その日、ウォルサムの浜辺では青空教室が開かれた。
 特別講師はウォルサムの気さくな壮年の男性たち。彼らはこの港街生まれの船大工で、浜辺のそばで工房を営んでいる。
 生徒は講師曰く、外遊びをろくに知らない都会っ子。サティにジーク、ベルの三人である。共に聖都ファティマ育ちの三人組は、ひょんなことから焼き立てほやほやのイワシを振舞われ、炭火焼きについて学ぶこととなったのである。
 講義によると彼らの炭火焼きはイワシを串に刺して塩を降り、舟の形をした炉の中に砂利を敷き詰め、オリーブの炭でじっくり焼くものなのだという。とてもシンプルな製法である。
「同じ焼き魚ならフライパンで焼いても良いのではありませんか?」
 そちらの方が早いし楽ちんですよね、とサティが手を挙げて尋ねる。
 すると、彼らはもう一本焼き上がった串をサティに手渡しながら口元を緩めた。
「分かってないなあ都会っ子は。ほれ、もう一本じっくり食べてみろ」
「そうとも。都会っ子よ、考えるんじゃない、感じるんだ」
「あ、どうも……」
 都会っ子呼ばわりに少々眉をひそめるサティであるが、咀嚼するごとに口内に広がる味わいに些末なことは溶けていく。
「皮はパリッとしているのに、中はふっくらしていて美味しいですね……」
「正解!」
「わあ」
 途端、わしゃわしゃと特別講師たちに代わる代わる頭を掻き撫でられ、サティは悲鳴じみた声をあげた。
 潮風がそよぐ中、乱れた髪を整えるこちらを全く気にかけず、彼らは胸を張った。
「そうとも。適度な皮のおこげ。身のほかほかふっくらとした食感――都会っ子よ、これが炭火焼きだ!」
「なるほど、輻射熱か」
 ジークの感嘆するような声にサティは首を傾げた。ベルも目をしばたたいている。
「ふくしゃねつ?」
「熱というものは、熱い方から冷たい方へと移動する性質を持っている。これを熱伝導というのだけれど、移動する方法には三つあってね。対流・伝導・輻射というんだ」
 串を軽く振りながら説明を始める幼馴染にサティはまばたきを繰り返す。
「対流というのは、加熱された物質が流動して熱が移動するということだ。たとえば……そうだな。やかんだよ、やかん」
「やかん、ですか……」
 しゅんしゅんと注ぎ口から湯気が湧き出る円柱のシルエットを思い浮かべ、サティは緩慢に繰り返す。
「うん。やかんで湯を沸かす時に熱を加えるのは、底の部分だけだろう?」
 黙したまま頷く。サティの知る限りでは、やかんは火元である竈の上に載せて湯を沸かすものである。直接火にかけられているのは、やかんの底部である。
「湯は全体がほぼ同じあたたかさで上昇していく。これは、底部が熱せられることで中の水が膨張して軽くなり、上方へ移動するためだ。その代わりに上方にある冷たい水が下方へ移動することで対流が起きる。それで全体があたたまるというわけだ」
 説明を続ける幼馴染の声は弾み、紺碧の瞳は上機嫌に躍っていた。
「次に伝導。これは、熱しているところから順に熱が伝わるということだ。熱しているところに近いほど熱は速く対象に伝わっていく。これはさっきサティが提案したフライパンが一つの例として挙げられる。そして――」
 ジークの紺碧の眼差しに一瞬、強い光が宿る。
「最後が輻射だ。これは放射とも言うのだけれど、周りよりも温度の高いものから出た熱が空気中を通って直接届くことなんだ」
 す、と彼は人差し指で空を指す。
「太陽がそうだ。たとえば、今日みたいによく晴れた日や夏に地面や建物の壁面に近づくと暑く感じるのも太陽熱の輻射によるものだ。それに、その舟の形をした炉もそうだね。熱はまっすぐに進み、ものに当たると反射または吸収され、再び熱に変わる。それが輻射だ」
「うーんと、つまり、鍋料理は対流熱、フライパン料理は伝導熱、炭火料理は輻射熱によるもの……ということですか?」
 彼の講釈に従えば、鍋はその中にある湯や油・蒸気による対流熱によるもので、フライパン料理は熱せられた鉄板から熱が伝わる伝導熱によるものということになる。
 サティが首を傾げれば、隣のベルもなるほど、というように首を大きく動かした。
「……鍋やフライパン料理は、熱源から発生された輻射熱によって空気が熱せられて対流し、その空気による対流熱か伝導熱かの違い、ということだな」
 ベルが捕捉したように、最終的にはサティの言うようなおおまかな区分になるのだろう。
「何だか食材に火が通るまで遠く感じられますねえ」
 お腹が空いてしまいます、とサティが肩をすくめると、ジークも深々と頷いた。
「うん。それが炭火焼きの肝だ」
 言って、ジークは炉の中を指さした。彼の所作に従い、サティとベル、特別講師たちもそろって覗き込む。
「炭の横にあるイワシは、炭の輻射熱だけで焼き上がる」
 彼はそのうちの一本を取り出し、すぐ近くにいたおじさんにイワシを割るよう指示を出した。
 パリッとした音と同時に皮が裂け、じゅうと柔らかな蒸気が立ち昇る。そして、ふっくらと艶のある身がお目見えした。
「炭から発生した輻射熱は、直接、表面組織を素早く均一に焼き上げてイワシを硬化させる。それと同時に内部にうま味を閉じこめ、それを外部へ逃がさない。その働きのおかげで皮がパリッと、中がふっくら焼き上がり、二つの食感を味わえるというわけだ。それが炭火焼きのうまさの秘密なんだ」
 ジークの説明に特別講師たちが瞳を輝かせた。更に串を取り出して、こちらに差し出してくる。
「そうとも。その少年が言うように、素早く火が通り、中まで焼けるから臭みがなくなるのさ」
「そうそう。更に燻煙の効果もあるぞ」
「くんえん?」
 きょとんと眼を瞬かせる少女におじさんたちは肩を揺らした。人差し指を立て、闊達に笑いながら説明してくれた。
「じわじわじっくり焼き上がるイワシの脂が炭火に落ちるとな、そこから煙が発生するんだ」
 三本目の串を頬張りながらサティは炉の中へ視線を伸ばす。
 ぽたり、とイワシから脂が炭に滴り落ち、ゆっくりと湯気がくゆるのが見えた。
「この煙がイワシに味付けをしてくれるというわけさ」
「そういえば、チーズやベーコン、スモーク・ジャーキーなどは香りづけにブナやリンゴ、クルミが燻煙材で使われるとおれも聞いたことがある。香りも炭火焼きには大事な一部なのだな」
 ベルが唸るように言えば、
「そうだとも。この辺じゃ、オリーブの炭を使うのが主流だな」
「目の前の海で獲れた新鮮なイワシを、太陽と青空の下、このウォルサムの大地で育まれたオリーブと天然塩で頂く。それに勝る贅沢はないね」
 雲が切れて日が浜辺に降り注ぐ。白い陽射しは、おじさんたちの顔を明るく照らしていく。潮騒に混じるように笑い声がさざめいた。
 海風が撫でるように吹く。風に揺れる髪を耳にかけながらサティは眩しいその笑顔を見つめた。






緊急青空教室