開けた戸から冬の陽が差し込んでいる。それが掃除したばかりの塵一つない玄関をやわらかく照らす。向こうに見える梅の枝の先はまだ硬い。
 再び視線を下ろす。晴れやかな笑顔が三つ並んでいた。背の高さも髪の長さも目元の調子もてんでばらばらな三人組である。
 さよならの手のひらを彼らに向けるのは今日が初めてではないし、最後だというわけでもない。だが、学び舎ではなく自宅でそれを作ってみせるのは不思議な心地がする。
 丸い瞳を向け、元教え子たちが明るく笑いかけてきた。
「それじゃあ、かるた王、またね。明日は双六持ってきてあげるから」
「ああ! 前に服部先生がぼろ負けしたあれかあ!」
「あの時の先生、見たことない顔してておもしろかったよねえ。代わりに今日のかるたは本気出してくるし」
「君たち、明日も来るつもり?」
 侘助はため息を隠さず、今年一番の渋面を作ってみせる。
「正月くらい休ませてほしいなあ……」
 三が日は建前も休みだ。本音丸出しで言ってみれば、背を代わる代わる叩かれた。手のひらは三つとも侘助が教鞭を執っていた頃の記憶よりも大きく、骨格も太くなってきているようだ。要するに、当たった部分が痛い。
「何言ってるのさ」
 無邪気にきょとんとまばたきをした彼らが続けて言ってくる。
「先生はいっつも働いてるのかよくわかんないんだから正月くらい働いた方が罰も当たらないって」
「そうだよー。うちの父さんと母さんが言ってたよ。正月の間は先生の店には客なんて来ないに決まってるから、先生が干からびてないか時々様子みてあげた方が良いんじゃないかって」
「うちも同じこと言ってた」
「うちもうちも」
 庭の草木に水をやっておいてやれ、というのと同じ調子で言われているらしい。父母たちの間に浸透した元担任教師への誤った認識を今年こそ解こうと侘助は固く心に誓う。
「ああもう帰った帰った!」
 朗らかに清らかに心の内角を殴ってくる三人の背中を力いっぱい押し出しにかかる。
 ひょい、と首をすくめ、彼らが半眼で言い返してきた。
「服部先生大人げないぞ」
「そういうこという人には明日はみかん持ってきてやらないからね。あとさっき貸してあげたレコード返して」
「俺も先生の分だけは餅を持ってくるのやめまーす!」
「君たち、また明日! 気をつけて帰るんだぞ! お父様お母様にくれぐれもよろしくな!!」
 髪を軽く掻きあげて、白い歯を煌めかせる。けれども、返されたのは随分乾いた眼差しだった。

 三人をようやく送り出して戸を閉める。鼻先に残る風の冷たさに身が縮む。袖の中に指を引っ込め、念願の炬燵への帰還を果たした途端、縁側から元気な良い子の声がした。
「叔父さん! ポチさん!!」
 今年初めて縁側に現れた姪は開口一番、近所の神社に行こうと言い出した。
「これはこれは、こづさん、昨日ぶりだね。新年おめでとう」
 元学校教師として丁寧に挨拶の教育指導を行えば、
「おめでとう! 叔父さん、ポチさん、暇でしょう? お昼ごはんもまだでしょう? お宮に行こう!」
 あっさり打ち返された。
 父方の祖父母の所まで挨拶に行った帰りなのだろう。小鶴は真新しい晴れ着に身を包んだままだった。やわらかそうな薄紅色である。それが裾の方に向かって、徐々に濃く、紅梅色になっていく。少女がわたわた腕を動かすのに従い、白く染め抜かれた蝶がひらひら舞い、新春の陽光を散らす。
「今ならたい焼きが一人一つまでもらえるんだって! 叔父さん、行くよね?」
 この小さな春の使者は北風を連れてくるせっかちの上に、だいぶ食いしん坊で商売っ気も逞しい。
 綿入れ袢纏の下で腕を組み、男はやんわりと断りを入れた。
「叔父さんは寒いところに長くいると風邪を引いてしまうんだ。悲しいことだけど」
「……それはお前に限ったことではないだろう」
 炬燵から這い出た黒い毛玉が何か言ったようだが、それは無視。
 小鶴は一瞬きょとんとして、
「叔父さん、そんなに寒いならマジュツでぱーっと何とかしたらいいのに」
 そしたら甘酒も飲みに行けるでしょう、と笑顔で名案だとばかりにうなずいた。
 腕組みをし直して、侘助は静かに笑う。
「残念だけど、ぱーっとはやれないなあ。魔術には制約があるんだ。色々とね。ポチさんのように大層丸くて立派な生き物ならばともかく、叔父さんみたいな魔術師がむやみやたらと自分の欲を満たすためだけに使ったら、そうだな――次の冬は越せないだろうねえ」
「……ふうん、使うにはきちんと考えなくっちゃいけないんだね」
 姪は憂慮するような目をしたが、侘助は笑みを浮かべたまま小さな頭を撫でた。
「おい、オミヤには店が出ていると言ったな」
 先ほどまで居た教え子たちに背も頭ももみくちゃにされ、不機嫌極まりなかった毛玉がのそのそ近寄ってくる。どう見ても腹は縁板に近い。とてつもなく。
「うん。花びら餅がふわふわのもちもちでねえ、あったかい甘酒でしょう? あとはホクホクのたい焼きと醤油煎餅もおいしいんだよ」
 毛玉の耳がピンと立ち、尾がそわそわと動き始める。かるた王のみかんを散々横取りした割には旺盛な食欲である。
「よし。小娘、私を無事にえすこーとできたら褒美にたい焼きを買ってやろう。ここに魔法の財布があるのだ」
 よく見たことのあるくたびれた財布を前足でちょんと押し、毛玉ことポチ左衛門が誇らしげに鼻を天に突き上げた。
 侘助は全てを悟り、懐を探る手を止めた。顔を上げ、視線を引き締め、きっぱりと告げる。
「君たち、その魔法の財布は非常に危険だ。使い方を誤ると命取りになる。――そう、叔父さんのね」
 返事はない。薄紅色の小さな背中と犬に似た巨大な黒い毛玉の姿は既に遠い。
 侘助は袢纏の上に外套を引っかけ、でこぼこな背格好の二人を追いかけた。
 吹きつける風はどこまでも冷たく、魔法の財布の行く末を暗示しているようで侘助は身震いした。






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