「いつかはあそこに行こう」
 ――月の兎がどのくらい跳ねるのか、この目で見てみたいじゃないか。
 宵闇に浮かぶ丸い月を指さし、男は痩せた肩を揺らした。
 秋になると毎年のように縁側で交わす他愛のないやり取りだった。
 その肩が薄く、背格好が小さく見えるようになったのはいつの頃からだったか。けれども、満月の淡い光に照らされた漆黒の瞳の輝きは、青年の頃と寸分違わぬものだった。出逢った時分と変わりはない。
 だから安心して彼も頷き返してやるのだ。
「その時は私も付いて行ってやる。お前ひとりでは心配だからな。ありがたく思えよ、我が君マスター
 そして、男は思い切り笑うのだ。こちらの頭を、背をゆっくりと撫でながら。骨張った指はまだあたたかい。
 夜空から満月の光がほろほろと零れ落ちる夜だった。



 服部家之墓。
 静かに佇む墓石を見上げ、ポチ左衛門はただ黙しているよりほかなかった。
 男が死んだ時、契約は完了した。それはこの魔術師がポチ左衛門の主人の役目を終えたこと、そしてポチ左衛門の身が再び自由になったことを意味する。男に与えられた名――ポチ左衛門――を捨てることも、この東の島国を離れることも、新しい主人に召喚されるまで眠りにつくことも許されたのである。
(そうしなかったのは何故だったか――)
 その獣は声に出さず、独りごちた。
 全身真っ黒の獣である。大きな耳は頬に沿うように横に垂れ下がっている。頭から尾までを覆う艶めいた被毛は長く、時折緩やかに波打っている。暗く深い色合いの瞳は、陽に照らされると光を孕んで青く見えた。曰く、ただの犬や獣などではない「高尚たる生き物の証」である。
 渡る風にポチ左衛門は耳をそよがせた。空気の質が夏の頃とはだいぶ違うのだ。蝉時雨は聞こえない。代わりに時折鈴虫が静かに音を奏でていた。
「やっと終わった。帰ろうぜポチさん」
 聞き慣れた、やけに明るいのんきな声が耳を突いた。
 ポチ左衛門は目を瞬いた。
 ひょっこりと顔を出したのは黒髪痩身の、とうに二十代後半へと差し掛かった年頃の男である。矢羽縞の浮いた黒い単衣に鉄御納戸色の袴姿。彼の便宜上の頼りない主人だ。この墓で眠る魔術師――かつての主人の孫である。
「何だい、ポチさん。鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をして。寝てたのか?」
 手拭いで額の汗を拭っていた便宜上の頼りない主人が口角を上げた。
 一瞬、目を瞠ったのは不可抗力である。万年閉じこもりきりのこの男が、朝っぱらから襷を掛けて活動しているのだ。夢か何かの間違いではないかと己の眼を疑いたくもなる。
「侘助、私は寝てなどいないぞ。ただ単に出不精のお前が朝早くから草むしりに励むとは珍しいこともあるものだと驚いたのだ――今夜は雨だな」
 ちらりと空を見やる。侘助は衝撃を受けたように大きく頭を揺らすと、手に携えた草刈鎌を落とした。
「失敬だな。任務を終えただけでその言い様は。俺はやるときはやる男ですよ……」
 鎌の部分は既に古びた手拭いでくるまれているから危険はないのだが、朝とはいえ、否、朝だからか墓場で男がいじけている光景は決して目に優しくない。
「任務も何も朝飯との交換条件だろうが。当然の義務だ」
 侘助には年の離れた姉と兄がいる。二人とも既に所帯を構え、家を出て暮らしている。
 姉の方は弟と「味噌汁の冷めぬ距離」に住んでいる。たった三軒向こうである。姉の面倒見が良すぎるからか、弟の食生活が貧しいこと極まりないからか、あるいはその両方だからかポチ左衛門には分からない。分からないけれども、食事は侘助共々しょっちゅう姉夫婦のご馳走に預かっていた。
 ポチ左衛門のかつての主人、つまりは侘助たちきょうだいの祖父が眠る墓の草むしりを終えることが、今朝ふるまわれた朝食との交換条件であった。
「まあ、そうなんだけど」
 てへ、と照れたように侘助が舌を出して頬を掻いた。残念ながら三十路に近い齢の男がその仕草をしたところで世界には何の変化も現れなかった。
 こちらの冷たい視線にようやく気付いたようだ。侘助は草刈鎌を拾い上げた。
 侘助はポチ左衛門のそばへ歩み寄ると、空を見上げた。
「でも、雨が降ったらポチさんには不幸が降りかかるな」
「何故だ?」
 侘助はポチ左衛門の頭に手を載せた。
「雨が降ったら今夜のお月見は中止になるだろう。ということは、ポチさんお楽しみの団子とおはぎを食す会も当然中止だ。いや〜、残念だなあ。この俺が! 草むしりをしてしまったばっかりに! 雨が降るだなんて!」
 沈痛な面持ちで、けれどもとても明るく軽い調子で侘助は言ってのける。
「おのれ侘助! 私の今月一番の楽しみを奪うなど許さん! もう一回草を植えて来い!」
 高尚たる生き物は吠えた。ぴり、と黒い体から小さな稲妻が迸る。
「ええー……」
 咄嗟に手をひっこめた侘助が頬を引きつらせた。
「当然の義務を果たしたのに今度は怒るのか。ポチさんの食い意地も困ったもんだなあ」
 ポチ左衛門の逆立った全身の毛を落ち着かせるように撫で、侘助は深く息を吐いた。
「草むしりに行ったのに草を生やしてきましただなんて報告しようもんなら、姉さんに団子どころか当分夕飯抜きにされるぞ……」
 空はすっきりと晴れ渡っている。空気はひんやりと涼やかで、時折吹く風は一筋の冷たさを含んでいる。
「侘助、とっとと帰るぞ」
 きりりと尻尾を立てると、侘助は「はいはい」と肩をすくめた。



 朝特有のしっとりと澄んだ気配を感じながら、家までの道のりをゆるゆると、時折景色に足を止めたりしながら歩く。
 ススキと紫苑が高い背をほっそりと並べ、竜胆や吾亦紅などの八千草が秋の野にほんのりと色を添えている。
 緩やかな坂道を下っていくと、分かれ道の目印である地蔵の足下に団子が供えられていた。
 夏から秋に移り変わる時は、燃え立つような生き物の勢いが静まっていくからか、どこか寂しいものがある。けれども静かな風情は気分を落ち着かせた。昔日の記憶の頁をふと捲り返したのもそんな空気の仕業だろう。
 それまで並んで歩いていた侘助をひょいと追い抜き、ポチ左衛門は彼を見上げた。
 来た道で曼珠沙華が天に向かうように背を伸ばし、赤い花をいっぱいに広げているのが目についた。
 まっすぐと注がれた視線に便宜上の頼りない主人は目をぱちぱちさせている。
「何だいポチさん」
「狩りに行くぞ」
「え?」
「狩りに行くと言ったのだ。お前も来い」
「削り節なら昨日買ってきたばかりじゃないか。姉さんちに借りにいく必要はないのでは」
「お前は先ほどから何を言っているのだ……」
 主人のとんちんかんな返答にポチ左衛門は半眼になった。
「兎を狩りに行くと言ったのだ」
 深いため息と共に断言する。
 が、便宜上の主人はポカンと丸く目と口を開いた。絵に描いた見本の如く、この上なく見事な間抜け面である。
「え? 刈る? 兎を? そんなに立派な毛並みなのに早めの冬支度?」
 無遠慮に侘助の目線がポチ左衛門の身体の線をなぞってくる。ポチ左衛門の黒く長い被毛は、このところの好天で陽射しをたっぷりと受けていたため、いっそう艶々としていた。
 尻尾を一振りさせ、ポチ左衛門は縦に大きく首を動かした。
「ふむ。私の毛並みが実に素晴らしいのが至極当然だとようやくお前にも分かったか。それは重畳」
「いや、そこまでふさふさもふもふぷくぷくもちもちしておきながら、これ以上首回りを暖かくする必要が一体全体どこにあるのかさっぱり分からん……」
 真顔で何やら無礼なことを告げてくる侘助にその高尚たる生き物は憤慨した。
「馬鹿者。もちもちは余計だ!」
「えー、気にするのはそこだけなんだ……」
 戸惑ったような侘助の声にポチ左衛門はまばたきを返した。
「先ほどからお前は何を言っているのだ」
「いやいや、ポチさんが唐突に兎を捕まえて毛を刈るとか冬支度するとか何とか言い出すからだろう?」
 侘助が深刻そうに眉をひそめる。
「だいたい、どこへ兎を捕まえに行くつもりなんだよ。東京なんかと比べたらこの辺もそこまで拓けているわけじゃないが、さすがに兎まではいやしないぜ?」
 彼は苦笑のようなものを顔に浮かべ、声の調子を下げた。
 風が通った。瞬く間に木々が白い葉裏を見せ、さあっと翻る。
「……先ほどからお前は何を言っているのだ」
「……」
「……」
 沈黙が降りた。
 お互いの顔をまじまじと見つめ合うこと暫し。いちいち質問を質問で返すな、とポチ左衛門は牙を出しかけ、はたと気づく。一向に話の内容が噛み合っていないのである。
「おい、この近所に兎がいるのか?」
「いや、さすがにいないんじゃないかって言いましたよね、俺。実はいるんですか?」
 二人の間に再び沈黙が降りた。彼らが黙したというよりは、周囲の空気そのものがそれを望んだようにも思えた。虫の声がいよいよやかましくなる。
「ちょっと待った」
 先に口火を切ったのは相手の方だった。
「ポチさん、兎とは」
 挙手をして主人が質問を寄越した。どことなく緊張を含んだ声だった。頷いて、ポチ左衛門は答えてやる。
「小型の動物。耳が長く、目が赤い。後ろ足が長く、よく跳ねる。冬毛はもふもふのつるつるふかふかである」
「いや、そうじゃなくて。何がどうしたら俺たちが兎を捕まえに行くことになるんだ?」
「愚問だな」
 こめかみを押さえながら問いを重ね続ける主人をポチ左衛門は鼻で一蹴する。
「今夜が十五夜だからに決まっているだろうが」

 しばらく間をおいてから、続けて聞いてくる。
「ええと、つまり」
「住んでいるのだろう、あそこには」
「……あー、それってもしや月の兎だったりします?」
 首肯してやると、侘助は腹を抱えてしゃがみ込んだ。小刻みに肩を震わせているので、背をさすってやる。
「どうした、腹でも痛むのか」
「……ふははは、やー、今は別に! た、たぶん明日の午後辺りには頬と腹筋が鈍く痛むだろうね!」
「なるほど、遅行性の病か」
 ひとしきり肩を震わせ、侘助が息も絶え絶えに言う。
「やはははは。いやー、ポチさん、お目が高い。月の兎をご所望とは」
「だって、兎だぞ? それも月の。もふもふでつるつるふかふかに違いないし、よく跳ねるのだ。見てみたいだろうが。一路――お前の祖父だって見たがってたんだぞ!」
 尻尾が上向きに揺れてるなあ、と侘助が目を瞬いた。
「まあ、おじいさんの念願だったのなら俺も何とかしたいけど。だいたいどうやって月まで行くつもりなんだい。ちょっとそこまでって距離じゃないぜ? 晩ごはん食いっぱぐれるぞ」
 口元を震わせながら侘助がやんわりと告げてくる。ポチ左衛門は尾をぴんと立て、自信たっぷりに頷いてみせた。
「そこは侘助、お前が魔術でちょいちょいとだな」
「え、俺が?」
 虚を突かれたように、間の抜けた声を侘助があげる。ポチ左衛門は、この冴えない魔術師にも分かりやすく噛んで含めるように説明した。
「そうだ。まあ、お前の貧弱な魔力だけでの術式の展開は心許ないだろうから、特別に高尚たる生き物である私の魔力を貸してやっても良いぞ。物質転移の術があるだろう。お前、あれを応用して月を引っ張ってこい。ああ、そうだ。月には薪を永遠に切り続けている男とそのお供の犬がいるだろう。今夜の団子を分けてやると良い。甘いものは疲れに効く」
 そこまで言いかけて、ポチ左衛門は言葉を切った。目をぱちくりしてから、再び声をあげる。
「……うん? どうした?」
「やー、高尚たる生き物であらせられるポチ左衛門様のお望みとあらば、叶えて差し上げたいのも山々なんですがね。たぶん無理じゃないかなー」
「何故だ」
 いい質問ですねえ、とでも言うように侘助が顎をしゃくった。やや大きな仕草で人差し指を立てると、種明かしでもするように答えてくる。
「月の大きさについて、ずーっと昔の偉い学者さんが三角比やら何やらで計算した値によりますと、この俺たちが住む地球の四分の一の大きさなんですよ。それでも俺の家の大きさの何倍なんてものじゃ……やめよう、これ以上は悲しくなる。まあ、仮にこの優秀な俺の華麗な物質転移の術式で引っ張るのに成功したとしても、狭い我が家でその辺に月を転がしてまったり兎探索なんて無理ですな……」
 そこまで一気に講釈すると、侘助はこちらの瞳ををまっすぐ見下ろした。こちらの質問や反論を待っている素振りである。これは彼が学校で教師をしていた時の癖というか、習慣のようなものである。
 ポチ左衛門は長々と沈黙を吐き出し、体の向きを変えた。
「あれ? おーい、ポチさん?」
 背後から――徐々に遠くなっていた背後から、祖父不孝者の戸惑った声が聞こえてきたりもしていたが。月の兎を一路の墓前に供える計画があっさり潰えた今、気にする必要はない。
 物質移動よりも空間転移の魔術式ならばまだ望みはあるだろうか、否、この頼りない現在の主人でそれを扱うのは無理だろうな――などと考えながら、ポチ左衛門は足早に進んでいった。




「まったく。侘助に朝から草むしりをさせるなど一体何の嫌がらせだ。ついこの間したばかりだろうが」
 雨が降ったらどうしてくれる、と腹這いになったままポチ左衛門はぶつくさ悪態をついた。
 侘助は店の仕事があるとかで、家に帰るなり閉じ籠ってしまった。侘助やその祖父と同じような魔術師相手の器具や薬品、一般客向けのちょっと便利な魔術を施した品々を取り扱う店である。元々は彼の祖父が開いたという話だが、父親だけでなく、姉も兄も継がなかったため末弟の侘助が貰い受けた。
 普段から客足はほとんどないような店である。万年閑古鳥が鳴いていると近所でも専らの評判だ。そういうわけで、月の兎捕獲計画を立て直そうとポチ左衛門は帰るなり持ちかけたのだが、やんわりと店主に追い出された。曰く、「今日はお得意さんが来る日なんだよね」である。
 お得意さんとは、侘助やポチ左衛門と同じ側に属する――魔術を扱う――存在であった。魔術を仕込んだ「商品」や魔術を扱うための「道具」を注文したり、「研究」について、侘助ととりとめのない話を交わしたりする店一番の上得意客である。ぱりっとした上等な背広よりも、何故だか口元のカイゼル髭の印象ばかりが記憶に色濃く残る男である。
 侘助にとってもポチ左衛門にとっても良い客であるはずなのだが、残念なことに、彼にとってポチ左衛門は天敵でしかなかった。子どもの頃に尻を噛まれたことがあったとかで、犬を見ると冷や汗と震えが止まらなくなるのだ。もちろん、彼はポチ左衛門が犬ではない生き物だと知ってはいる。けれども、その姿を視界に入れるとどうしても犬に似た(正確には、犬の方がポチ左衛門のような高尚たる生き物に似ているのだが)生き物としかとらえることができないのだ。そんな事情もあり、彼が店を訪れる日はいつもポチ左衛門は外へ追い出されるのだ。
 侘助の姉夫婦の家で昼ご飯を食べ終え、しばらく時間が過ぎてもポチ左衛門の腹の虫はおさまらない。
「あら、この間も何も草むしりしたのはもう一月も前でしょう? 来年の夏によりいっそう励んでくれるのならば別に無理強いはしなかったけれど」
 夏場の草むしりはさぞかし暑くて大変でしょうね――と侘助の姉の清香はおっとりと首を傾げた。
 侘助が暑かろうが寒かろうがポチ左衛門にとっては些末な事柄である。今晩に雨が降るかどうかの方が深刻な問題なのである。
「だいたい、ボンだかぼんじゅーるだか知らんが、その時にお前たちの祖父も先祖も来たのだろう? また会うのか。まったく。お前たち人間は忙しない生き物だな」
 眠りについているところをしょっちゅう起こすだなんて迷惑極まりない行為である。ポチ左衛門が呆れて深く息を吐き出すと、清香が静かに返してきた。
「お彼岸の間はあちらとこちらが近くなるのよ。だから今度は私たちが出向いて会いに行くの」
「叔父さん、迎え盆の時は長ーい足のお馬さんにしてたのに、送り盆の時はすーっごく短い足にしてたよね。ポチさんみたいにお腹と地面がくっつきそうな」
 明るく弾んだ声が台所に響いた。清香の娘、つまりは侘助の姪の小鶴が口を挟んできたのだ。少女は、月見団子を食べやすい大きさに丸める仕事を母から仰せつかり、小さな手のひらで懸命に転がしていた。
「おい小娘」
 聞き捨てならない不名誉な言い様にポチ左衛門が目くじらを立てると、少女はくすくす笑いながら母の背に隠れた。甚三紅の生地に描かれた露芝文様の裾が翻る。
 睨み付けると、その母親の目が無遠慮にポチ左衛門の身体をなぞった。その鋭い目線にポチ左衛門の全身の毛が逆立った。
「確かに最近お腹周りの肉付きが良くなって来たような? ポチさん、ご飯のおかわりは控えた方が――」
「た、確かに! ボンの始めは足長で、終わりに侘助が作ったものは滑稽なくらい短足だったな! この高尚たる生き物である私とは全く似つかない足の短さだったが!」
 穏やかならぬ方向に前進しそうな気配を、ポチ左衛門は全力で阻止した。
 この土地では、夏に死者の魂が我が家へ帰ってくるのを迎える風習があるのだという。あちら側すなわち彼岸から彼らが行き来する際の乗り物を、こちら側の此岸に残された者たちが用意するのだ。胡瓜や茄子に箸で足を作ってやり、馬や牛の使い魔として使役するのがスタンダードらしい。
 およそ魔術師ではない者たちがせっせと使い魔を作る姿は何とも奇妙な光景であった。
 ほんの一月前だが、茹だるような暑さの中、昼行灯の侘助がいつになく張り切って使い魔を作っていたことをポチ左衛門も思い出した。それは、足が長すぎたり、短すぎたりと酷く不格好な形であった。
「そういえば、あれはエス何とかだかいう動く階段を作って迎えようと言っていたな」
「ポチさん、エスカレーターだよ」
 春に学校に上がって以来、落ち着きというものをいくらか学んだらしい一年生の少女がやんわりと指摘してきた。
「そうだ、そんな名前だった。あれは上野の博覧会で見たとかいう、えすかれーたーに随分心酔していたからな」
「うん。でも、叔父さん、おかあさまに止められてたね」
「当然です。食べ物で遊ぶだなんて許しません」
 ぴしゃりと清香が断言した。手に持った包丁が夕陽を受け、妖しく煌めいている。煮物用の里芋の皮を剥いていたのであった。
 ポチ左衛門の頼りないことこの上なしの便宜上の主人・侘助は、この夏まで上野で開かれていた大博覧会に登場した動く階段「エスカレーター」にすっかり心奪われたのであった。博覧会が終わってもその熱はまだ収まっていなかったらしい。彼は馬の使い魔だけでは飽きたらず、胡瓜でエスカレーターを作って祖父の魂を迎えようと企てた。常にぐうたらしている主人にしては極めて珍しいことに、尋常ではない速度で精巧な設計図を書き上げた。
 おじいさんも絶対気に入るはずの乗り物だから――とその黒い瞳に強い光を宿していたのは記憶に新しい。
 が、その壮大な野望は姉の微笑みで幕を下ろした。曰く、食べ物を粗末にするなら当分ご飯抜きですよこの愚弟――である。
 清香の目付きが険しくなった。手にした布巾を素早く畳み、
「あの子はおじいさまに誰よりも懐いていたものね。だから早めに来てもらって、ゆっくり帰ってもらいたかったのでしょう。それは分かるけど、一体何本の胡瓜を使い倒す気だったやら」
 河童じゃあるまいし、と大きく息を吐き出した。
 この島国の河に棲む精霊の一種だ。頭に皿を乗せた彼らは胡瓜をこよなく愛し、とても泳ぎが上手いのだという。ひょっとしたら歌も得意かもしれない。かつてポチ左衛門が居た土地に古くから棲まう水の乙女のように。
 ちなみにポチ左衛門は河童とやらにはまだ会ったことはない。
「侘助の愚行はともかく、死者の魂をその目で見ているわけでもあるまい。それなのに、もてなして送るとはいつもながら何とも不思議な風習だな」
 彼ら人間は視覚情報にひどく頼る生き物なのだ。だからカイゼル髭の上得意客もポチ左衛門が一歩足を踏み出せば、犬嫌いの彼は三歩後ずさるのだ。
「そうかしら」
 そのぼやきに、清香は娘とお揃いの単衣の袂を翻して振り返った。
「いないけど、いるものだから」
 小鶴の丸い頬についた上新粉を細い指先で丁寧に払い、母は柔らかに微笑んだ。
 台所に差す陽が次第に傾き、室内は橙色に染まり始めた。うつむく視界の端に見える淡い橙の光が美しい。



 視界いっぱいに珊瑚色が広がっている。差し込む陽は緩く、穏やかに縁側を満たしていく。

 ――いないけど、いるものだから。

 かつて少女だったその娘はすっかり母親らしい顔をして笑った。
 そういえば、娘の祖父――ポチ左衛門の主人も細君を亡くした時にそう言っていたことを思い出す。寂しさを滲ませているようで、けれど、とても穏やかな微笑みをそっと浮かべていたのをよく覚えている。
 ポチ左衛門が亡き主人を思い出す時に真っ先に脳裏に浮かべるのは、その時の微笑みと、満月の照らす縁側でポチ左衛門の頭をゆっくりと撫でる骨ばった指だった。
 彼は主人の静寂にそっと落とすような表情を思い出す。大きな感情の揺れを映さない静かな微笑み。離るかたへ去った彼はもういない。けれども、彼の思い出は静かに、波のように緩やかに、こうして世界に夕陽が満ちるように緩やかに温かく、ポチ左衛門の胸を満たしていく。
(いないけど、いる)
 空の上辺が段々と藤色に変わり、辺りには夜の気配が漂い始める。足元には橙の陽が落ちている。空の端が群青に染まる頃になっても、ポチ左衛門の胸には変わらずに夕陽の橙が灯っていた。



 細長い俵型の餅が、柔らかな餡に包まれて皿の上で鎮座している。春の彼岸でもよく似た丸々とした餅を食べるが、そちらは牡丹の花にその形をなぞらえ、一方で秋にお目見えするこの細長い形のものは萩の花に似せているのだという。春の餅は「ぼたもち」、秋の餅は「おはぎ」と呼ぶのだそうだ。
 この秋に収穫されたばかりの小豆のつぶ餡が、つやつやと月明かりを受けて光っている。
 その隣の大皿に載せられているのは、小鶴が丁寧に丸め、一つ一つをその母親が茹でて作った月見団子であった。ほんの少しだけくぼんだ団子は、やはり月光の下で四角錘状に積み上げられている。
 空は藍色の帳が下り、星は静かに瞬いている。秋の夜空は空気が澄んでいるからか星も清明な輝きを放っていた。
 縁側から見上げる秋の宵闇の静けさを、その高尚たる生き物は気に入っていた。
「叔父さん叔父さん」
「何だい、こづさん」
 姪の愛称を呼び、侘助は相好を崩した。こてんと首を傾げ、小さき者が尋ねた。
「今日のポチさんはどうしたの? ずーっと横になったままだよ。お腹が痛いのかなあ」
「いや、どちらかというと痛いのは胸の方だろうねえ」
「ふうん? よしよし、かわいそうに」
 小さな手のひらが、ポチ左衛門の頭の上を滑った。
「私は秋のこの静かな空気を全身で味わっているのだ。よって、お前のような小さき者の慰めなど一切無用だ」
 鼻息を出し、そっぽを向く。尻尾が動いてしまうのはどうしようもなかった。
 難しげに顔をしかめ、小鶴は縁側の外に投げ出した足を揺らした。
「叔父さん、ポチさんがよくわからないこと言ってるよ」
「まあまあ、腹が膨れれば機嫌が直るから。そっとしておいてやりなさい」
 左から聞こえてくる、可笑しさをこらえたような主人の声は無視する。
 腹いせに右側に体をずらしてやる。きっちり一人分の間を空けて座っていた右隣の男が座ったまま飛び上がった。
「何ですかポチさんこの私にご用ですかそうでないならそのままの姿勢でいた方が腹が空かなくて良いですよぜひそうして下さい!」
 カイゼル髭の得意客が、一息に引きつりまくった声をあげる。もう一歩分そちらに近寄ってやると、彼は「ワア」と間抜けな声をあげてひっくり返った。ご自慢の背広も髭もすっかり形が崩れていた。
「こらこらポチさん。徳井さんをいじめるな。大事なお客様なんだぞ。お土産まで持ってきてくれたんだ」
「ハットリくん!」
 侘助が彼に手を差し伸べ、徳井に思い切り笑いかけた。
「で、何を持ってきてくれたんですか?」
「ハットリくん……」
 徳井が頬を引きつらせまくった。
 結局徳井は自力で立ち上がり、ポチ左衛門から今度はきっちり二人分の距離を取った。髭と襟を丁寧な所作で正すと、彼はトランクから一升瓶を二本掲げて見せた。
 丸いビー玉で栓をされた硝子瓶が月光を透かす。
「ラムネだよ。服部先生がお好きだっただろう?」
 徳井は侘助の祖父の弟子だったのだ。

 湯呑いっぱいに注がれたラムネ水に満月が映り込んでいる。舌先でしゅわりと淡く溶ける清涼な水は味わうごとに嵩を減らし、ラムネの海に浮かぶ月もまた徐々に小さくなっていく。月を食っているような心地がする。
 ラムネとおはぎと月見団子。奇妙な取り合わせだが、服部一路はラムネ水の弾ける爽快な味と、いっぱいに頬張ると「幸福な気持ちになれる」餅と団子をことのほか好んで食べた。
 ポチ左衛門も腹這いになって、かつての主人の幸福を象徴する餅と団子をじっくりと噛みしめた。
 邯鄲の夢見るような羽音や蟋蟀のひっそりと奏でる音が耳に澄み渡る。
「ポチさん」
 ぽんぽん。ポチ左衛門の頭を優しく叩き、侘助は満腹のもたらす幸福感に微睡み始めたポチ左衛門の隣に再び腰を下ろした。
 黙したまま瞳を向ける。すると、如何にもこれから悪戯をしますよと言いたげに瞳を輝かせた。彼の骨ばった人差し指が、ポチ左衛門の鼻先にある月見団子に向かい、くるりと綺麗な円を描いた。
 すると、団子はむくむくと大きくなり、体を重そうに持ち上げた。赤く透き通るような瞳が開き、夜空とポチ左衛門との間を行き来し始める。その間にも体はまるまると膨らみ続け、小さな毬のようにまるまった尻尾を生やし始める。
 固唾を飲んで見守っていると、それはついに長い両耳を立てた。
 そして――ぴょんと皿の上から月に向かって大きく跳ね上がり、庭の茂みの向こうに消えていった。

(この孫があまりにも頼りなく、それでいて時々突拍子もなく阿呆なことをやらかすから一路の代わりに見ていてやろうと思ったんだったな)
 
「まったく」
 ポチ左衛門は大層呆れた。という風を装って、けれど咎めるつもりはなく、深々と息を吐いてからこう言った。
「お前は本当に仕方のない奴だな、侘助」
 これには侘助もすっかり面を喰らってしまったのか目を丸めた。彼の視線を辿れば、己の尻尾が揺れ動いている。
 ポチ左衛門がじっと睨みつけると、侘助はさっと目線を外した。柳に風だ。けろりとしている。それでもやはり気になるのだろう、懲りずにやかましいほどの眼差しを寄越してくる。
 何だか可笑しくなってしまい、また尻尾が上に跳ねそうになった。それを誤魔化すようにポチ左衛門は立ち上がる。
 侘助は観念したかのような声で
「いやはや本当に。面目ない」
 そう笑った。
 この家にはまだ頼りない後継がいる。そういうことでしばらく良いのだ。


月に跳ねる





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  1. 墓参りアンソロジー《Epitaph》WEB様への参加作品でした。