街の中心地から少し外れ、緩やかな坂道を上りきった高台に広がる閑静な住宅街。さらにひとけのない片隅に、その分譲マンションはあった。
 石段に座り込んだまま、呼吸を一つ落とす。
 山の手というほどではないものの、ごく一般的に整った街並みが視界いっぱいに広がっている。赤や黄色に染め抜かれたように見える街路樹が目に鮮やかである。
 秋の空は高く、空気は澄みきっていた。
 静かな午後だった。昼下がりだというのに子どもの遊ぶ声が一つも聞こえない。猫の子一匹さえ見当たらない。針の落ちる音さえもはっきりと聞こえてしまいそうな静けさである。
 彼女は心の中で自問した。どうしてこうなった――――と。
 ぱんっ。
 あたりを包む静寂が一瞬にして破られた。
 破裂させたあんぱんの空袋を今度は丁寧にのばして折り畳みながら、男が言う。
「よもや張り込み刑事の気分を味わえるとは誰が予期しただろう」
 果てしなく快活な声音で紡がれた反語表現。彼女はじっとりと半眼で返す。
「……全くだよ」
 そびえ立つマンションを振り仰ぎ、冷めた気持ちで彼女はうめいた。
「何が悲しくて我が家の前で兄妹仲良く張り込みしなくちゃならないの」
 風が冷たい。
 思わず両手を合わせて息を吹きかける。
 よく晴れた青空の下とはいえ、ずっと座りっぱなしでは少し寒い。地面からプリーツスカートを伝って深秋の冷たさがじわじわと全身に浸食してくるようである。
 マフラーなど巻いていない。気象情報では小春日和であると言っていたし、模擬試験日は通常授業日と比べたら帰宅時間が随分と早まるからだ。文系科目を一日目、理系科目を二日目に集中させた時間割のため、五教科七科目の豪華フルコースで受けたとしてもまだ日の高い時間には上がれるのである。彼女は理科を一つだけしか受験していない文系組であった。同じクラスの理系の生徒よりも一足早く下校できる。――受験科目を更に絞った私立進学組は南中高度に差し掛かる頃には家に辿り着けるらしい。
 ひどく寒がりというわけではないが、冷たさの混じる風を受け続けていると、首元の大きく開いたセーラー服というものが頼りなく思えてくる。
(やっぱりセーラーは機能美を追求した制服とはいえないなあ。ブレザーと違って中に重ね着もそんなにできないし……)
 紺色の生地に映える襟の白いラインを忌々しく見つめる。
 巨大なため息をもうひとつ吐き――相手が相手なので隠そうという気遣いなどもとよりない――マンションを胡乱な眼で見やる。何度見ても玄関ホールへの入り口は固く閉ざされたままであった。
 ゆっくりと深呼吸をしてから、一回り年上の兄へと向き直る。
 洗いざらしの白い開襟シャツに細身のジーンズ。裸足につっかけサンダルという実に簡素な出で立ち。見ている方が寒気を覚えるほどの格好の兄・島谷慧介は深秋の風の冷たさなど全く気にならないのか、のんきに口笛を吹いている。規則正しい旋律がひとけのない周囲一帯に反響していく――
 魚をくわえたドラ猫を主婦が裸足で追いかけていくという国民的アニメ主題歌のメロディが三番まで差し掛かったところで、島谷みつばはようやく無表情に呼びかけた。
「時にお兄ちゃん」
「妹よ。皆まで言うな」
 分かっている――と兄は右手を掲げ、こちらの発言を遮った。
「やっぱジジ抜きの方が良かったよな!」
 さっぱりとした顔つきで、これまたやけに爽やかなトーンで兄が告げてくる。どうやら本気でそう思っているらしく、脇に除けておいたジョーカーの札をじっと見つめている。
「なんでそーなるっ!?」
 叫ぶが、通じない。兄は厳かな表情で告げてくる。
「いいだろう。お前がそこまで望むのならば仕方がない。スピードに付き合ってやらんこともないぞ。ただし、お前と俺とじゃ全く勝負にならんことをはじめから覚悟しておくんだな」
「うわ、何その自信……」
 疑わしく妹はうめいたが、兄は余裕たっぷりとうなずきを返してくる。
「俺がスピードで本気を出すと、次の一手を決めるまでに日が暮れることは確実だからな」
「…………」
 とりあえず、もう何か言う気力が失せて、嘆息する。
「こらこら。人に向かってため息をつくんじゃない。そこは若者らしく好奇心とか探究心とかいう高級なものを抱いたらどうなんだ」
 真面目な調子で言ってくるが。
 みつばはこめかみに力を入れた。
「……二人っきりでやるババ抜きに一体何の魅力があるのかとか、そもそもなんでお兄ちゃんがトランプを持っていたのかとか、どうしてそんなことを真顔で吐けるのかとか突っ込みたいところはわんさかあるけど――それはそれとして」
 ぐっと眉間に皺を寄せて疑問を発する。
「なんで鍵を持ってないの? 仮にも在宅ワーカーでしょうが」
 みつばの兄は自宅を仕事場にしていた。彼は筆一本で食べている専業作家なのである。駆け出しの頃に推理小説で新人奨励賞のようなものを貰ったことがあるものの、それから数年を経た今でも新作一本の収入で食べていけるほど名が売れているわけではなかった。そんな事情もあって、彼は健康ライターやら児童向けの学習雑誌のお話やらエッセイやら何やかんやにペンネームと文体とを変えて執筆しながら生計を立てているのである。本人は専業“推理”作家――慧介以外の島谷家の人々にとっては、この長男が同年代の平均的会社員の収入と同じくらい稼いでいるということが一番のミステリーである――を名乗っている。
 締め切りを月に何本も抱えているため、兄は自然と自宅に籠りがちであった。「散歩しない番犬」というのが近所での島谷慧介の評判である。
 妹の問いに兄は何故か自信たっぷりと大きくうなずいてみせた。
 瞳を輝かせ、
「密室トリックを使った話を書こうと思ってな」
 やはり思い切り自信たっぷりな様子でうなずいた。
「った! みつば! 何も言わずにいきなり殴る奴があるか!? 脱稿前に負傷したらどーしてくれる!?」
「左を制す者は世界を制す」
 正拳を構えたままの姿勢で彼女は短く吐き捨てる。
 ひゅるり。
 透明な風が二人の間を通って行く――
 兄はなにやら不自然な形で背を丸め、小刻みに震えていた。彼の膝上にあるコンビニのレジ袋も乾いた音を派手に立てている。
「……妹のお遊びパンチにそこまで痛がらなくてもいいじゃんけ」
 半眼でそれを見やって、告げる。が、兄は涙の浮いた瞳で、きっぱりとかぶりを振ってきた。
「お遊び? 尋常じゃない反射速度のジャブで何を言うか!」
「で?」
「…………」
 捨てられた子犬のような眼差しで兄がこちらに何かを訴えているようだが、彼女は笑顔で無視をした。
 ひょい、と肩をすくめ、兄が語り始めた。
「連載の次回分に密室トリックを使った話を書こうと思ってだな、ネタを詰めるための景気づけに」
「コーヒーを飲もうと冷蔵庫を開けたら牛乳が切れていてコンビニで調達したものの鍵を忘れて現在に至るというわけですか島谷センセイ」
 みつばは頭痛に耐えながら先に続くであろう言葉を奪う。さほど気にしていない様子で、兄がふっと肩の力を抜いた。
「そう。十一月も半ばを過ぎて日増しに寒さの募る昨今、上着も羽織らずシャツ一枚という軽装での外出は、よほどの暑がりか目的地が極めて近い場所且つ簡単に済む用事であるのかを考慮するのが妥当である。しかし、手にしたコンビニのレジ袋。この薄いレジ袋から透けて見える牛乳パックから、おのずと後者であることが判明する。そして――鍵を使わずとも扉が閉まれば自動で施錠する仕組みを持つこのマンション入り口のシステム。外から手持ちの鍵で開けるか、中から誰かが手引きする以外の手段では決して開くことはできない現代技術の結晶――真相をよく見破りましたね」
「…………」
「おい。何か反応しろし。寂しいじゃんけ」
 そう言われても、半眼で見返すしかない。


 約五分。気まずい沈黙を破ったのは、みつばのくしゃみだった。膝を抱えたまま寒さに身体をぶるりと震わせる。
 ふと顔を上げると、隣でおとなしくしていたはずの兄が気遣わしげにこちらを見つめていた。
「みつば、いくらなんでもその格好じゃ寒いだろ」
 こちらが何か言うよりも先に、慧介は立ち上がった。
「待ってろ、兄ちゃんがいいもの買ってきてやる」
 くるりと回れ右をした兄が、軽やかに走り去っていく。みつばはまばたきを繰り返すことしかできなかった。

 少しでも外気に触れる面積を減らすべく、みつばはプリーツの取れかかったスカートの裾を引っ張り、手足を丸めた。
 玄関ホールに入れないまま、かれこれ一時間は経過していた。それはつまり、兄とあんぱんを食べたりババ抜きをしたりしてから一時間も経っていることを意味している。この時間、不幸にもマンションから出てくる住民はおろか、マンションの前を通り過ぎる人すらいなかった。せめて玄関ホールに入れさえすれば、もう少し暖かかっただろうにとみつばは思う。
 澄んだ秋の空気に触れていると、頭の芯が徐々に冷えてきた。
(お兄ちゃんが全然悪くないということはないけど、お兄ちゃん一人を責めていいわけじゃないよなあ……)
 後悔が吐息となって零れ落ちた。
 みつばもまた鍵を持たずに学校へ行っているのである。常ならば専業主婦の母が自宅にいるからだ。単に兄もその習慣で出てきてしまっただけなのだろう。けれども、今日はその母が出かけてしまっている。
 母の不在。快晴。絶好のお出かけ日和。閑静な住宅街。日曜日の昼下がり。ひとけのない通り。たまたま不幸な偶然が重なっただけなのだ。
(早くお母さん帰ってこないかなあ……。夕御飯までいっぺん寝たい)
 あくびをかみ殺し、試験問題との取っ組み合いですっかり凝ってしまった肩をほぐした。ばきりと硬い音が鳴った。
 自分で自分を抱きしめて暖を取る。長くついた吐息の感触が、手のひらをほのかに温めた。
 と――
「ほら」
 兄の声に顔を上げると、目の前が真っ赤に染まった。
「え?」
 目を丸くして、姿勢を正す。
 兄が、もこもこした球体を掲げていた。紅葉よりも深い色の毛糸玉である。
 分からずに、みつばは顔をしかめた。けれども、慧介はさして戸惑う様子もなくただ笑みを深めた。
「何だ? 遠慮しなくていいぞ。お前の寒さ対策に買ってきたんだ。これでひとまずその首回りも安心だな」
「……いや、素材だけ渡されてもどうしろと」
 みつばの指摘に兄はきょとりと首を斜めに傾ける。
「……そうか。そうだよな。マフラーにしろ手袋にしろ、何かイベントがなければ完成まで一気にスパートかけて作れないか」
 握った拳で反対の手のひらをポンと打ってみせた。彼の中で何かの方程式が解けたらしい――そもそも問題からしてずれているが。
 そういえば兄の恋人がまさにそのタイプだったな、とみつばは去年の出来事を思い出す。その恋人は、この兄にしてはなかなか常識的な感性の人物(島谷家のもう一つのミステリーでもある)である。昨年、その彼女が兄のためにマフラーを編んだ。当初の計画ではクリスマスプレゼントのはずだったらしいのだがバレンタインデーに目標をシフトさせるという長期延長戦へもつれ込み、更にお中元期間のロスタイムでついに完成させたのであった。
 親指を立てて兄が宣言してくる。
「よし、バレンタインデーには最高の首回りを提供するからねっ!」
「いや、『ねっ』て三ヶ月先のことをそんなとびっきりの笑顔で約束されましても。今現在の寒さが一層身にしみるだけなんですが」
「まあ、そう言うな。よく見てろよ」
 兄はのんきに笑い、毛糸玉をほどき始める。
 怪訝な表情でみつばが見守っている間に、彼は伸ばした毛糸を切り外した。(作家の性なのか胸ポケットに筆記用具を持ち歩いている点は感心できるが、カッターを無造作に持ち歩くのはいかがなものかと妹は眉を寄せた)それから彼は毛糸の端と端とを結び合わせ、大き目の輪を一つ作った。
「…………」
 意図を呑みこめずにみつばが目を白黒させている間にも兄の手は忙しなく動いていた。輪に両手を絡めて通し、腕を少し開く。
 兄の手のひらは流れるようにすいすいと動き、毛糸を指に絡めて解き、なにやら奇妙な図形を作っていく。糸同士は絡みこそすれど結びつくことはない。するりと抜けたり、ぴたりと指に止まったりとを繰り返す。大きな手が、長い指が、一本の毛糸を変幻自在に操っている。
 左手の親指と中指を広げ、右の親指と中指をくっつける。そのまま右手を上の方へ掲げ、兄は誇らしげに笑いかけてきた。
「ほら、東京タワー!」
「ええと……」
 目を閉じて、深呼吸をひとつ。
 まぶたが震えるくらいゆっくりと、みつばは目を開いた。
 見えるのは、六段梯子の先端が、しゅっと狭まった図形だった。
 とりあえず、聞く。
「……なんであやとり?」
 問われたのが心底不思議だったのか、兄はきょとんと目をしばたたかせた。けれども、すぐに至極真面目な表情で告げてくる。
「なんでって、ハートがあったかくなっただろ?」
「うーん……」
 長音はいらんとかなんとか兄がうめいているのが、耳の右から左へと通り抜けてく――
 もはや何も言う気にもなれず、赤い東京タワーらしきものを眺めながらみつばは長い沈黙をぐったりと吐き続けた。一刻も早く母が帰ってくることを願いながら。
 青空の光を浴びたウール百パーセントの東京タワーは、忌々しいまでに眩しかった。





そんな気遣いはいらない