青空にくっきりと、白く光るような雲が浮かび上がっている。夏の雲は密度が濃い。綿よりも厚く、雪だるまのように立体的だ。掴み取れそうな気さえする。
 そんなことを思って、ポチ左衛門は眩しい空を見上げた。
 じりじりと照り付ける日の強さを避けて入り込んだ軒先から見える白雲の峰は、遠近感を失って、背を伸ばせば届きそうな錯覚を生じさせる。
「あ」
 頭の上から知った声が響いた瞬間、その獣は通りへと身を翻した。けれども、自由への逃走劇は開幕する前に中止となった。尻尾を渾身の力で掴まれたのである。
「小娘、その手を放せ……」
 脱力したままうめくと、少女はぱっと顔を輝かせた。蝉の合唱にも負けず、その明るく弾んだ声は耳朶を通る。
「ポチさん、こんにちは! 何してるの? ひとり? 叔父さんは一緒じゃないの? 今日はいいもの持ってきたよ!」
「放せと言っている!」
 吠えると、ようやく小娘は手のひらを放した。
 解放された尻尾を震わせ、ポチ左衛門は巨大なため息を吐いた。全身真っ黒の獣にとって、ふさふさの毛並みと艶のある尻尾は自慢だったのだ。
「くたくただ」
 少女は目を丸くして尻尾に視線を注いでくる。ポチ左衛門は尻尾を反対側へ曲げて隠した。
「誰のせいだ、誰の」
「だって、ポチさん、すぐ行こうとするから」
「尻尾を掴むのはマナー違反だ。犬猫の尻尾を掴むのは、お前たち人間に置き換えたら出会い頭に首を掴まれるようなものだぞ」
「そうなんだ。ごめんなさいポチさん」
 素直に少女は頭を下げ、それから首を右へ傾けた。三つ編みを後ろの高い位置から束ねた白いリボンが、所作に従って揺れ動く。
「ポチさん、犬じゃないのに尻尾は犬とおんなじなんだ。変なの」
「変ではない」
 この娘――ポチ左衛門の便宜上の主人の姪である――小鶴はこの春から小学校に上がったばかりのピカピカの一年生である。
 一年生は「なんで」「どうして」という物事の本質に迫る(こともある)疑問と、「変なの」「つまんないの」という忌憚のない意見を躊躇わずに発することができる稀有な生き物なのだという。往々にしてそういうものだと彼の便宜上の頼りない主人がそう言っていた。
 小鶴もまた例にも漏れず、その点では実に優秀な一年生であった。
 半眼で少女をまじまじと見つめる。絣の水玉が飛び交う紺地の銘仙が、光の加減で今は紫色に見えた。
「お前たち人間は、とうの昔に捨てたから理解できぬかもしれんが、尻尾とはそういうものなのだ。何も私のような高尚たる生き物に限ったものではないということだ」
「ふーん」
 相槌を返すが、小鶴の目線はそわそわと落ち着きがない。強い光を帯びた大きな瞳は、先程からポチ左衛門の鼻先と反対側へ曲げた尻尾とを行ったり来たりしている。
 何となく嫌な予感がして、ポチ左衛門は魔の手が届かぬよう、くたくたの尻尾を尻の下に敷き、座り込むことにした。
 ふと視界に影がかかった。顔を上げると、広がっていた雲が灰色へと変わり、太陽を覆い隠している。
 遠く、雷が鳴っていた。通り雨が来そうな気配である。
 小鶴をちらと見る。その手に傘はない。
 そう長い雨宿りにはなるまい、とポチ左衛門は背筋を伸ばして座り直した。夏の雨はせっかちで、あっという間に降ってきたかと思えば、あっという間に止んでしまうのだ。

「侘助なら店でお得意さんとやらの相手をしている。席を外すよう頼まれたから私はこうして散策に興じているのだ」
「あの立派な髭のおじさん?」
「そうだ。あのカイゼル髭の得意客だ」
 小鶴のいう「立派な」がお得意さんにかかるのか、それとも左右共に天地に跳ね上がる彼の髭にかかるのか。ポチ左衛門には分からなかったが、とりあえず彼女の興味を反らせたので重々しく頷いた。
 カイゼル髭の男はポチ左衛門の昼行灯な主人・侘助の店の上得意客で、侘助やポチ左衛門と同じ側に属する――魔術を扱う――存在であった。魔術のかかった「商品」や魔術を使うための「道具」を注文したり、「研究」について、侘助ととりとめのない話を交わしたりしている。ぱりっとした上等な背広よりも口元のカイゼル髭の印象ばかりが記憶に残る男である。
 こちらを見下ろしている小鶴が、こくんと頷くのが見えた。
「そっかー、ポチさん、追い出されちゃったんだね。暑いのに。かわいそう……」
「おい」
 反射的にうめく。すると、小鶴は誰の真似なのか、腕組みして斜めに首を傾げてみせる。これ以上ない思案のポーズで、眉をきりりと引き締めて、
「だって、あの立派な髭のおじさんは、犬がこわいんでしょう?」
「おい。小娘、あの男が犬を苦手としているのは事実だが、私は犬ではない。全くあの髭の男といい、お前たちは……! 私はもっと高尚たる生き物なのだと何度言えば分かるのだ!」
「だって、ポチさん、犬とそっくりだよ?」
「馬鹿者。私が犬に似ているのではない。犬が私に似ているのだ」
 小鶴は、ポチ左衛門をまじまじと見やり――
 目をぱちくりさせて、今度は反対側に首を傾げた。
「えー? そうかな? だって、近所のおじさんもおばさんもポチさんのこと、立派なワンちゃんだって言ってるよ?」
 その家には、大層立派な番犬がいる。そういうことになっているのだった。
ポチ左衛門は、ふんと鼻で嗤ってやる。
「そういうことにしておいた方が都合が良いのだ。お前たち人間は、視覚情報に重きを置いている生き物だからな」
 顔をしかめ、告げる。
「あのカイゼル髭だって私が犬とは異なるものだと知ってはいるが、認識まではできぬ。私の姿を見れば、犬としか視覚情報を処理できず、冷や汗やら震えやらが止まらなくなるのさ。まあ、あれも哀れというか、不便な奴だ」
 それに、とポチ左衛門は目を眇めた。
「私たちが魔術と極めて近い存在だと知る者もそういない。時の流れとはそういうものだが、魔術と誰もが近しい世ではなくなってきたからな。だから、その家には大変立派な番犬がいる。そういうことにしておいた方が都合が良いのだ」
 講釈を終えて大きく吐息する。頭の上をあたたかなものが滑った。こそばゆさに鼻がひくりと疼く。
 かがんだ小鶴がポチ左衛門の頭を、その小さな手のひらで撫でているのであった。
「小娘、何の真似だ」
「うん。なんとなく」
「なんとなくとは何だ」
 ポチ左衛門が水を向けると、小鶴は首を傾げながらぽつりと零した。
「うんとね、それって、ポチさんのことちゃんと知ってる人がいなくなってるってことでしょう?」
 ポチ左衛門が口を開くより前に小鶴は俯きながら言葉を紡ぎ続ける。
「おかあさまと叔父さんが言ってたよ。ポチさんはおかあさまよりも叔父さんよりも、こづさんよりもずっと、ずーっと長生きするのでしょう? ずっと昔から、ずっと先まで」
 そっと、優しく触れたその手。ポチ左衛門は黙したまま首肯した。
「それなのにちゃんとポチさんのこと知ってる人がいないのはさみしいよ。犬じゃないことを誰も知らないなんて、ポチさんのことポチさんだって知らないなんて、ぜったい、ぜったい、さみしい」
 小鶴の目の縁に水がたまっていくのが見え、ポチ左衛門は口を開いた。出てきたのは、途方に暮れた、声だった。
「何故お前がそんな顔をするのだ」
「わかんない」
 今にも零れ落ちそうな涙の気配にそわそわと尻尾が動き、つい顔を通りへと反らす。
 ぽつぽつ、と大きな雨粒が地面に落ちてきた。水玉模様を作り始めたかと思うと、すぐに盥をひっくり返したような大雨になった。
 激しい雨音は、この雨が長くは続かないことを物語っている。遠く、雷の音が響いた。人を等しく落ち着かない心地にさせるような重低音。
 先ほどまでの真っ白な入道雲は墨をひっくり返したかのように色を変え、暗い空へと塗りつぶしていた
 暗い空が一瞬、明滅した。雷が一際激しく轟く。その近さに驚いて、小鶴が息を呑み、身をすくませた。
 心細げに揺らぐ少女の瞳を見て、ポチ左衛門はつい前足で小さな頭を撫でてしまった。雨の音がうるさいくらいに、耳に届く。雷が遠く、近く、鳴っている。
 その時だった――というわけではない。実際には、もう少し時間を待ったのだろう。ただ時を意識していなかったため、それはほんの一瞬後の出来事のように思えた。
 前方の通りから、声が聞こえてくる。
「小鶴?」
 ポチ左衛門は鼻先を軽く天に向けた。
 呼び返してやるまでもなく、向こうがこちらを発見したようだった。雨音に紛れ、声が近づいてくる。
「小鶴、ここに居たの?」
 耐水性に優れているとは言い難い下駄が、小さな水たまりの中につま先を落とす。
 ぱらぱらと落ちる滴を振り払うように傘を閉じ、軒先に入ってきたのは女だった。
「清香か」
「ええ。こんにちは、ポチさん。小鶴と一緒に居てくれてありがとう」
 淡い灰色と紫色に緩やかな曲線絣の入った銘仙に零れ落ちた雨粒を手で払い、小鶴の母親は笑いかけてきた。
「それとごめんなさいね。小鶴が蝉の抜け殻見ろ見ろってうるさかったでしょう? どうしてもポチさんと侘助に見せたかったのですって」
「いや……」
 清香の手には傘がもう一本握られている。
「ああ。これはね、この間侘助がうちに来た時に忘れて行ったのよ。小鶴のお迎えついでに届けてあげようと思って。まあ、あれのことだから雨が降るまで気づきやしないんでしょうけど」
 そもそもあの出不精に傘なんて必要ないかしらね、と清香が呆れたように呟いた。
 ぱしゃん。
 小さな水溜まりから飛沫が上がる。
 小春が母の足元に飛び込み、驚いた母が傘を取り落としたのであった。
「小鶴?」
 いらえはなかった。
 小鶴は母にしがみいたまま顔を上げようともしない。
「今日はずいぶん甘えん坊さんねえ。どうしたの、ポチさんと喧嘩でもしたの?」
 清香の眉が困ったように下がり、娘の旋毛をそっと撫でる。銘仙を引っ張る手にきゅ、と力が入った。
 何だか穏やかならぬ心地がして、ポチ左衛門の尻尾がそろそろと動く。彼の便宜上の実に頼りない主人・侘助が、この姉に一度でも勝てたためしはないことを唐突に思い出したのであった。
 と。
 小鶴がまっすぐと母に顔を向けた。
「おかあさま」
「なあに」
「お願いがあります」
「はい、何でしょう」
「今日の ポチさんのカレーライス大盛りにして」
「うん?」
 突然の娘のお願いに清香はぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「だって、ポチさん、カレーライスもたらふく食べられなくなっちゃうんだよ。そんなのやだ」
 そして、再び母の銘仙に小鶴は勢いよくすがり付いた。大きな白いリボンが翻る。
「ポチさん」
 苦悶するように目を伏せ、清香が話しかけてきた。
「辛かったわね。先一昨日にうちでご飯を食べて以来、何も固形物を摂ってないだなんて……」
「違う」
 きょとんとした清香だが、しばし考えるように通りの雨を眺めてから、あっさりと言ってくる。
「そう。かわいそうに……食べ過ぎが原因でとうとう胃袋切除に」
「馬鹿者。断じて違う」
 不名誉な疑いにポチ左衛門は全身の毛を逆立てた。犬歯を噛み合わせていると、小鶴がきっぱりと告げた。
「違うよ。おかあさま。ポチさんはお腹も壊してないよ」
 小鶴は母の袖をきゅ、と引き、うなずいた。顔を上げ、視線を引き締め、そのままあとを続けてくる。
「いつか叔父さんもこづさんたちもみんないなくなったら、ポチさんが犬じゃなくて、こーしょーたる生き物だってちゃんと知っている人はいなくなるのでしょう?」
 紡がれた声は不安に濡れていて、同時にポチ左衛門の姿を映したその瞳も心細げに揺れている。
「そうしたら、みんながワンちゃんだと思うからポチさんはカレーライスもアイスクリームも食べられなくなっちゃうんだよ。ご飯の時だってひとりぼっちになっちゃうかもしれないもん。そんなのぜったい、ぜったいさみしいもん」
 
「そうね。わかりました。じゃあ、早くおうちに帰って支度をしましょう。ポチさんがもりもりおかわりできるようにご飯をいっぱい炊くお仕事、こづさんに頼んでもいいかしら?」
 お母様も手伝うからお願いね、と清香が頭を撫でると、少女はどこか安心したように顔をほころばせ笑みを零した。
「ポチさんも帰ろう」
 笑顔を向けてくる小鶴に、ポチ左衛門はどうしようもない気持ちを抱えて、尻尾を振った。聡い少女だ。この日々が永遠ではないことも、自分と誰かの人生とが重なるのはほんの一部でしかないことも、知っているのだろう。
 長命である高尚たる生き物は、出逢いも多ければ、別れもまたその分あった。人生の重なった相手がその黄昏を迎え、終わりに向かっていくのを何度も何度も見送ってきた。
 自分を、気遣ってくれているのだろう。その気遣いが嬉しかった。



 炊きたての艶々した白米から立ち昇る湯気が、居間の空気を柔らかく包み込む。大きなどんぶりに山のように盛られた白飯。とろみのある赤みの強い黄褐色の熱いスープがたっぷりとかけられる。立ち昇る湯気にポチ左衛門の尾が自然と動く。
 ネギや芋、肉が何種類もの香料と煮込まれ、それぞれが溶け合うことで生み出される香ばしい匂いが鼻孔をくすぐり、舌を刺激し、涎を促す。
 何度もお相伴に預かっているが、いつ見てもいつ味わってもこのカレーライスというものは何杯だって食べたくなるし、何杯だって食べても飽きない料理であった。魅了の魔術も複雑な工程で練り込んでいるに違いない、とポチ左衛門は考えていた。
「そうか、今日のご飯はこづさんが炊いたのか! 通りで箸がもりもり進むはずだと思ったよ!」
 黙々と三杯目のどんぶりを味わっていると、小鶴の父親が上機嫌で娘を褒めそやした。小鶴も照れくさそうに笑って三つ編みを揺らしているが、父に手放しで褒められ、満更でもないらしい。えっへんと得意そうに胸を張った。

 ――ポチさんのこと、ちゃんと知ってる人がいなくなるのはさみしいよ。

 その優しい少女はそう言った。
 長命なポチ左衛門にとって、人間の生涯は瞬きを二、三回する間に終わるような儚いものであった。
 侘助の祖父に召喚される前もその時代に主人だった者とその周りの人々が先に人生の黄昏を迎え、離るかたへ逝くのを見送ってきた。何度も。何度も。
 ポチ左衛門はこれまでもそう生きてきたし、これからもそうして生きていく。そのことに変わりはないし、そこに特別どうという感情も感慨ない。時の流れとはそういうものだからだ。
 ただ――
 現在の便宜上の主人がまだ情けない声でポチさんより自分のカレーライスが少ないなんてとか何とかうめき、姉に縋り付いている。姉がぞんざいにいらえを返し、それを眺める義兄と姪が弾けたように笑い出す。
 ただ――この賑やかな家でのあたたかい食卓もいつか形を変え、やがて終わる。何だかそれは惜しいと思ってしまった。
 ちりん。
 軒下に吊るされた風鈴が揺れる。いつの間にか外の雨は上がり、通り抜ける風に一筋の冷たい線が混じっている。庭からは競うように奏でる虫の合唱が聞こえ始めていた。
 ポチ左衛門は平らげたどんぶりの脇に寝そべり、耳を風にそよがせた。


されど、いとおしき日々





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