ヒラエスの潮鳴り / Azure Bird




 これは不幸な物語でも、陰謀渦巻く誅殺劇でもない。取り残された皇妃候補の悲劇などでは決してないのだ。

 かつて、皇帝レオンは混乱した世に和平をもたらすため、「伝承法」と呼ばれる術を異国の魔道士より習得した。勇猛で偉大な兄ヴィクトール、父レオンを相次いで亡くし、哀しみに暮れる間もなく父帝の遺志を継いだ第二子ジェラールが仇敵クジンシーを撃破。
 亡き皇妃の忘れ形見として慈しみ育てられ、動物や読書を愛し、剣術や戦いには消極的であった心根のやさしい第二皇子帝ジェラールが破竹の勢いで大陸平定に動き始めてから千年――皇帝失踪。
 南ロンギット地方へ遠征に向かった皇帝マゼランが消息を絶った。前例のない出来事に、アバロン城下は混乱に陥った。

「これから我が帝国はどうなってしまうのだ……!?」
「宝石鉱山も復興し、海峡の新しい開拓も進み、いよいよこれからという時に……!」
「何代か前の皇族の血を引いていらっしゃるとはいえ、やはり皇帝の荷を担うにはあの青年には重圧であったのであろう。朗らかで気立ての良いお方であったのに。おいたわしや」
 ただひたすら嘆く者もいれば、

「自らの命に代えてでも陛下をお守りするのが正規直属兵の役目であろう!」
「おめおめと帰還してよくぞ報告などと!」
「貴殿らが忠臣? ふてぶてしいにもほどがある!」
 随行していた直属兵を誹り責め立てる者、それから――

「お聞きになりました? 海と太陽と共に生き、民をこよなく慈しんだ、かの武帝マゼラン様が南ロンギット海へ消えたお話を」
「ええ、ええ! いくら古くは皇族……アバロン御三家の血を引く高貴なお方とはいえ、元は外様のヌオノご出身でしたでしょう?」
「ええ。帝都御三家からはライブラ様以降、仮帝陛下候補さえ出ていませんものなあ。この頃は外様でもカンバーランドの方々が特に優秀ですな。大学の首席・次席を長年独占していると聞きますし、文官も次々と輩出されていらっしゃる。宰相にも任命されましたし」
「ああ。先日の派手な要職交代劇ですな……宰相閣下はほら、先のことがありましたでしょう? お悔やみの申しあげようもございませんな」
「ああ、元宰相閣下ですか? おいたわしいことですわね。甥御のマゼラン様が帝都に遊学へいらした頃から閣下のご寵愛ぶりは有名でしたし、ご即位時には陰に日向にと奔走なさっていらっしゃいましたもの。それが今や丘の上のお屋敷はすっかり閑散となさって」
「古くはジェラール様の御代、術法研究所の設立にも南下政策にも大いに貢献なさった宮廷魔術士名家の功績も見る影なしだなんて。おいたわしいことです」
「そういえば、すっかり聞こえなくなりましたけれど。一時期、マゼラン陛下に閣下のご息女が嫁がれるのではないか、と華やぐ噂が絶えませんでしたよねえ」
「そうそう。宰相閣下と言えば、お嬢様が遠征に随行されるお話が出たときには、『ねんがんの婚前旅行』『婚礼も秒読みか』と新聞にも号外で大きく書かれていましたな!」
「ええ、ええ。大騒ぎでしたよねえ。外様出身とはいえ、マゼラン陛下は美丈夫で気立ても良く笑顔もお声も素敵な方でしたもの! 年頃のご令嬢がいる家から次々と降るように釣書が届いていたと聞きますし、すげなく断られた小鳥や子猫が、お嬢様へ一言もの申すため、屋敷にも宮殿にも勇ましく浅ましく乗り込んだことも記事になっていましたねえ」
「無理もありませんな。皇族に嫁がれるご令嬢が出るなど、久々の明るい話題でしたから。御三家の中でも特に元宰相閣下のところは、代々宰相職も続いていましたし――まあ、その分、他の二家は焦れていたようですし、嫉妬も権謀術数も蠢いていたのでしょうな」
「ええ、皇帝陛下ご失踪など前例がありませんからなあ。号外も続きましたし。守るべき臣下の責務を果たさずに帰還なさったご令嬢は無期限謹慎。閣下も宰相職を解かれ――」
「するとやはり、陛下は水死と見せかけて――」
「おそらくは」
「この帝都アバロンも月夜ばかりというわけでないということですな。恐ろしいことです」
 酒の肴に高貴なる血脈の暗部を声高に吹聴して回る者もいる。そして――



「だから、私は陛下に早くこれを后に娶れと進言していたのだ……!」
 積年の夢が完膚なきまで粉々に砕かれ落胆し、さめざめ、おんおん、しくしくと嘆き、ついには寝込む者までいた。件の帝都アバロン御三家出身、元宰相閣下である。

「おまけに無期限謹慎処分など……体裁の良い永久追放ではないか! これでは良い嫁の貰い手も望めない……姉上にもご先祖様にも顔が立たん! 幼き頃からお母様譲りだと自慢していた黒髪までばっさり切って…………いや、良い。言わずとも良いのだ。ガーネット。皆まで言うな。お前の辛い気持ちは、この父には手に取るようによく分かるぞ……」
 怒ったり、泣いたりと実に忙しい父である。ガーネットはかぶりを振って、嘆息する。

 先の皇帝マゼランが南ロンギット海で消息を絶った。歴史書にしるされる功績も生涯も僅か数行でピリオドを打たれてしまうのだろう。
 魔術よりも海と太陽を愛し、誰よりもアバロンの民を思い、彼女が知る限り世界でいっとう英明闊達であった皇帝マゼランは、もういない。本懐を遂げたのだ。愛するかたを追って、あの海へ。もう戻れないと知っていたのに――
 けれど、あのかたと語らい、あのかたと寄り添うマゼランの瞳には、従妹の自分でも見たことがないやさしい綺羅星が宿っていた。まるでとっておきの宝物を見つけた少年のように。きらきらと。ふたり、しあわせそうにわらっていたのだ。だから、これは不幸な物語でも、陰謀渦巻く誅殺劇でもない。残された皇妃候補様の悲劇などでも決してないのだ。

 処罰の覚悟などとうにしていた。
 人魚薬を作る――そう決めたときには。
 従兄マゼランとあのかたの秘密は、墓地まで持って行く覚悟だ。

 先代ハーバート帝の死後、伝承法による皇帝の力を継ぐ者は長らく現れなかった。ジェラール帝の御代より定められていたとおり、亡き先帝の御子が仮の皇帝「仮帝陛下」として玉座についた。
 御三家――バレンヌ帝国建国時代より代々皇族に忠臣として仕える筆頭公爵三家は、従来の定めのとおり、文武のみならず公私にも渡り、若き仮帝陛下を支えた。伝える者と受け継ぐ者に、強い意志があれば、記憶と能力と志を受け継ぐことができる秘術「伝承法」についても、御三家を継ぐ者のみに、調査により判明した証左と実態が代々口伝されていた。皇帝の魂が眠りについた間の仮帝陛下を陰に日向にお守りし、お支えするように。魂の長き眠りから醒めた皇帝陛下が憂いなく再びアバロンに戻れるように。
 ハーバート帝が生涯愛した皇妃は、御三家の一つが擁した養女であった。残念ながらレオン帝とジェラール帝父子の如く、御子が偉大な父の魂を、歴々の皇帝陛下の戦いと記憶を継ぐことは叶わなかった。皇帝の魂が再び眠りについたことを悟り、仮帝陛下となった御子は去来する憂悶を胸に玉座につき、帝国の現状と平穏を維持することに心血を捧げた。
 いつか、智勇兼備であったハーバート帝の、歴々の偉大なる皇帝陛下の魂を継いだ皇帝が再びこのアバロンに帰ってくる。
 人々はそう信じたが、御子の優れた手腕による平穏な統治が続くことで、「皇帝」は遠い物語の存在に変わりつつあった。
 その矢先のことである。ガーネットの従兄、マゼランが皇帝の魂を「伝承」されたのは。
バレンヌ皇帝の魂が降りた。伝承法の――

 眠り続けていた帝国史が動き出す。
 ガーネットの親族、とりわけ父は歓喜の声をあげた。遙かレオン帝の活躍した頃より欠かさず文官と宮廷魔術士を輩出し続けてきた筆頭公爵家だが他の二家とは違い、子は娘のガーネットひとりだけ。宰相職にこそ自分は就いているが、分家の子息たちは政治と魔術よりも芸術活動に没頭しており、誰も御三家の責務を果たせそうにない。更にハーバート帝と御子である仮帝の皇妃にも、愛娘はおろか分家からも誰一人選ばれることはなかった。
 そんな公爵家に降りた期待の新星――それがマゼランだった。伝承法の魂を継いだ皇帝陛下誕生に父は歓喜したのだ。
 風術の研究のため帝都アバロンを離れ、港町ヌオノに移り住み、そこで家庭を築いた姉――ガーネットにとっては伯母だ――の息子マゼランを、父は実の息子の如く目に入れても痛くないほどに可愛がった。伝承直後の皇帝は、膨大な記憶の奔流に混乱の極みにあるという。あたたかく迎え入れ、支えるのが忠臣の役目とばかりに、公爵家の使えるものすべてを用い、陰に日向にとマゼランを教育し、いわれのない誹りからも護った。
 マゼランもまた、「伝承」された魂と記憶に戸惑ってはいたようだ。魔術はからっきしだと嘯いていたが、彼もまた御三家筆頭宮廷魔術士の血を引く者だ。公爵家と帝国大学、宮殿内の書庫を漁り、帝国史と魔術史を辿ることでやがてすべてを受け入れたらしい。

 マゼランは、鷹揚で気持ちのやさしいひとだ。ひとたらしでもあった。
「田舎で散々悪さして育った俺に、偉大なるうるわしのアバロンで皇帝陛下なんぞ務まるわけがない」
 日頃からそうぼやいていたのは、彼の突然の即位により退位することとなった仮帝陛下とハーバート帝亡き後も御子と帝国を一心に支え続けた上皇后陛下を慮ってのことだ。
 文治について、即位前も即位後も直々に頭を垂れ、仮帝陛下に講義を乞うていた。仮帝陛下を「先生」と呼び慕うマゼランは、仮帝陛下にもその母君である上皇后陛下にも可愛がられた。屋敷にたびたび招かれてはいつも希少な美酒を土産に持たされて帰ってくるので、父は毎回腰を抜かしていた。「冷戦状態にあった公爵家同士の橋渡しをした」などと新聞が報じていたのもその頃だ。

 信念を貫くひとでもあった。マゼランは、我が公爵家の期待とバレンヌ帝国の悲願に応えるべく、日夜奔走し続けた。勉学は苦手だと公言していたが、遠征予定先の地図・歴史・文化・自然生態・語学等、ありとあらゆる文献を自室に取り寄せ、寝食を惜しんで読み耽っていた。曰く、俺が知識不足で侮られたら先生にも叔父上にも申し訳がない、と。
 不言実行のそのひとは、民を思い、常に奔走した。宝石鉱山の鉱員急死事件。帝国悲願のコムルーン海峡航路開拓。コムルーン火山噴火沈静。そして――合成術の開発と発展。

 マゼランが海と太陽をこよなく愛するひとであったように、ガーネットもまた魔術研究を愛していた。父親はじめ親戚中から、早く術法研究所を辞して良家に嫁ぐよう口々に言われ燻り続けていた少女を、歳の離れた気の良い従兄マゼランは遠征の随行に誘い出してくれたのだ。曰く、可愛い娘にはフィールドワークをさせよ、と。

「帝国中の男共から釣書が届いている我が可愛い従妹殿のことだ。嫁いだら最後、ガーネットは屋敷から二度と出してもらえないでしょう。俺が言うのもなんですが、男ってのは、馬鹿な生き物ですからねえ。叔父上、籠の小鳥として大事な愛娘の一生を終わらせるおつもりか? 良妻賢母には北ロンギット海よりも深くて広い経験も見識も必要と存じます」

 年頃の娘の多くがそうであるように、父に反抗していた十代のガーネットにとって、言葉を惜しまず進言してくれたマゼランはどこまでもまぶしかった。歳の離れた従兄が手を差し伸べ、ガーネットの眼前に開拓してくれた航路もまた果てしなく広くて、大きかった。
 文字通り、良家の箱入り娘であったガーネットにとって、「遠征」は大冒険であり、何もかもが新鮮であった。同時に己の無学と無力を痛感する苦くて辛いものでもあった。落ち込む少女を叱咤せず、そのひとはただ隣に座ってわらった。潮鳴りに似た穏やかな声で。

「ヌオノで散々悪さしていたガキが、見てくれだけの皇帝になれちまったからなあ――ガーネット。昔から良い子で可愛くて賢いお前のことだ。なんだってできるだろうよ」

「ひとたらし帝」と言われる割にこの従兄殿は、歳の離れた妹分を慰めるのはあまり上手ではなかった。けれども、ガーネットが怪我をせぬよう、足手まといにならぬよう、彼女が大きな失態をして他の随行メンバーに引け目を感じぬよう、随行メンバーに軋轢も生まれぬよう、いつもさりげなく笑顔で声を掛け、手を差し伸べるのもマゼランであった。
 ガーネットが得意の火術でモンスターを仕留めると、いつも彼は破顔し、「よしよし、でかした」と大きくて硬くてあたたかい手のひらで、ガーネットの頭をわしゃわしゃ撫で回した。傭兵のアキリーズに「陛下と愛犬お嬢」「忠犬ガーネット」などと揶揄われたのはそのせいだ。物事の多くを斜に構えるこの傭兵の破顔や忠義に厚く寡黙な帝国軽装歩兵ハリーの微笑を引き出すのも、いつもマゼランだった。やさしくてひとたらしなのだ。いつだって、そのひとが掛けてほしいと願う言葉を彼は惜しみなく与えてくれるのだ。
 そうしたやさしい彼に恥じない自分で在りたい。それはガーネットの心の支えとなった。

 すべては、帝国の平和のために。
 常に「公」を第一とし、民のために生きよ。
 決して「私」を優先してはならぬ。
 すべては――バレンヌ帝国の未来のために。

 そうした歴代の偉大な皇帝陛下の記憶と戦いの歴史、信念を受け継いだマゼランもまたひたむきに帝国のために生きた。マゼランは、命を削って働き続けた。そして、いつだって己を後回しにしていた彼は、ついに倒れた。公務の疲れによるものだろうと侍医には判断された。しかし、マゼランと遠征を共にし、幼き頃より神童と呼ばれ、魔術師研究所設立史上、稀代の水術使いと謳われていた筆頭宮廷魔術士ジェミニの宣告は残酷であった。

「陛下はその命を削っておられます。比喩などではありません。本来あるべき命が、削り取られているのです」

 原因は、宝石鉱山のあの魔石だ。あの妖しくも美しい光を放っていた魔石。鉱員たちの命を吸い取っていた禍々しく巨大な魔石を破壊したのはマゼランだ。マゼラン皇帝陛下は全員を離れた位置に下がらせ、独り、自慢の斧でそれを破壊したのだ。口々に諫言する部下にそのひとは「大事なお前たちに何かあったら目覚めが悪いだろうが」とわらった。

「おそらく、あと三年。持って四年――」

 人体の多くは水で構成されている。水を自在に操り、研究と研鑽に身を捧げてきた筆頭魔術士ジェミニは魔術と人体の結びつきに詳しい。稀代の水術使いは、マゼランの魂とその水の巡りを見たのだ。
 ジェミニの残酷な見立てにも、陛下はただわらったのだ。美人薄命って奴だなァ、と。
「ジェミニ。ありがとよ。お前だって言いにくいだろうに。隠さずに教えてくれて」
 この皇帝陛下は、やさしくてひとたらしなのだ。いつだって、そのひとが掛けてほしいと願う言葉を彼は惜しみなく与えてくれるのだ。

 残された時間を惜しむように彼は、内政に邁進した。自室の私物も減らし、贈り物も固辞し、夜を徹しては自身が即位して気づいたことや困ったこと等、こまめにしるしていた手帳の整理を始めた。

「次の陛下にがっかりされたくないからなァ。達筆すぎて読めないだなんて失望されたら、偉大なるうるわしの歴代皇帝陛下方に顔向けできん。最近城下で流行りの歌の通り、格好良くてつよ~いマゼラン様でいたいんだよ、俺は」

 城下で彼を讃えて歌う少年少女の朗らかで清らかな声に耳を澄ませては、目をやわらかに細めているひとだった。誰よりもやさしく、身も心もすべてを帝国に捧げたひとだった。

 民のことを思って寝る間もなく公務に身を捧げるそのひとを案じ、保養地として勧められた人魚伝説の残る町で。あのひとは、あのかたと出逢った。
 あのひとは、まぶしいものを見つけた少年のようにわらい、瞳に星を灯らせたのだ。
 曲がりなりにも公爵家の血を引く殿方であるのに、やけにたどたどしく拙いステップを刻んで。それでも、ふたりのワルツはうつくしかった。とてもうつくしかった。

 処罰の覚悟などとうにしていた。
 人魚薬を作る――そう決めたときには。

 南ロンギット海からアバロンに帰還したガーネットら随行員を待っていたのは、誹り責め立てる声だった。
 皇帝失踪――前例のない重大事件に対する随行メンバーが選んだ答えは、沈黙だった。
 誹られることも処罰されることも覚悟していた。
 従兄マゼランとあのかたの秘密は、墓地まで持って行く覚悟だ。
 ほろほろと零れ落ちる月明かりの下、ふたりがほほえんで舞ったうつくしいワルツも。
 棺に持って行くまで、胸の引き出しの奥に仕舞い込んで鍵をかけておくのだ。

 皇帝陛下をお守りすることはできなかったかもしれない。けれども、マゼランを、マゼランのやさしい心を、マゼランが希うしあわせを守ることはできた。きっと、そう思う。



 ガーネットだけでなく、ジェミニ、ハリー、アキリーズ全員がただの謹慎処分で済んだのは、ガーネットの父親が宰相だったからだ。バレンヌ帝国建国の御代より皇族に仕えた高貴なる公爵家出身の宰相閣下であった父は、公爵家の使えるものすべてを使い、彼が愛した甥のマゼランを、マゼランが愛した直属の部下を、愛娘をいわれのない誹りからも悪意からも護ってくれたのだ。そして、父は自ら宰相職を辞した。

 次の皇帝が、果たしてすぐに代々の皇帝陛下の魂に選ばれるのか。それともまた百年、何百年も先のことになるのか――それは分からない。分からないけれど、いつか必ず、親愛なる従兄殿マゼランの魂を継いだ皇帝陛下がこの帝都アバロンに帰ってくる。
 自分が生きているうちにマゼランの魂を継ぐ皇帝陛下と逢えるかは分からない。けれど――ガーネットをあの狭い鳥籠から連れ出し、風の匂い、広い大地、空の高さ、海の青さと深さも教えてくれたやさしい親愛なる従兄マゼランに恥じないひとで在りたい。






*…*…*






「よう、今日も元気に仲良く親子喧嘩か。外まで聞こえてたぜ。相変わらず暇してるなあ」
「アキリーズ殿、ごきげんよう。仲良しは否定しませんけれど、貴方もお暇かと存じます」

 マゼラン陛下の忠犬にして愛する妹分が立ち上がり、淑女の礼をした。華奢な指先は、ひび割れて土まみれだ。屋敷中庭の除草作業に御自ら取り組んでいたやんごとなきご令嬢が上目遣いになる。澄んだ緋色の瞳は零れ落ちそうなほど大きい――少し、痩せたか。

 皇帝失踪の責を問われ、帝都アバロン筆頭公爵家の一人娘が謹慎処分を受けた。ガーネットの父親であり、マゼラン陛下の叔父でもあった宰相閣下は職を辞した。
 マゼラン陛下の遠征にガーネットが初めて加わったのは、彼女がまだ十代の少女だった頃だ。父一人、娘一人の公爵家で育った箱入り娘は親族以外の男と話すのも片手で数える程度だったらしい。術研の知人ジェミニとはなんとか会話が成立するようだが、眉目秀麗な騎士ハリーに声を掛けられるときはいつも(あれも極端に無口な男なので、あくまでも必要最低限の連絡事項時だ)、従兄のマゼラン陛下の大きな背に隠れた。特に傭兵の自分と言葉を交わすときには、いつも緊張でカタカタ震えていた。案じた陛下が、特訓と称してアキリーズと共に野営の番を命じたが、気の毒なほど小刻みに震えていた。あの子犬めいた少女が今では自分をまっすぐ見上げて軽口を叩いている。ある種の感動さえ覚える。

「おーおー、さっすが元皇妃候補サマ。逞しいことで」
「……大昔、あのひととそうした話があった。ただそれだけですわ」

 フン! はっきりと鼻息を荒らげ、娘はその勢いそのまま、細い両腕を組んだ。短く切った緑の黒髪――人魚薬を作ると決意したとき、彼女はうつくしいそれをばっさり切ってしまった――が耳元で揺れる。どうやら頑とした気配を見せているようだが、どう見積もっても良家で大切に育てられた毛並みの良い子犬がおすまししたようにしか見えない。
「言うねえ、御三家のやんごとなきお姫サマ」
 喉の奥から込み上げる笑いを隠さずに、言う。
 元同僚で元皇妃候補のやんごとなき令嬢ガーネットはゆっくりと深呼吸し、頷いた。顔を上げ、視線を引き締め、きっぱりと宣言する。

「御三家も何も、皇妹だった何代も前のおばあさまが我が家に降嫁なさったというだけです。あやかる威光も何もありませんよ。……あの、すみません。アキリーズ卿、お話はそれだけですか? 私、こう見えて実は忙しいのです。この時季はすぐに草が伸びるのです」

 父娘そろって閑職に追われた公爵家は、マゼラン陛下が在位していた頃よりもずっと人気がなく、寂れている。多くの使用人が辞職を願い出たらしい。父娘がそれを止めることはなかった。だが、建国時代から帝国を支えた公爵家の名は伊達ではない。一人一人に紹介状を発行し、優秀な者に報いるべく便宜を取り計らってもらうよう他家へ頭を下げた。

「なんだ、そいつは残念。今日はお嬢に特別イイ話を持ってきたんだが」
 片目を閉じてみせたが伝わらなかったようだ。子犬はきょとん、と首を傾げた。彼は片膝を立て、かがんでみせる。いつもは見下ろすばかりの小柄な令嬢を見上げ、わらう。

「お嬢、面白い仕事があるんだが一口どうだい? 術研からハリア半島の植物採集依頼だ」

 華奢で土まみれの指が、重なった。彼の差し出した無骨な手のひらに。迷いなく。まっすぐと。澄んだ緋色の大きな双眸に、うつくしい輝きが満ちていく。マゼラン陛下が夕星に喩えていとおしんだ光だ。

「きっと、いい旅になりますわ」

 好奇心いっぱいにきらきらと瞳を輝かせてわらいかけてくる子犬に、アキリーズの喉から笑いが込み上げる。高揚する気持ちを隠せず、左右にぶんぶん揺れる尾が見えたのだ。

 どうっと一陣の風が吹いた。
 手入れがされず自由闊達に伸びきった草花が、大きく翻る。太陽の光を浴び、寄せては返すように眩しい光を反射させる。
 緑の黒髪が乱れるのをものともせずに、雑草のこんもり盛られた小山の前に令嬢が立ちはだかった。刈り取った雑草が風に舞うのを庇っている――つもりらしい。その華奢で小さな体躯では今ひとつ効果はないようだ。彼は思わず吹き出してしまった。黙したまま上目遣いに抗議してくるので、彼が風上に立ってやる。ガーネットがほどけるようにふわりと頬を緩めた。春の陽射しに安心しきって伸びをする子犬のようにあどけない笑みだった。
 枝が揺れ、木洩れ日が煌めいた。風に攫われかけた黒髪が、光を散らしている。
 アキリーズは胸裏で呟く。

 ――マゼラン陛下。お嬢は大丈夫だ。まだ立ち上がれるよ。

 風が耳を撫でた。背中にあたたかな陽があたっているのを感じる。
 潮鳴りに似たあのひとの上機嫌にわらう低い声が、耳に寄せては返していく気がした。





ヒラエスの潮鳴り
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