い思いに伸びていて、はらはらと花びらが舞い散っていた。太陽に暖められたそよ風が、開け放たれた窓から優しく入り込む。
「いらっしゃい。歩ちゃん」
「よう。生きてるか」
 やわらかな春の光に満ちた寝台の上、部屋の主は枕に頭をあずけたまま、葉加瀬が近づいてくるのを嬉しそうに待っている。
 目許を僅かに和らげ、葉加瀬はゆっくりと彼女のそばへ近づいていく。

 葉加瀬歩と藤林萠は、幼馴染にして許婚同士である。ただし、後者について厳密に言うならば、「元」という捕捉を付けるのが正しい。
 互いの親同士も仲の良い幼馴染で、かつて、生まれてくる子どもを結婚させようと約束していたのだという。 やがて親子三代にも渡るであろうその縁は紛う事無き腐れ縁だ、と冗談交じりに言い合いながら。
 けれども、その話は無しになった。萠の身体は、生まれた時から弱かったのだ。
 当初、成人するまではとても生きられないだろうと言われていた萠は、現在その年齢を大きく越えている。 けれども、幼少の頃よりはいくらか良くなったものの快復したわけではなく、彼女が病弱であるのに変わりはなかった。この身体では子どもはのぞめない。
 一緒になれば、残されていく者も残していく者も不幸だろう――と誰かが囁いた。
 一緒になったとしても、跡継ぎのできない結婚など不幸だ――と誰もが言った。
 だから、 結婚の話は無しになった。

 馬鹿げている――と葉加瀬は思う。
 そもそも結婚も婚約破棄も彼自身が望んだことではないのである。だから、この話に初めから意味などないのだと彼は分かっていた。
 生まれる前に交わされた約束とは別に、萠を愛した。自分で望んで、彼女を欲した。
 誰かに仕向けられたからそれに従ったわけではない。
 彼女を愛したのは、親同士が望んだ話とは何の関係もない。だから、その話が潰えてしまおうと、どうなろうと、自分が彼女を想う事実だけは何も変わらないのだ。

 葉加瀬が寝台の脇に添えられた椅子に座るのが待ちきれないのか、萠は跳ねるように上体を起こした。
 上掛けからあらわになった彼女の身体は細く、ひどく頼りない。もともと華奢で透き通るような白い肌の持ち主だが、窓から差し込む陽の光のせいでそれが一層際立っているように見えた。白く清潔な寝巻きと相反する長い黒髪だけが、鮮やかに美しい。
 葉加瀬は眉根を寄せる。
 けれども、彼女はちっとも悪びれずに手のひらを振ってみせた。
「大丈夫、大丈夫。いつもこの季節はいいんだから。おまけに今日はとってもあたたかいし」
 のんきに言ってのける彼女に、葉加瀬は声を鋭くさせた。
「何が大丈夫なんだ何が。お前の『大丈夫』ほど不確かなものはこの世に二つとないぞ」
 明らかに痩せた彼女を前に、彼は小言を続ける。
「お前、ちゃんと食えているのか? この前会った時よりも薄くなっていないか? 横の長さなんてどう見積もっても短くなっているぞ」
 彼女は否定も肯定もせずに、静かに笑った。
「歩ちゃん……その言い方は何だかおかしい。端的に言えば、ないと思います」
「何がおかしい。これでも譲歩してやったんだから少しは感謝しろ。仮にも女性に向かって『太った』は禁句なんだろう?  当然逆も然りだとあの堀地ですら至極真面目くさって言っていたぞ」
 堀地とは、葉加瀬の古い友人である。彼の学生時代から付き合いのある男で、現在も同じ職場にいる。いわゆる腐れ縁である。『多忙極まりない作家業の片手間』に『知的好奇心を満たす趣味』のために、国語科の教壇に立っているというおかしな男である。(砂漠で光る石を見つけるのとほぼ等しい確率でしか紙面に名前が載らない分際で、自分を『売れっ子作家』だと信じて疑わないことが相当おかしい。真顔でそれを言ってのける時点でそもそも彼はおかしい)――もっとも、葉加瀬もまた農業試験場研究員の給与だけでは食っていけず、学校で嘱託の実習助手も務めているので堀地のことをとやかく言える立場ではないのだが、それはまた別の話だ。(と、少なくとも葉加瀬は信じていた)
「……間違ってはいないけれど、正しくもないよね」
 筆一本で――実際には教職で得ている収入の方が大きい――で生活している堀地大先生の格言に、萠は大仰に表情を曇らせた。
 禁句を使わなくてもその言い方は十分ひどいし感謝しろっていうのがそもそもよく分からない――とかなんとか眉を寄せて零している。
 けれども、二週間ぶりの逢瀬に怒りを持続させることは難しかったらしい。萠はすぐに笑顔になってこちらをまっすぐと見上げてくる。
「それより歩ちゃん。学校の方はどう?」
「普段通りだ。別に面白くもない――」
「だけど、つまらなくもない」
 続くはずだった彼の言葉を奪うと、彼女は頬を思い切り緩めてみせた。まるで春の息吹きを想起させるような柔らかい笑みだった。
 葉加瀬はしばらくそれをじっと見つめていたが、 やがて目を伏せ、 小さくため息をついた。
「……飽きないな。お前も」
「うん」
 葉加瀬が半眼になって投げたいらえに、彼女はやっぱり破顔した。その屈託ないきらきらとした笑顔に彼はすっかり毒気を抜かれてしまった。葉加瀬はついに抵抗を止めた。
 学校や近所で起こったこと、人と話したこと、試作品のことなどを簡単に、ぽつりぽつりと話す。
 彼は無駄なものを好まない。
 学校で実習助手をしているとはいえ、社交性は欠く葉加瀬歩という男は、そうした類の人間の例に漏れず、他愛のない話を長く続けるということも当然好まなかった。それは彼が人と接するのを厭うというわけではない。必要な会話の他は特別しなくてもさしたる支障はない。単にそうした考えの持ち主なのであった。だから、良く言えば彼の話には無駄がない。淡々と始まり、大きく脱線をすることなく話を結ぶ。注釈はたいてい思い出したかのように最後に付け加える程度である。
 要するに、悪く言えば彼の話には面白味がないのである。彼自身そうした自覚があるため、『まるでよくできた論文』との友人の揶揄に対して反駁せずに聞き流すのが常であった。
 そういうわけで彼は彼女に話をせがまれるといつも眉間に深く皺を刻み、思い切り渋面を作る。
 けれども、彼女は彼の話を聞くのが好きだと言った。そしてどこか照れくさそうに、本当は歩ちゃんの話す声を聞くのが好きなの――と囁いた。
 萠の澄んだ黒い瞳に自分が映り込んでいる――ただ、それだけで。
 心臓が、大きく鼓動を打った。
 萠の肩に手を添え、彼はそのまま自らの方に彼女を引き寄せた。飛び込んだ形になった萠は一瞬、息を詰まらせたようだが、やがて、抑え切れなくなったように肩を小さく揺らし始めた。
「……何がおかしい」
「だって、歩ちゃん」
 彼女の笑い声が、触れている肩から、胸に寄りかかる小さな身体から直接伝わってくる。
「心臓の音がすごく速いんだもの。そんなに照れくさかった?」
「莫迦。これは単にお前が恥ずかしげもなく恥ずかしい台詞をのたまったことに驚いたからだ」
 吐き捨て、彼は彼女の後頭部をぺしんと叩く。
「もう。素直じゃないなあ」
「黙れ。黙らないとこうだ」
 彼女の髪をぐしゃぐしゃと掻き撫でる。髪は陽の光をいっぱいに受け止めていてあたたかい。窓から吹き込んでくる風に、その長い髪がゆるくなびいて葉加瀬の肩をくすぐった。
 腕から必死に抜け出した萠は、くすくすとまだおかしそうに笑っている。葉加瀬もほんの少しだけ目許を緩めた。
 笑いすぎて浮かんだ涙を指先で拭う彼女の動きが、ふと、止まった。
 訝しく思って、彼女の視線の先を追う。
 布団にも床にも桜色の花びらがいくつも舞い降りていた。風が庭園からさらってきたらしい。
 葉加瀬は萠へと視線を転じた。彼女は床に落ちた花びらから顔を上げ、窓の向こうの世界を、じっと見つめている。
 光を散らすように降る、桜の花びら。風がその花びらを、遠いところに運んでいく。高く高く、ここではないどこかへ。
 あたたかな光に満ちた部屋の中、涯のない空へと吸い込まれていく花びらを、ただ一心に見つめている彼女からは表情が消えている。瞳の色は変わらないはずなのに、感情が抜け落ちたそれは、冷たい硝子玉のような彩りをしていた。
 彼女が生から切り離された予感がした。
 花の下には、涯が――――

 息が、詰まった。

 ――――めぐ。

 名を呼ぶ声は、音になったのか、それとも心の中の呟きだけで終わったのか。
 目の前に座る萠が、こちらをまっすぐと見つめていた。夜の静寂を閉じ込めたような色の瞳に険しい自分の顔が映し出され、彼はほんの少し目線をずらした。
 彼女は葉加瀬を見ながら、自分の中で何かを確かめるようにゆっくりとうなずいた。そして、そのまま微笑みを作ってみせた。その瞳に灯るのは、静かな光だ。
「大丈夫。ただ、桜の季節ももうじき終わっちゃうんだなあってそう思っただけだよ」
 哀しくなるくらい穏やかな笑みがそこにはあった。
 今度は自分から葉加瀬の胸に顔をあずけ、彼女はそっと息を吐いた。
 ――大丈夫、大丈夫。
 その呟きは、萠の呼吸と混ざってゆっくりと溶けるように葉加瀬の胸に吸い込まれていく。
 片腕だけですっぽりと収まってしまう彼女の身体は、思っていたよりもずっと小さくて熱っぽい。彼があと少し力を込めたら壊れてしまいそうなくらい華奢だ。
 どうしようもないほどのかなしみが胸の奥に広がっていく。
 手の届く距離に彼女がいて、穏やかな陽射しを彼女と共に感じていられるのならば、春のままでいい。このまま時間が止まってしまってもいい。
 ほんの少し、そう思った。





アンダーカレント