ポチ左衛門は微睡みから目を覚ました。日はとうに高く上がり、昼がだいぶ傾いた気配がする。大きな黒い獣は、しばらく地べたに寝そべったままぼんやりと動かずにいた。
 初夏の風が心地よく吹き抜けた。清澄な空気は尾を、背を、鼻を撫でていく。彼はそっと目を開いた。
 開け放した戸の向こう、新緑から深緑へと姿を変えた木々の葉が重なり合い、交わり合うように陽の光を受けていた。
 ――この時季の風が緑に色づいているように感じるのは、燃え立つ深緑の匂いが風に乗ってくるからだろうか。
 ポチ左衛門はすう、と風が運んだ緑の匂いを吸い込み、大きな耳をそよがせた。店はがらんとしていて、客の姿は見当たらない。
 心地よい薫風を独り占めしているような贅沢に口元が緩んだ。
「ポチさん」
 背後から呼ばれ、ポチ左衛門はゆっくりと振り向いた。
 店主の侘助がこちらを見下ろしていた。黒髪痩身の、とうに二十代後半へと差し掛かった年頃の男。利休鼠の袷に鉄御納戸色の袴姿である。
 ポチ左衛門は、目をしばたたいた。
 万年閉じこもりきりの男が、珍しくトランクを片手に持っている。
「出かけるのか」
「ちょっと仕入れに。君も来るかい」
「いいだろう。腹ごなしに丁度良い」
 首肯し立ち上がると、侘助の笑い声が落ちた。彼の目線は、何故かポチ左衛門の腹のあたりに縫いとめられていた。
 表に出ると、燦々と太陽の光が降り注いでいた。春先よりもその光はぐんと強さを増している。眩しさに目を細めていると、侘助が店の戸に「本日お休み」の札を掲げているのが見えた。ポチ左衛門は鼻を鳴らす。
「いちいちそんな札をかけずとも客など来ないだろう」
「いや、万が一ということもあるかもしれねえ」
 きりりと眉に力を入れる彼に、ポチ左衛門は半眼になった。
「……やる気があるのかないのかよく分からん主人だな」



「……で、ここで何を仕入れるのだ?」
 明るい陽射しの下、ポチ左衛門はじっとりとした目つきで主人に問いかけた。
 いくつもの路地を抜け、なだらかな坂道を上った先に広がる場所である。実を言えば侘助の店からさほど離れているわけでもない広場である。
 丈の短い雑草が、風に揺れている。ずっと奥に視線を伸ばせば、一面の青空と遠くに街が広がっているのが見えた。広場は、この辺りで一番高い場所なのだ。街が一望出来る眺めは、なかなか良いものだった。
「薫風」
 横から、侘助の至極真面目な声――
 ため息をつく。
 侘助が自発的に外出らしい外出をしたのは、何とかという動く階段を上野の博覧会まで見物に行ったのが最後だったような気もする。
 ポチ左衛門はうめいた。
「お前は商売をする気があるのか」
 言いつつ、顔を少し上げ、主人を見る。彼は首や肩を軽く回して、体をほぐしていた。どうやら準備をしているらしい。そういえば、侘助の足下には同心円や横文字の描かれた大きな紙が敷かれている。
「珍しく街まで仕入れに行くのかと思いきや、ここで済ませる気か。おまけに風を集めるだけとは。ぼろい商売だな」
 半眼で見やって、告げる。が、侘助は厳かな表情で、きっぱりとかぶりを振ってきた。
「そうでもないぞ。夏の目玉商品はなかなかに扱いが難しい。分かってないなあ、ポチさんは」
「何だと?」
「去年、湿気らないように糠漬けと同じくらいの大きさの壺に入れたら見事に売れ残った」
「もういい。もういいから何も言うな」
「えー」
 一転して、眉を寄せて嫌そうな声で、侘助が言ってくる。
「痛みを伴わない教訓には意味がないっていうから、冬が終わるあたりから調査・研究を重ねて、あらゆる客層から好感を持たれるに違いないであろう、場所を取らない小さな硝子壜に焦点を当て、紆余曲折を乗り越えてうまいことお手頃価格で仕入れるのに成功した経緯についてもしっかりきっちりばっちりご清聴してくれないと、せっかくの意気込みがぺしゃんこになってしまうだろう?」
「だから、もういいと言っているだろうが! どうせ聞いても無駄話になりそうだから止めろと言っているんだ」
「えー……」
 まだ話したそうに視線をちらちらと送ってくる侘助を、尻尾で叩いて黙らせる。
 と。
 草を踏み鳴らす音が近づいてくる。軽やかな響きにポチ左衛門は後ろを振り返った。
「あー! 服部先生だ!」
 三人の子どもたちが広場の向こうから声をかけてきた。
 どうということもない、普通の子どもたちのようだった。顔を上げ、侘助に視線で問う。
「学校で担当していた子たちだよ」
「教え子か」
 侘助は柔和に目を細め、近づいてくる少年たちに向き直った。
「ほんとだ、服部先生じゃん。ひさしぶりー」
「それ、先生の犬?」
「うわ、ほんとだ、犬もいる! でけー!」
 犬ではなく高尚たる生き物だ、と一言抗弁しようと立ち上がる。が、侘助に頭を抑えられた。そのまま宥めるようにぽんぽんと叩かれる。
「おー、久しぶり。元気そうで何より」
 侘助も向き直り、相好を崩した。
 駆け寄ってくる子どもたちは、学校に上がったばかりの侘助の姪よりも年嵩のようである。背の高い少年が一人――伸び盛りに入ったばかりだからなのか、ひょろりとした印象ばかりがどうにも目立つ。もう一人は髪を短く刈り上げた活発そうな少年、最後は髪も目元の調子も柔らかそうな雰囲気を感じる少年であった。
 紺絣の衿を整えるや否や、口々に侘助に質問を浴びせてきた。
「先生こそ元気?」
「ちゃんと食べてる? お腹空かしてない?」
「店、儲かってんの?」
「……いきなりそれかい」
 複雑そうに侘助がうめくが、誰も気にした様子はないようだった。三人ともきょとんとまばたきをして、言い返してくる。
「だって、うちでもよく話題になるよ。学校で先生やってた方が、お金も入るし日の光も当たるしで体に良かったんじゃないかって」
 背の高い少年が首を傾げれば、今度は髪の短い方が口を開いた。腕組みし、わざわざ斜めに構えてから――
「そうそう。学校で皆も言ってるよ。先生んとこの店にお客さんが入ってるの見かけたことないって」
「うん、うちの母さんも心配してた。あの様子じゃあ、縁談話を探してやろうにも相手先に気が引けるって」
 最後に肩をすくめながら、柔らかそうな髪の少年がうなずいた。
「…………」
 遠慮のない声に侘助が頬を引きつらせた。
 侘助は目を閉じ、ややうつむいて沈黙を吐き続けた。たまに、眉間に小さな皺が寄る。まぶたがぴくりと震えるのは、何かを思いついたからか、あるいはそれを否定したからか。しばし黙考し、顔を上げる。
 彼の答えを待ち受ける三人の顔にやや緊張が走る。
「道草禁止! 宿題済ませるまでここに入るのは許さん! ほら帰った帰った!」
 侘助はそう言い放ち、ぽかんと口を開けている元生徒三人を手で追い払う。
 突き抜けるように澄んだ青空を背景にして、底抜けに大人げない発言をする元教師を見ながら、ポチ左衛門はため息をついた。
「禁止っつったってさー、ここ、先生んちじゃないじゃん」
「そーだそーだ。今日は宿題も出てないし、追い返されるいわれはないぞ」
「そーそー。子どもを追い出して公共の場を私物化するなんて元教師の風上にもおけないんじゃないの?」
 いつになく厳しい子どもたちの視線。侘助は黙してそれとなく受け流す。彼はあさっての方を向いて、背筋を伸ばすと腕組みした。
 乾いた空気を運んでくる風に、髪を流す。
「教師という肩書だけが自身の唯一の大人の威厳だったという悲しい現実を突き付けられ、服部侘助は、社会に蔓延る闇の深さと歪みに直面することとなったのであった……」
 ――何の語りだ、それは。
 冷たく、胸中でポチ左衛門がうめく。侘助は大きくかぶりを振ると、腕を組みかえた。
「いや、いいだろう君たち……今日の所はひとつ、先生の負けということにしておいてあげよう」
 ひとりで勝手に負けた感じであるが。
「…………」
 ポチ左衛門は、しばし虚空に視線を彷徨わせた。何も言ってやる気にもなれず、ただため息をつく。
「よく分かんないけど、まあいいや。先生、ここで何してんの?」
 髪の短い少年が、気楽そうに頭の後ろで手を組んだ。
「犬連れて散歩?」
「それにしてもでかい犬だなー。先生、何て名前?」
 他の少年二人もしゃがんで、しげしげとポチ左衛門と目線を合わせてきた。一点の曇りもない瞳を注がれて、そわそわと尻尾が動く。
 侘助が頬の力を抜いた。
「ポチ左衛門というんだ。通称ポチさん」
「ふうん。ポチ左衛門?」
「変な名前」
「こんな立派な犬なのに、なんでそんな名前にしたの? もっと強そうなのにしたら良いのに」
「さあ? 先生のおじいさんが付けた名前だからねえ。犬にはポチ、猫にはタマと相場が決まっているからだとか何とか」
 それに、と侘助がポチ左衛門の頭を一撫でした。
「外敵から門を守護するのにふさわしいくらい立派な姿をしているからだって言ってたよ」
 その家には、大層立派な番犬がいる。そういうことになっているのだ。
「ふーん」
「確かにでっかいけど賢そうだし、すごく強そうだよね」
 底のないきらきらとした瞳を正面から注がれ、ポチ左衛門は決まりの悪い心地になる。
「先生は真っ昼間からのんきに散歩かあ。店はいいのか?」
 どことなく心配そうな目つきで見上げてくる教え子たちに、侘助は声を引きつらせた。
「散歩じゃない、仕事だ」
「ふーん」
「う、嘘じゃないぞ! 仕事だって!」
「…………」
 やはり疑わしげな顔つきで教え子たちは元担任教師を見返している。
 侘助は眉間に皺を刻み、びしと叫んだ。
「いいだろう、宿題がなくて暇を持て余している君たちにも特別に手伝わせてあげようじゃないか!」
 侘助はとにかく声を張り上げてから――ぜえはあと息を整えている。
 見るに堪えず、ポチ左衛門は主人の足を尻尾でぽんと叩いてやった。



 トランクから手のひらに載るほどの大きさのカードを取り出し、侘助は教え子たちに配っていく。彼が足下に広げた魔法陣と同様の円と記号、西洋文字が描かれたものだ。
「この時季の風を集めるのが今日の仕事だ」
 生徒の手に渡ると、カードに描かれた陣が徐々に青白い光を帯び始めていく。短髪の少年が目を丸くした。
「集めてどうするんだ?」
 いい質問だ、と侘助は自信たっぷりにうなずいてみせた。
「売る」
 柔らかそうな髪の子が、カードをひらひらとさせながら言ってくる。陽射しを受け、カードがその煌きを弾いた。
「あ! おれ、知ってる。前に長雨の頃に先生のとこで売ってた奴だよね。母さんが買ってきたことあるよ。ちょうどこれくらいの紙で、擦ると、からっとした風がさあって吹くんだよね」
「へえ。じめじめ蒸し蒸しした時には気持ちよさそう」
「うん。家の中で干してた洗濯物も乾くし、空気も入れ替わって気持ちいいんだけど、紙だから中休みが終わってまた梅雨空が戻ってきた頃には、へにゃへにゃになってて使えなくなっちゃった」
 一昨年はそこが課題だったんだよなあ、と侘助が頭を掻くのが見えた。
 その反省点を生かしたのが昨年の糠漬けの壺だったり、今年の硝子壜だったりするらしい。
 侘助は、人差し指をぴんと立て、生徒一人一人と順番に目を合わせた。
「いいかい。先生が合図をしたら、君たちはこのカードを風の吹く方に向かってかざしてくれ。風がいっぱいになったら模様が消えるから、先生の所へ持ってくるか、そのまま手を放してくれればいい」
「はい、先生」
 手を挙げて、のっぽの少年。
「最後に手を放したら飛んでっちゃうんじゃないですか? それに、紙だからいっぱいになる前にどこかに飛んでくかも」
 双眸を緩く細め、侘助はうなずいた。その漆黒には、明るい光が悪戯気に躍っている。
「心配はいらないよ。飛ばされてもカードは先生の足下に自然と戻ってくるからね。そういうふうに仕組んであるから大丈夫」
 不思議そうに目をぱちくりさせ、顔を見合わせる教え子たちを見て、その魔術師は小さく笑みを落とした。
 どうっと一陣の風が吹いた。
「ほら、早速来た。君たち、頼りにしてるよ」
 教え子たちは誇らしげに、けれどもどこかくすぐったそうに笑って返事をする。
「はい!」
 広場一面の草花が、太陽の光をいっぱいに受けて大きく翻る。寄せては返すようにその光を反射させる。
 風が耳を撫で、葉擦れの音と子どもたちの弾む笑い声が心地よく響く。

 ――海のようだな。

 ポチ左衛門は、思い出す。ここへ来る前、侘助の祖父に喚ばれる前、彼のそばには海があった。耳に届く潮騒も、波間をちらちらと照らす月や太陽の光もこの景色のように長らく彼のすぐそばにあった。
 風は広場を囲む並木に到達し、緑の梢を揺らす。黄金の粉をまぶしたような木漏れ日が、光を散らしながら揺れていた。



みどりのうみ





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