「各地のブルームーン観測会」
「惑星のひずみを利用した世紀のスプーン曲げ大会」
「ホークエクスプレス誕生から五十年――記念メダル予約開始」
 目の前の見出しがくるりと回転した。
「あっ」
 思わず声が漏れる。その拍子に面積が半分になった新聞の横から紳士が顔を出し、目を丸くした。おや、とでも言うように彼は砂のような色合いの片眉を上げた。
 アリオールもへらりと笑ってやり過ごす。
「まもなく銀河第七ステーション、銀河第七ステーションです。スワンエクスプレスにご乗車の方は、こちらでお乗りかえください。お降りの方はお忘れもののないよう、お手回り品をもう一度ご確認ください」
 ガタンゴトンと規則正しくリズムを刻んでいた列車は、アナウンスを合図にゆったりと速度を落とした。
 辺りの空気がにわかに騒がしくなる。
「そうだ、君はここで降りるんだったね」
「はい」
 アリオールが頷けば、向かいの紳士は新聞を丁寧に折り畳んだ。彼の立ち上がる所作に従い、ややくたびれたモスグリーンのジャケットが翻る。
「おや。なかなかの重量感」
 上方の荷物棚から小振りのトランクを一つ持ち上げると、首を一瞬捻った。が、その榛色の瞳はすぐにゆるゆると細まる。
「休暇のお楽しみもたくさん入っているからだな。どうぞよい休暇を」
「ありがとうございます」
 アリオールも紳士に笑いかけ、トランクを受け取る。
 夏季休暇シーズンに入ったばかりだからか、真っ昼間にも関わらず、各駅停車であるこの車内は混雑していた。アリオールのようにトランクや大きな鞄を大事そうに抱えている者もいれば、窓の外に広がる星の海原に目も心も奪われている親子や兄弟連れがいる。
 天の川のほとりを走る銀河鉄道。レールはどこまでも細く長く彼方へと続く。乗客たちは車窓から紅玉や青玉、琥珀玉のように煌めく星々の瞬きを眺め、目を和ませるという。
 ――営業で毎日飛び回っていると、そう珍しくもないけどねえ。
 相席の紳士はそう苦笑していたが、アリオールの目が車窓に吸い寄せられる度に、あの赤いのがルブス星、この星とあの星とその星を線で結んだのがオリュザ座だよ、と朗らかに解説してくれた。
 仕事で星々を巡るうちに、彼の脳内に所蔵された星の事典はページどころかシリーズを順調に増やしたらしい。
 ――ビジネスを円滑に済ませるにはこうした豆知識も必要なのさ。
 紳士はそう笑っていたが、最近は決まったコースばかりでさすがにネタ切れしそうなのだと疲れたように零していた。大人もなかなかタイヘンな生き物なのだなあとアリオールもつられて息を長く吐いたものである。
 けれども、今日の日記に書く内容が手に入ったのだ。彼はその親切な企業戦士に感謝した。夏季休暇に課される恒例の日記だが、まもなくミドルスクールに上がるアリオールや同級生にとってはなかなか難儀な代物なのである。
 何故ならば、彼らの学校はクラスも担任教師も持ち上がり制であるために同じネタを使い回せないのだ。
 アリオールが祖父母の住む星に遊びに行くのは毎年恒例のイベントであるし、一人で銀河鉄道に揺られて向かうのも今年でもう三回目だ。そういうわけで、紳士から聞いた星々を巡る仕事の話はとても興味深いものであった。


 第七ステーションに降りたアリオールが最初にしたことは、巨大なため息を吐くことだった。
 チケットを指で摘まんで泳がせ、彼はもう一度相手に確認をした。白地に施された銀の箔押しが光を弾く。
「それじゃ、ものすごく出発時刻が変わるってことですか?」
「はい。現在、当駅の二つ隣の第五ステーション近くに非常に濃いダストスモッグが発生しておりまして、お客様がご乗車されるスワンエクスプレス号も運転を見合わせております……」
 ダストスモッグは、宇宙の細かな塵や埃が大量の砂をばらまいたように広がり、長時間立ち込めるダスト現象だ。銀河鉄道黎明期の記憶の色濃く残る置き土産――レール敷設時に回収しきれなかった欠片や破片が大半である――が、長い時を経て、その現象に乗って届くこともあり、近年問題視されている。視界を濃く暗く染め上げてしまうものだから、天の川のほとりを駆ける銀河鉄道はダイレクトに影響を受けるのだ。
「安全確認ができるまで運転再開の目処は立っておりません。大変申し訳ございませんが、出発までは当駅で待機中のスワンエクスプレス号にご乗車してお待ちください」
 カウンターの窓口係は淀みなく口上を並び立てた。
 口調こそ滑らかだが、浮かべたスマイルは何だかぎこちない。隣の窓口でも運転見合せについて沈痛な面持ちで伝えているし、後ろに続く列からもその悲報を嘆く声が次々と飛んでくる。何度も何度も同じ説明を繰り返してくたびれているのだろう。
「何かお困りのことはございますか?」
「困ったなあ。一日につき、イベントは一つまでにしてくれないと……」
 本日分の日記のネタが増えるということは、翌日分のネタ探しに困るということである。
「はい?」
 それまで淀みなく流れていた窓口係の声が止まった。死んだ魚のような勢いで輝きを失っていた相手の瞳が大きく見開かれる。つられ、アリオールもきょとんと瞬きを返す。
 が、沈黙はすぐに破られた。
 列の後ろから大きな咳払いが届けられたのである。
「あ、ええと、やっぱり何でもないです。ありがとうございました!」
 敵はダストスモッグであり、駅員にあらず。そそくさとアリオールは撤退を決めた。

 ごった返す駅構内をアリオールは溺れることなく、沈むこともなく、泳ぐようにすいすい進む。毎朝の通勤・通学ラッシュアワーの鍛錬の賜物である。――誇れるかどうかは正直なところ分からない。分からないが、彼は今のところ遠足のターミナル集合で遭難したことは一度もない。
 彼は学校に上がる前から何度もこの第七ステーションからスワンエクスプレスに乗って祖父母の住む星を行き来している。当然、スワンエクスプレスの待機するホームにも特にどうということもなく、あっさり辿り着いた。
 そこで待つのは白銀のボディに星明かりを受け、燦然と輝くスワンエクスプレス――のはずだった。はずだったのだが、静かに彼を待ちかまえていたのは、あかがね色の列車だった。
(ああ。駅で待機中はこういう色になるのか)
 アリオールは鉄道が趣味ではないため、そうした趣味を嗜む友人ほど鉄道事情にはそう明るくない。
 何となく、ポケットの中の乗車チケットを意識する。
 白地に銀の箔押しの銀河鉄道チケットは、単に煌びやかなデザインを施しているわけではない。列車が出発する十五分前になると、乗車を促すよう残り時間のカウントを表示し始める。また、持ち主が列車から離れた位置にいると、ホームに急ぐよう青白く発光して知らせる仕組みになっているのである。――煌めく天の川に目も心も奪われて数えきれないほど銀河鉄道に乗り遅れた一人の男が考案し、作り上げたものなのだという。まさに発明は必要の母である。
 そういう仕掛けがこの列車にも施されているのかもしれない。
 アリオールにチケットの仕掛けを教えてくれたのもクラスメイトだった。鉄道をこよなく嗜む彼らの話は、ビギナーのアリオールにも大変親切で分かりやすいものだった。――が。丸みを帯びたどっしりとした構えと愛嬌たっぷりのフォルムで安心感を与えるボディ。すらりとしたデザインと清廉な白銀を走らせた色合いで先進性とスピード感を具現化したボディ。どちらの列車デザインが優れていてどんなに素晴らしいのか。鉄道好きの友人たちの話は進めば進むほど過熱し、ついに爆発した。争いは争いを呼び、二つ隣のクラスの鉄道好きまで助っ人に現れたところでついに教師の制止が入った。結局、列車ボディの秘密が謎のままであったのは言うまでもない。


 鉱石灯が磨かれたばかりの飴色の床をぴかぴかと照らす。座席はチョコレート色の柔らかな天鵞絨で包まれていた。アリオールは目を丸くした。彼のよく知るスワンエクスプレスは瑠璃紺色のシートだったのだ。昨年の夏までとは随分と趣の変わった空間に少々面食らう。
(でも、まあ、ダストスモッグで足止めされているうちに慣れるか)
 トランクを抱え直し、ひとまず自分の座席へと向かう。
 足を進め始めた少年は、車内に広がる光景に目を疑った。
 すれ違う乗客が揃いも揃って眩いのだ。鉱石灯が新品なのかと天井を仰ぎ、更に目がちかちかした。
 大きな花飾りにリボンの乗せられた帽子。レースだかフリルだかをたっぷり使ったドレスの裾がひらひらと優雅に翻る。ぴかぴかの三つ揃いのスーツは、少年の目にも上等な生地と見てとれた。自分の父や星を巡る企業戦士のものとは全く異なる。皺どころか草臥れたところが一つもない。上品に結ばれたネクタイで輝くピンは紅玉や青玉が使われているようだ。マダムたちの胸元を上品に彩るのは薔薇のカメオブローチだった。
 惑星テレビジョンで放送される古い映画や祖父母のアルバムでしかお目にかかったことのない衣装を纏った紳士淑女の皆さんに、少年は縮み上がった。
 自身の履き慣れたスニーカーを見下ろし、彼は息を呑んだ。
 ――間違いない。自分は浮いている。
 トランクを両手で抱き、深呼吸を二、三回繰り返す。
「……なるほど。オールドファッションパーティー列車か」
 世の中にはホテルや列車をまるごと貸し切り、豪華な料理に舌鼓を打ちながら同好の士が愉快に語り明かすパーティーがあるのだという。古い映画やそれこそ鉄道を趣味として嗜む愛好家の催しもあるのだろう。
 銀河を渡り歩く企業戦士から聞いた星の話にダストスモッグによる足止め、パーティー列車――
 次から次へと降るように湧く日記用の話題に少年は感謝し、回想という形で明日と明後日の日記に綴ることを決意した。
 銀河鉄道チケットは依然として白いままだ。ダストスモッグはまだ晴れていないのだろう。窓口係の話では見通しは立たないということだから、少年には当分待ちぼうけの予定しかない。
(うんうん。つまり、これは社会見学だよな。あとで日記にも書くわけだし)
 アリオールはパーティー列車を散策することにした。

 トランクを両手で抱え込み、そろりそろりと車内を進む。パーティーといえば、ささやかな誕生日会くらいしか縁のない少年にとって、この列車に集った紳士淑女の出で立ちは華やかすぎて目が眩む。
 悲しいかな、意識しないように気を付ければ気を付けるほど紳士淑女の歓談を、耳が勝手に拾い上げていく。
「車窓から眺める星の瞬きはなんとも格別な美しさですなあ!」
「旅行をしながら美しい天の川をじっくり観賞できるなんて、なんと贅沢な時間なのかしら!」
 瞬間、まじまじとボックス席を見てしまい、帽子のフリルが爆発した(ように見える)ご婦人と目が合った。アリオールはひょいと頭を下げ、曖昧に笑みを浮かべてやり過ごす。
 ご婦人もまたアリオールに優しくスマイル一つを返し、爆発したフリルの帽子ごと車窓へ向き直った。
(なーんだ)
 先程の各停列車内で親子や兄弟連れが朗らかに交わしていた会話と大差ない。
 すっかり拍子抜けした少年はトランクをゆっくりと下ろした。
 安堵と緊張疲れの入り混じったため息と共に次の車両に続く扉を引く。

 肉の焼ける香ばしい匂いが立ち込める。色鮮やかな温野菜を添えた皿。花びらを集めてそっと重ねるように盛られたチョコレート菓子。次々とテーブルから立ち上る湯気。それらを満足そうに頬張り、平らげていく紳士淑女の皆さんたち。
 一際大きなシャンデリア型の鉱石灯が照らす空間は、食堂車だった。
 ぐう。
 目にも鼻にも腹にも刺激的な光景に、少年の腹の虫はあまりにも正直だった。
 昼食はサンドイッチセットにする予定だったのだ。スワンエクスプレス車内販売で注文できるそのセットは、食べ盛りの少年少女たちの胃袋にも財布にも優しいボリュームなのだ。
 そばのテーブルを思わず凝視する。ふくふくとしたマダムがナイフを入れたステーキ肉の厚さ。ふくふくとしたマダムのふくふくとした指先に鎮座する大きな紅玉の指輪。交互に見比べ、少年は荒ぶる腹を撫でた。
(鎮まりたまえ、鎮まりたまえ……)
 完全に招かれざる客である。だが、空腹である。とてつもなく。だが、夏休みの小遣いが一食で消え失せるかもしれない危機が、そこにはある。
 大きくかぶりを振り、アリオールは勇気ある撤退を決めた。ふくふくとしたマダムのステーキはもう一度見納めておく。明々後日の日記に挿し絵付きで綴るのだ。名残惜しいわけではない。断じて。
 が。
「いらっしゃいませ。メニューだけでもご覧になりませんか?」
 頭上から降ってきた声。トランクの影にウエイターの影が重なる。磨かれた黒い靴の足もとが目に入った。自分の影が縫いとめられたような心地を覚えながら少年は顔を上げた。
 皺のないパリッとした白シャツに染み一つない黒エプロンと黒ベスト。きっちりと撫で上げられた鳶色の髪。爽やかに降り注ぐスマイルに少年の撤退大作戦はあえなく失敗した。ぎくしゃくと笑みを返し、メニュー表を受け取る。
 弥明後日の日記に目玉の飛び出る価格の豪華料理メニューを克明に記録すべく、意を決して覗き込む。
「おお……」
 アリオールは目を瞬いた。
 想像していたよりもゼロの数が少ない。ふくふくとしたステーキも何やら舌を噛みそうなくらい長い名前の料理も少年少女たちの小遣いには打撃を与えるが、休暇分が全部まるッと消えるほどの深刻さではない。
 そして――
「スペシャルサンドイッチセット!」
 スワンエクスプレスのものと同価格のサンドイッチを見つけ、アリオールは天を仰いだ。ゆっくりと大きく息を吐く。今日の昼と残りの夏季休暇をつつがなく過ごせる勝利を約束されたのだ。
「すみません、スペシャルサンドイッチを一つ!」
 決然としたアリオールの声に、ウエイターはほんの少し目を見開いた。けれども、すぐさま微笑みを刷いて応じる。
「承知いたしました。具材はショルダーハム、ロースハム、ベリーハムのものがございますが、どれになさいますか?」
「ロースハムをお願いします」
「承知いたしました。すぐにお席にご案内いたします」
 恭しく礼を取り、ウエイターは少年のトランクを運んでくれた。テーブルに案内する姿勢も所作も優雅で完璧に板に付いていた。

 通されたのは一番奥の窓際の席だった。
 ウェイターが奥に下がるや否や、アリオールは椅子に身を預けた。チョコレート色の背もたれは彼を優しく受け止めてくれた。
 胡桃色の窓枠に四角く切り取られた星の海は、静かに瞬きを繰り返している。
「それにしても突然のダストスモッグによるトラブルでやむを得ず手に入れてしまった休みに飲むエールはうまい!」
「まったくですな! 星の海を特等席で鑑賞しながら格別にうまいエールを飲む! 最高ですなあ!」
 わーはっはっはっと豪快にグラスで乾杯するどこかの企業戦士たち。
「だからね君、これからは速い列車開発じゃなく、ダストスモッグをいかに早く安全に除去するかの時代だと僕ァ思うな。この星の海をろくに見ずにぱッと行ってさッと目的地を目指すだけだなんて味気ないし、もったいないだろう?」
「なるほど、星の掃除屋か。君はどちらかというと技術屋よりも研究畑志向というわけか」
 何やら高い志に燃え、上機嫌で語り合う若者たち。チョコレート菓子への賛辞に意気揚々と水のおかわりを注文する声。賑やかに寄せては返す談笑は、果てなく広がる星の海の前では不思議と遠くに感じられる。

 ふ、と先程のウェイターのお辞儀が窓ガラスに映り込んだ。
「すみません、お客様。相席をしていただいてもよろしいですか?」
「いいですよ」
 首を縦に動かして返答する。
 すぐに一人の男が向かいに立った。黒いジャケットとそれを彩る金色の肩飾り、灰色の髪を鉱石灯が明るく照らす。
「ありがとう。お客様は神様だ」
 にっこりと笑みを浮かべ、そのひとは会釈した。
「いえいえ。どうも」
 アリオールはほんの少し呆けて、それから目を細めて笑った。大げさだなあと思ったが、人好きのする快活な笑みをまっすぐと寄越されて悪い気はしない。
 皿いっぱいに盛られたサンドイッチと湯気が立ち上るスープカップがテーブルに到着した。
 更に小さな砂時計にボウル、白磁のティーポットが一つ。それからティーカップが一つずつアリオールと男性の目の前に置かれた。
「あれ? 頼んだのはサンドイッチだけでしたよね?」
 サンドイッチに日替わりのスープが付くセットということであった。財布の中身を浮かべたアリオールの額に冷や汗が滲む。
 ウェイターはにこにこと応じてみせる。
「はい。そちらのお客さまからのサービスです」
「相席のささやかなお礼だよ」
 てきぱきとポットからお湯を注ぎカップを温め、そのひとが笑った。
 正面から向けられた鷹揚とした笑みに、アリオールは深々と息を吐く。
「……ありがとうございます」
 サンドイッチのパンは長く切れる包丁で耳がきれいに取ってあった。生地は指に吸いついてくるくらいしっとりとしている。厚めのふんわりとしたハムにとろけそうなチーズ、しゃきしゃきと瑞々しいレタスの葉。薄く柔らかいパンに抱きしめられた三重奏が口の中に広がっていく。
 空豆のポタージュも元気の出てくる味だった。柔らかな芽吹きの色に似たスープは、一口ごとに空豆の優しい甘さが溶けていく。
 気兼ねなく目の前に差し出されたティーカップを受け取り、アリオールは音を立てないように口をつけた。祖父の淹れる紅茶に似た、心と腹をほっと温めてくれる味がした。
 翡翠色の眦が、鉱石灯の和やかな光をたたえてアリオールを見つめた。
「君、銀河鉄道に乗るのは初めて?」
「いえ、何度も乗ってます。夏季休暇に祖父の家に遊びに行く時はいつも」
「へえ。その割には楽しそうに窓の景色を見ていたね」
「そりゃそうですよ! 何回乗っても窓から見える星は吸い込まれそうなくらいきれいだし、全然飽きないです」
 アリオールは毎年銀河鉄道に揺られて見る景色に新しい発見や驚きがあること、企業戦士から仕入れたばかりの星の話を披露する。彼は優秀な聞き手であった。絶妙な間合いで相槌を挟んでくれたし、アリオールが記憶の引き出しを漁るのに時間をかけたりしてもじっと耳を傾けて待ってくれた。
 ふと意識の奥底から覚醒させられてハッとすると、こちらを見つめる深い翡翠の瞳と視線が交わった。相手はすっかり相好を崩している。夢中になるあまり身を乗り出して話していたらしい。アリオールは慌てて姿勢を正し、カップに口をつけた。
「ありがとう。お客様は神様だ」
 そのひとは眩しげに眦を細め、胸ポケットから黒い帽子を取り出す。トップを左胸の上で支えるようにそっと置き、恭しくお辞儀をした。
 あ! とアリオールは声をあげた。
「もしかして、車掌さん、なんですか?」
「何を隠そう、実はそうなんだ」
 ――ホークエクスプレス号へようこそ。
 大きく頷いたそのひとの翡翠色の瞳が悪戯っぽく躍る。
「僕も銀河鉄道から眺める星の海がいっとう好きでねえ。君くらいの年の頃は星の秘密を解き明かす学者にも強く憧れたりしたものだけど、人生山あり谷ありで、今は天の川のほとりを走る仕事をしています」
 肩をすくめる仕草にアリオールもつられて吹き出す。おや、というように深い緑の眼差しを向けられて、少年は笑みを堪えて答える。
「すみません。同じだなって。うちのおじいさんも学者になりたかったそうですが、人生山あり谷ありで銀河鉄道を勤めあげたひとなので」
「じゃあ、僕の大先輩だ」
「かもしれません」
 勤めあげた大先輩はお元気ですかと問われ、アリオールも笑いながら応じる。
「引退して、今はおいしい紅茶の淹れ方の研究に日夜取り組んでいます。おばあさんが呆れるくらい熱心なんです」
「そうかあ。じゃあ、僕も偉大な大先輩のあとに続けられるよう励まなくては」
 ほころぶ笑顔はひどく穏やかで、灰かぶりの前髪がかかる瞳の影は明るい。
「あの、なんでこの席に座ろうと思ったんですか?」
 アリオールは問いを投げ、改めて食堂をぐるりと見回した。朗らかに語り合う客の方が目立つが、アリオール同様単身で腰かけている客も少なくないのだ。おまけにわざわざ一番奥の席まで彼がやって来たのも不思議だった。
「そうだなあ。君の瞳がもうすぐ僕の奥さんになってくれるひととよく似ているからかな」
 一瞬、翡翠の瞳がとけそうに滲んだ。
「それに、我がホークエクスプレス号で不安そうな顔のお客様をお見かけしたのでいかがされたのかと気になりまして」
 彼がこちらをまっすぐ見つめる視線に、アリオールは目を奪われた。
「それから、そんなお客様には是非とも当エクスプレス自慢のサンドイッチセットに銀河一合うお飲み物をご紹介したい、と思った次第です」
 顔がゆるゆるとほどけるように緩む。灰かぶりの髪が僅かに揺れ、澄んだ翡翠色を閉じ込めた硝子玉に似た瞳が柔らかな弧を描いて細められる。
 それは屈託ない、夏の陽射しをいっぱいに受けた緑のようなあまりにも眩しすぎる笑顔だった。
 予想だにしなかった返答と共にそんな笑顔を向けられて、戸惑いつつも、浮かんだ驚きなどいつの間にかどこかに消え去っていく。それと同時に彼の言葉に何だか嬉しくなって、顔がほころんだ。
 お互い照れたようにカップに口をつける。と――
 ジリリリリリリリリ!
 突然やかましく鳴り響いた音にアリオールは座ったまま飛び上がりそうになった。少年の腹の音ではない。相手の腹でもなさそうだ。
「あ、俺か!」
 ポケットを探ると、銀河鉄道チケットが青白く光っていた。
「すみません! 今何時ですか!?」
 灰色の髪を少し揺らしながら車掌は苦笑した。
 そのひとは胸ポケットから懐中時計を取り出し、こちらにもよく見えるようにハンターケースを開いてくれた。文字盤の硝子に大きな十字傷が見える。鉱石灯に照らされてあたたかな色を成す銀のハンターケースは内側も丁寧に磨かれていた。大事にしているのが傍目にも分かった。
「一時四十五分だよ」
 少年は、予想していたよりも早くダストスモッグが晴れたことを知る。椅子から立ち上がり、深々と頭を下げる。
「あの、ごちそうさまでした。俺、本当は別の列車に乗るんです。戻らないと」
 車掌も立ち上がった。
「送っていこう」
 口の端に笑みを引っ掛けて彼はさっと歩き始める。
 来た道を辿る時間はあっさりとしていた。煌びやかな出で立ちの乗客を見慣れてまっすぐ歩けたからか。それとも自分の腹の虫がおとなしくなったからか。急いでいるからか。どれもが作用しているのだろうと納得し、アリオールは出口を潜り抜けた。
 車掌の帽子から零れた灰かぶりの髪が、ホームの硝子天井から注ぐ星明りに透けてきらきらと光る。澄んだ瞳は、雲が晴れた雨上がりの森の緑に似ていた。洗われた透明な空気の匂い。その翠色が、アリオールを射抜く。
「それではお客様、どうぞお気をつけて。よい旅を」
「はい。あなたも」
 不意にそのひとが小さく笑うので、アリオールは首を傾げる。
「どうかしました?」
 そのひとは懐中時計を取り出し、はにかんだ。手袋に包まれた骨ばった指先は、大事そうに銀色の外蓋を撫でた。
「いや、僕のお嫁さんになる予定の人と似たようなこと言うなって思ったから」
「はあ、そうですか……。うまくお嫁さんになってくれるといいですね」
「ありがとう。無事にお嫁さんに来てもらえたら君に紅茶をごちそうしよう。君のおじいさんの研究には及ばないだろうけれど、とびっきりおいしいのを淹れると約束するよ」
 そのひとはそう言って、少し目を伏せた。まるで何かを確かめるように、何かの儀式の前にそっと息を付いて心を落ち着けるように。それから開いた翡翠色を眩しいくらいきれいに細めて、笑った。
 眩しいその色は、祖父母と毎年庭で眺める、燦々と輝く夏の午後の若葉翠に似ていた。


「まもなく銀河第四ステーション、銀河第四ステーションです。お降りの方はお忘れもののないよう、お荷物をもう一度ご確認ください」
 列車のスピードは、アナウンスを合図にゆったりとしたリズムへと変わっていく。
 光に包まれたかと思うと、窓の向こうの瑠璃紺の帳が消え去った。駅舎の周りは濃い草木が生い茂り、空からは金色の陽の光が降り注いでいる。
 夏の陽射しに一瞬目が眩み、アリオールは足のふらつきのままにトランクをホームに倒した。すっと丸い影が落ちる。顔を上げると、小さく笑いながら日傘をこちらに差し伸べているひとがいた。
「おばあさん!」
「アリオール!」
 レース編みの涼しげなショールを肩にかけ、淡雪のような髪色の夫人がほっとしたように息を吐いた。
 アリオールが体勢を立て直しているうちに、祖母はパラソルを閉じた。それから両手で孫の頬をそっと包み、額を合わせる。くすぐったさに身をよじれば、悪戯が成功したように微笑まれた。
「ダストスモッグの影響で遅れると聞いてはいたけれど、思っていたよりも早い到着だったわねえ」
「俺のことは心配じゃなかったの?」
「おじいさんの務めた列車ですもの。万に一つもありません」
 胸を張り、祖母は海のように青い双眸をおっとりと細めた。
「おじいさんは?」
 す、と細い指が道路向かいの赤い屋根の雑貨屋を指さした。窓際に、白いものが多く混じった灰色の髪の男性が立っている。そのひとが窓に向かい、二つのカップを手に翡翠の瞳を矯めつ眇めつしているのが見えた。陽に透かして熟考しているようだ。
 可笑しさを隠しきれない声音で祖母が言えば、
「あなたにとびきりおいしい紅茶を飲ませるためのカップ選びですって」
「また? しょうがないなあ、おじいさんは」
 孫もまたやれやれと肩をすくめて応じた。
 少年は、祖父のコレクションともいえるティーカップが食器棚に所狭しと並べられていることを知っている。どうやらそこに新しいものが加わるのも時間の問題のようだ。
「ええ。本当にしょうのないひと」
 呆れたような声音で祖母が同意する。けれども、澄んだ海をとかした青い瞳はとろけそうに柔らかい。
「次のバスまでもうすぐね。おじいさんを迎えに行きましょうか」
 銀の光がアリオールの目の前で煌めいた。よく磨かれた銀に包まれた懐中時計をこちらに見せ、祖母がゆっくりと歩き出す。
 文字盤のガラス面には十字星が一つ、夏の陽射しを受けて光っていた。



星の海を航る十字架





  1. ≪ 創人ギルドで構想した作品でした。
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