その家には、大層立派な番犬がいる。そういうことになっている。

「ポチさん」
 呼ばれ、日の当たる縁側に寝そべった塊は、ぱちりと目を開いた。
 全身真っ黒の獣である。大きな耳は頬に沿って横に垂れ下がり、頭から尾までを覆う艶のある被毛は長く、時折緩やかに波打っている。暗く深い色合いの瞳は、陽に照らされると光を孕んで青く見えた。曰く、ただの犬や獣などではなく「高尚たる生き物の証」である。
 フン、と鼻を鳴らし、高尚たる生き物――ポチ左衛門は相手を見上げた。
「餅を食うところだったのだ。邪魔をするとは無粋な奴だな」
「すまん」
 ポチ左衛門の主人は軽く謝罪の言葉を口にしただけだった。彼は、こちらの受けた衝撃と悲しみを微塵たりとも感じ取れなかったらしい。
 ぼさぼさの髪。余分な肉のない、痩せ気味の体躯。常ならば綿入れに身を包み、老爺のように部屋で背を丸めているはずの彼が、袷のみという軽装で立っていた。
 庭を見据えて立つ主人につられ、ポチ左衛門もまた視線を動かした。
 縁側の向こうに広がる庭は、枯れ色一つだけではなかった。黄緑色の芽が光を求めて背伸びしているのだ。昨日の夕方に静かに降った雨は、木の芽おこしだったのだろう。やわらかい春の陽射しに照らされ、新芽が目にきらきらと映る。
 庭の奥、ずっと向こうに広がる山々には、まだ雪が残っているが、だいぶ白さが薄れてきている。その山から吹き下りる風は、ポチ左衛門の頬を、背を、やさしく撫でて行った。
 四季の中でも一番光の変化や日の恵み、土の温もりを感じ取れる季節だ。
 新鮮な空気に包まれた水色の空には、お日様が洗いたてのまっさらな光を燦々と放っていた。 
「それでポチさん」
 春の息吹に耳を澄ませている彼に、主人がまた話しかけてきた。
 主人はこれまた珍しく襷をかけ、薄っぺらい布団を抱え上げ、にこりと笑いかけてくる。
「ちょっとでいいからそこを退いてくれ。布団干すから」
「厭だ。今更そのぺらぺらの煎餅布団を干したところで何も変わらんだろう」
 投げやりにポチ左衛門が告げると、相手は難しげな表情で嘆息してみせた。少しでも深刻さを付け加えようというのだろう、大きくかぶりを振ってから口を開く。
「おいおい。何言ってるんだ。ぺらぺらで上等じゃない布団だからこそ、このうららかな春の陽にしっかり当てて、ふわふわのほかほかにする必要があるんじゃねえか」
「だって、お前。餅だぞ? 皮は透けるように薄くて淡い黄緑色で、弾力のありそうな餅なんだぞ。食べてみたいじゃないか。それを侘助、お前という奴は……!」
「はいはい。退いた退いた」
 服部侘助はあくまでも面倒くさそうな声音でいらえを寄越してきた。ポチ左衛門は鼻を大きく鳴らした。太陽に暖められた土の匂いと遅咲きの梅の花の香りが、胸いっぱいにやわらかに広がっていく。
 今度こそ、ふわふわのほかほかの餅を堪能しようと目を閉じる。と――
 目の奥に、火花が散るのを見た。鈍い痛みが走り、彼は思い切り鼻の皺を寄せた。微睡み始めた彼を足蹴にして、侘助が縁側の先に進もうと一歩を踏み出したのであった。
 が、彼はぞんざいに蹴飛ばされるだけで終わる高尚たる生き物ではなかった。素早く侘助の足に縋り付き、吠えた。
「断る」
「重ッ!」
 体をぐらつかせ、悲鳴じみた声をあげた侘助に、ポチ左衛門は叫んだ。
「ふはははは。侘助。食べ物の恨みを骨の髄まで思い知るがいい!」
 勝ち誇ったように見上げれば、侘助は思い切り嫌そうに眉を寄せていた。額にはうっすらと冷や汗のようなものが浮かんでいる。
 しがみついている足も肉付きは決して良いとは言えない。軟弱な主人にポチ左衛門は内心こっそりとため息を吐く。と――
「ポチさん、重いよ、重すぎる! 飯の食いすぎなんじゃねえか? 夢に出た餅は食わぬ方が身のためだよ」
 しゃっくりにも似た情けない声音に乗せて、心の内角を抉るような言葉をぶつけてくる。
「黙れ侘助!」
「だって、ポチさん。いくら日脚が伸びてきたからって、毎日食ってすぐに横になるんじゃ、そのうち牛になっちまうぞ。高尚な生き物の名が泣く」
「侘助! 下等な生き物の分際で私に意見するつもりか!」
「退く意志がないなら俺にも考えがある」
 と――
 その言葉に、ポチ左衛門はぞっとするものを覚えて口を閉じた。長い耳をそよがせる。周囲の空気へと神経を尖らせた時。
 彼が感じ取ったのは、ただ単に衝撃だった。
「――っ!」
 全身の毛が逆立つほどの、凄まじい速度で展開された術式が自分を包み始めていた。
 戦闘態勢を取るべく後ろへ飛び退こうとするが、背中が上から強く押され、それを阻まれる。起き抜けで反応が遅れたのは確かだった。歯噛みしながら顔を上げる――
 薄っぺらい布団を左手で抱え、魔術で編まれた長い長い柄を右手に掴んだ主人の姿があった。
 ポチ左衛門の背中から伸びた長い竹竿のような柄は、びくともしない。痩せ気味のその男は、魔術を扱う者として、それなりに鍛えてもいるらしかった。
 強い光を宿らせたその目を眇め、魔術師はのたまった。
「いやあ。高尚な魔法生物が地面に着いた腹で掃除してくれるとは、世の移り変わりは実に面白いね、ポチさん」
「ぐぬぬ……! おのれ侘助ええええ!!」
 怨嗟の声をあげながら――
 高尚たる生き物、ポチ左衛門は、腹這いのまま日の当たる縁側を引きずられていった。


 ポチ左衛門はうつ伏せになったまま、狭い視界に映る庭を見つめていた。
 縁側に座る魔術師が、呆れたように話すのが聞こえてくる――
「ポチさん。いいかげん起きろよ。春先とはいえ、その上等な黒い毛皮で長いこと陽たまりに居続けたら焦げるぜ」
「お前が言うかそれを……」
 半眼でポチ左衛門が告げると、彼は不思議そうにまばたきを返した。
「なんで?」
「……黙れ。腹が痛むのだ」
「え? なんで?」
 理解の鈍い侘助に、ポチ左衛門は苛立たしく舌打ちした。
「餅を食うところを散々邪魔した挙句、高貴なる私の腹で縁側と庭を掃除したのはお前だろうが!」
「大げさな。掃除ったって縁側の短い距離を、一回横断しただけじゃねえか。姉さんが聞いたら、掃除の『そ』の字にもならないって鼻で一蹴するぞ」
「阿呆!」
 ポチ左衛門は叫び返してから、ぺし、と尻尾で地面を叩いた。
「つくづく分からん奴だなお前は……! 外腹など痛くも痒くもないわ! 私は軟弱なお前と違って丈夫にできているのだからな! これは丹精込めて用意された餅を食えなかったのを腹の底から悔いている痛みだ!」
「餅って夢の中の餅だろう? どの道そこで食ったとしても腹いっぱいになるわけじゃねえんだから気にするな」
「馬鹿者!」
 やたらあっさりと返してきた侘助に、顔を向けて叫ぶ。歯の間から軋るように、後を続けた。
「お前は本当に馬鹿だな! ただの餅ではないと言っただろうが! 透けるように薄くて淡い黄緑色の餅だぞ! 食ったら美味いに決まっている!」
 声を尖らせ凄んでみせるが、侘助は真顔のまま、表情を変えようともしない。
「いや、だから、夢の話だろう? いいかげん目を覚ませ。帰って来い」
 と。
 背筋に粟立つものを感じて、ポチ左衛門は振り向いた。侘助の紡ぐ魔術ではない。新たに現れた気配は、全く別のものだった。
「ポチさん、叔父さん、あーそーぼー!」
 玄関口から聞き慣れた明るい声がした。その客人は、家主が返事をするより早く、庭へと駆けてきた。
 ぱたぱたぱた、という弾む足音が、地面に最接近したままのポチ左衛門の耳と腹に大きく響く。
 視線を動かすと、鴇色の地に業平菱の描かれた袷が飛び込んできた。大きな目をきらきらと輝かせた少女がこちらを覗きこんでくる。
 小さき者は、邪気のない圧倒的な笑顔でもう一度言った。
「ポチさん、あーそーぼー!」
 侘助の姪である。
 侘助には年の離れた姉と兄がいる。二人とも既に独立し、それぞれが所帯を構えている。
 姉夫婦は、文字通り弟と「味噌汁の冷めぬ距離」に住んでいる。たった三軒隣である。姉の面倒見が良すぎるからか、弟の食生活がどうにも頼りないからか、はたまたその両方だからかポチ左衛門には見当がつかないが、食事は侘助共々しょっちゅう姉の家のお相伴に預かっていた。それゆえ、姉一家との交流は深い。
 ポチ左衛門は何となく被毛がざわりと浮き立つのを感じていた。
 この娘、ついこの間、尋常小学校とやらに上がったばかりなのだという。何が面白いのか、とにかく目に入るものには端から端まで興味を示す。「箸が転がらなくても楽しい年頃」と評したのはその母親で、「お転婆というよりも腕白と形容したほうが正しい」と言ったのはその父親である。ある時は、ポチ左衛門の双眸の深い色合いに興味を示し、延々睨めっこを強要してきた。またある時などは、ポチ左衛門の肉球に大変大きな関心を持ち、観察したり写生するだけでは飽き足らず、しまいには墨を塗ってハンコのようにあらゆるものに捺して回った。侘助の家の中は黒い梅の花でいっぱいになり、母親に彼も家主である侘助もこっぴどく叱られたのは記憶に新しい。
 ――そういうわけで、ポチ左衛門はこの姪をちょっぴり苦手としていた。
 とりあえず取るべき動きが決まって、ポチ左衛門は顔を伏せた。とどのつまり、寝たふりである。
「叔父さん、叔父さん。ポチさんはわるいびょうきなの?」
 こんなところで寝るなんてへんなの、と叔父へ話しかける声はいつもより小さい。彼女なりに声を絞る努力をしたらしい。重畳である。――それでも、ポチ左衛門の背中を指先でつつくのを止めようとはしないわけだが。
 気の抜けたあくびをしながら叔父が呟くのが聞こえてくる。
「そのようだよ。ふわふわでほかほかのお餅を食べないと如何ともしがたい不治の病におかかりになっているらしい」
「ふうん。それ、明日にはよくなる?」
「さあ? どうかな、ポチさん」
 可笑しさをこらえたような主人の声は無視する。
「つまんないの。今日は学校が休みだからポチさんとあそびたかったのに」
 娘の気配がほんの少し遠ざかる。侘助のいる縁側の方へ移動したようだ。
「叔父さんもお店、開けないの?」
「うん。今日はお休みだ」
「へんなの。叔父さんの、うきよばなれしたお店はお客さんが来ないから年がら年中休んでるようなものよって、おかあさまがおっしゃってたよ? それなのにお休みなんてあるんだ。へんなのー」
「……ベ、別に変じゃないぞ! 叔父さんのお店は面白愉快で高尚なものを取り扱っているからね、それが分かる人しか来ないんだ。だから、店は閑古鳥が年中鳴いてるわけじゃないし、叔父さんだって暇じゃないから今日はこうして布団を干すのに特別忙しいんだ」
「……?」
 ポチ左衛門がそろりと目を開けると、きょとんとしている姪と頭を掻き毟る叔父が仲良く縁側に腰掛けているのが見えた。
 侘助は、姉さんとは一度話をする必要がある、と何やらぶつぶつうめいている。
 こてんと首を傾げ、小さき者が言った。
「叔父さん、それってやっぱりひまってことでしょう?」
「何を言ってるんだ。叔父さんは特別忙しいんだ。これから英気を養うために飯を食って、昼寝をするという重要な使命があるからね。ほら、一年生は帰った帰った」
 しっしっ、と野良犬でも手で払うように姪を追い出しにかかる侘助は、とても大人げない。
 姪は反対側に首を傾げ、膝にのせていた包みを持ち上げた。
「ふうん。じゃあ、おかあさまから叔父さんちに持っていくように言われたけど、これ、そのままもってかえるね」
「おお、こづさん! おいしいお茶をもらったんだ。ぜひ飲んでいきなさい。ここで帰るなんてもったいない!」
 急き込んで言う叔父に、姪の小鶴は大きなまばたきを繰り返している。叔父の変わり身の速さは、やはり大人げなかった。

 小鶴は縁側に深く腰掛け、その小さな足をぶらぶらとさせている。
「叔父さん、ポチさんは病気だから食べられないかな」
「そうだね。ふわふわでほかほかのお餅を食べないと如何ともしがたいらしいから」
「ふうん。でも、叔父さん、それっておもち食べたら元気になるってこと?」
「たぶんね」
 難しげに顔をしかめ、腕組みして小鶴が呟いた
「……犬におもちってあげてもいいんだっけ?」
「犬ではない! もっと高尚たる生き物だと何度言えば分かるのだ、この小娘!」
 がばっ、と跳ね起きて、吠える。
「あ、元気になった」
 笑いかけられ、ぐう、とポチ左衛門は唸った。
「ポチさんもおいでよ。一緒なら、うぐいすもち、もっとおいしいよ」
 小さき者は、縁側から伸ばした足をばたつかせ、自身の隣をぽんぽんと叩いてみせた。
 縁側の上にある盆には、淡く、きれいな黄緑色をまとった餅が鎮座していた。半透明でやわらかそうなその餅は、端を少しすぼめられている。
 興をくすぐられ、尻尾が跳ね上がるのをポチ左衛門は隠せなかった。
「小娘、その餅は、うぐいすもち、というのか」
「そうだよ。ごらんのとおり、きれいなうぐいす色のおもちです」
 胸を張って答える小鶴に、ほう、とポチ左衛門は息を吐いた。端がちょこんとすぼめられているその形は、鳥のようにも見える。
「叔父さん、うぐいすって茶色がかっている鳥なのに、どうしてこのおもちみたいな緑色を『うぐいす色』って呼ぶの?」
 疑問いっぱいの表情で見上げてくる姪に、叔父はやさしく笑いかけた。
「こづさん、あの枝を見てごらん」
 侘助が指し示したのは、庭の梅の木である。緑色の小鳥が押し合うように綻ぶ花をつついている。
「うぐいす?」
「よく見てごらん」
 緑がかった頭部の一部に白い輪があるのを認め、小鶴が声をあげた。
「メジロ!」
 よくできました、というように侘助は小鶴の頭を撫でた。
「鶯は怖がりでなかなか藪から出てこようとはしない。反対に目白はなかなか度胸が据わっていて、こんな風に人の目があっても平気で花の蜜を吸いに出てくる。片方が美声の持ち主で、もう一方がきれいで目立つ姿をしている鳥だね」
 侘助の説明に小鶴もポチ左衛門も耳を澄ませる。
「朗々たる美しい鳴き声につられて戸を開けたら、どうやら梅の木の方から聞こえてきた。見上げたら、匂い立つ梅の花を淡い緑色の鳥がつついている――どうだい。素敵に勘違いしたくなるだろう?」
 その一つを侘助は摘まむと、小鶴とポチ左衛門の目によく見えるように掲げてみせた。
 ほろほろと黄緑色のきな粉が零れ落ち、そよ風にさらわれていく。明るい陽射しを受けて、金粉が舞っているようにも見えた。
 見惚れていたら、ぱっと口の中に飛び込んでくるものがあった。そのやわらかな重さに目を白黒させていると、侘助がにやにやと口の端を緩ませている。
 睨み付ければ、彼は真面目くさった顔をして「熱いから気をつけなさい」と姪に湯呑を渡し始めた。
 ポチ左衛門は、ゆっくりと咀嚼する。とてもふかふかとした感触だった。こし餡の上品な甘さが口いっぱいに広がって、淡く溶けていく。透き通るように薄い求肥でできた餅は、しっとりとしていて、やわらかくも弾力があり、とてもふわふわとしていた。春のやわらかさと温もりを閉じ込めたような食感であった。
 ――なるほど。この餅には春告げ鳥こと、鶯の名を冠すのがふさわしい。
 ポチ左衛門は素直に思い、二つ目を味わおうと鼻先を皿に近づけた。


春告げ鳥はやわらかに





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