第10話 それは同じ悪夢(後)
意識が空白になっていく。
血まみれで崩れ落ちたレオンも、血に塗れた剣を彼から引き抜いて立っている男の姿さえも、すべてが遠く感じた。
「――――あ……」
少女は唇を開いた。悲鳴にも満たない震え声が、喉から漏れ出た。自分の喉から出た音なのに、随分と遠い音のようにも思う。
――駄目だ。
押し寄せるように巣食う感覚に、咄嗟に手のひらの力を入れる。
――思い出したら駄目だ。
すべてを押さえ込むように強く握った手のひらが、いつの間にか汗ばんでいることを知る。
――駄目だ。駄目だ。駄目だ。思い出したら絶対に駄目だ。
色も音も匂いも遠くに思える一方で、そのすべてが、深く、鋭く自分を突き刺した。
ざわり――と背筋を、何かが駆けた。大きな塊が押しかかってくるような、感覚。熱く、そして凍えるように冷たい重圧。
閉ざした記憶、塞いだ傷、蓋をした闇。彼方に閉じ込めたはずの「それ」が、溢れ出そうとしているのが分かる。
――駄目だ!
少女は抗うように身体を震わせたが、それだけだった。
――記憶にあったのは、その光景だった。
あのときと同じように自分は立っていた。
強い血のにおい。
そう。あのときと同じ。
あのときと同じように、やはり自分は立っていた。
もう何も考えられなかった。
それが、サティの限界だった――――
視界の端で、サティ・レインフォルムがふらりと歩き出すのが見えた。その動きはひどく不安定で、危なっかしい。
いつものんきに動いていた蒼と琥珀の瞳が、今は眩いほどの金色に染まっていた。その顔に浮かぶのは、恐れでも畏れでもなかった。――ただ、うつろな表情。
突如、昨日の出来事以来、幻のように消えていたはずの真っ白い翼が現れた。神々しさすら感じさせる眩い光をまといながら。
そして、胸元のブローチの装飾が徐々に黒く染まっていく。それはほんの短い間だけ強い光を帯びる。
ぱんっ――
硬質のものが弾ける音。否、砕ける音が響いた。
一瞬。
落雷が起きたかのような光が、世界に満ちる。
「痛い目見たくなきゃ伏せなさい!」
突然飛んできた強い命令の声。
不思議と耳によく響いた。
考えるよりも先に、本能が従う。
そして、衝撃が走った――
空気の塊が全身にぶつかる。身体の平衡感覚がなくなるかのような強い圧力だった。
呼吸に合わせて、刺されたわき腹が激しい痛みを伴う。徐々に視界が歪んでいく。
石の地面を踏む音。何だか知っているような気配だった。
少し、寒い。
まぶたが、重い。
意識を手放すことは、簡単だった。
「レオン君? 大丈夫……ではないようだね」
不意に涼しげな男の声がして、肩に重さを感じる。
続けて、二言三言、何事かを囁く声がした。
と――
痛みが消え、体の震えが止まった。
(――――?)
おそるおそる目を開け、跳ねるようにして上体を起こす。
動悸はまだ治まらないが、それでも何とか状況を把握しようする。
向けた視線の先には、知らない男がしゃがんでいた。亜麻色の髪にどこか寂しげな蒼色の双眸。
「遅くなった。すまないね」
彼はレオンの安否だけを確かめると、レオンを後ろへ押しやるように立ち上がった。
「さて――」
凍てつくような鋭い眼光が目の前の男――アニキに注がれる。
アニキがうつろな表情のまま、無言で彼に黒い刃を振りかざす。
が、彼が軽く指を動かすとそれはあっさりと弾かれ、アニキはいとも容易く吹き飛ばされた。
壁にぶつかる寸前でその動きはぴたりと止む。
抜け落ちた剣だけが、元いた場所に残る。
「ああ、申し遅れた。私は――」
うつろな表情が消え、今やすっかり恐怖に顔を歪ませた男――ではなく、彼は足元を見下ろしまま告げた。
「あの子の父親だ。先ほどは――うちの娘が世話になったね」
冷たく突き刺さるような声だった。
やがてレオンは、地面から離れている自分に気づいた。
誰かに抱え上げられているようだ。
たくましいその片腕。反対側の腕には、気絶したぐるぐる巻きの赤毛の男が見えた。
「――――!?」
視線を振ると、蜂蜜色の瞳と視線が合った。
(誰だ?)
とても不思議な人物だった。
いや、人物と言っていいのかどうか分からない。
何しろ狼のような顔をしているのだ。全身は栗色のふさふさとした毛で覆われている。ズボンの下から、これまた見事な毛並みの足がはみ出している。
が、直立しているあたりから獣とは判断しがたい。
「人狼……!?」
「残念。ハズレ」
不意によく響く声が飛んできた。
反射的にその獣のような人へ視線を向けると、無言で視線を下げた。レオンもつられてそちらへ顔を向ける。
近くにいたらしい女性がこちらを見上げていた。
背中に流れる清冽な白のヴェール。額には紋章。――どこかで見たことのあるような。
そのヴェールから長く、ゆるい曲線を描く銀の髪が僅かに零れる。銀の弓のような眉に長い睫毛、紫色の瞳が印象的だった。
「ろうじんよ、彼」
「老人っ!?」
とてもご老体とは思えないほどの見事な体つきである。
「いや、狼人」
あっさりと女性に否定される。
と、その狼人に赤毛の男とともに地上へと降ろされた。
「あ、どうも」
彼はやはり無言のままうなずいた。
再び閃光が瞬く。
「さすがに」
女性が右腕を振り上げると同時にその長いヴェールが大きく揺れる。
と――
周囲は白く柔らかい光に包み込まれた。
そして。やや遅れて、激しい振動とともに衝撃音が響く。
「……バッドタイミングすぎたかしら? これでも急いで来たんだけど」
女性はやや呆れたような口調で言う。
乾燥した破壊音。
天井や壁にひびが入り、破片が舞い落ちる。
「と、いうわけで。あなたの出番よ、カーディナライト家の若造」
「……はい?」
突然現れた人間に指名され、場を仕切られたのだ。当然レオンには疑問符が浮かぶ。
「あっちはウェントゥスとベルさんに任せるから」
足元を見下ろしたままのウェントゥスのそばへ、狼人――ベルさんと呼ばれていた――が、駆け寄って行く。
「何が何だか分かんないんですけど!」
「それもそうね」
女性はあっさりと肯定する。
「あの金髪のチンピラの剣――」
また稲妻のような光が走った。
女性は再び右手を上げ、白く大きな光を放つ。
やや遅れて衝撃が走るが、彼女はどうということもないように続けてくる。
「――魔剣なのよ。その剣を見入るものは体の自由を奪われ、その剣に魅入られし者は心の自由を奪われる。性質が悪いから、当然ブラックリストのお墨付き。本来、厳重に保管されるべきものなのに書類不備でゴミ扱いされたみたいね。紛失届が出てたわ。――まあ、ここまで聞けば、分かるわよね?」
「はあ。でも、サティは……?」
彼女は大きなまばたきを一つすると、こちらをまじまじと見つめてくる。
「あなた、魔術の心得はある?」
雷のような光。
彼女が右手を振り上げる。
「いや、全然」
質問を質問で返されたことに困ったが、正直に告げる。
気のせいでなければ、小さなため息が聞こえた。
「……じゃあ、大幅に省くけど。あの子にかけていた魔力の保護が外れただけ」
「は、はあ」
省きすぎな気もしたが、今はうなずくしかない。
「さて、外れたものはまた封じなければ収まらない。それも特殊な剣でね」
と、彼女は右手を下ろす。その紫色の瞳がきらめく。
そして静かに声を紡いだ。
「――世界はマナで満ちている。マナは万物の根源であり、その流れるところに我は有り。我が声に耳を傾けよ。我が呼び声に応えよ。来たれ、汝が幾千の御手。眠れるその力をもたらし、白刃にて魔力の咆哮を封ぜよ」
その厳かな音律に彼女の手が火をつけたかのように発光する。
そして――
そのひとは白く透き通る剣を掲げながら、肩をすくめて見せた。
「剣術はからっきしなのよ、あたしも含めたこのメンバーだと。だから、あなたの出番ってわけ」
お分かり、と彼女は優雅に首をかしげる。
「なっ……!?」
ぱちくり、と音がしそうなほど大きなまばたきをして、レオンは言葉に詰まった。
「言っとくけど、拒否権はないわよ。――というよりは」
一瞬。
空気が妙にしんとした。
風で視界が奪われる。続けて重く低い音に空気が震え、瓦礫が白い光の壁にがんがんとぶつかりながら降ってくる。
「ここが持たないだろうから、他の選択は許さないし許せないわ」
彼女はそれはそれは綺麗な笑顔を浮かべていた。だが、その眼差しは、有無を言わせぬ、殺意にも似た光が満ちていた。
結局、レオンにはうなずく他に選択肢は残されていなかった。
「でも――」
「この剣で何をするのかって質問だけど」
またしても言葉を奪われた。
「――その剣で、あの子を刺して」
確かにそう聞こえた。
「――――っ!?」
レオンの声にならない驚きを彼女はやんわりと制止した。
「大丈夫よ。言ったでしょう? 特殊な剣だって。虫一匹も斬れないわ」
だからお願い、と彼女は静かに微笑む。
ヴェールからこぼれた彼女の銀色の髪が何本かなびく。
「ほんの少しあなたの力を拝借させて」
大丈夫だ。
彼女の決定は絶対で、絶対に間違いはないのだ――
突然理解し、彼はゆっくりとうなずく。
彼女も満足そうにうなずき、白く透き通る剣を彼に手渡した。
全身に力がみなぎるのを感じる。髪が、宙に躍った。
レオンは彼女に視線で挨拶をすると駆け出した。
白い光の結界を出て、はじめて暴風の強さを感じた。風の塊が一度に全方向からやってくる。
視界が奪われる。
耳の奥が痛みとともに息苦しさを覚えた。
レオンは強く剣の柄を握り締め、風に髪を躍らせる。腰を落として、一歩一歩を踏み出す。
と――
急に身体が軽くなった。
視線を上げ、彼の瞳に飛び込むその姿。吹き荒れる暴風の中、少女の純白の翼は奇妙にも美しかった。
サティはうつろな目でこちらを認めると、小さく微笑んだ。どうしたらいいか分からず、ただ残されたのが微笑しかなかったから仕方なく笑った――そんな笑みだった。
レオンは剣を構えた。
目を細め、それから一気に突き出す――
剣が眩い光と共に溶けて消えていく。
そして。
彼女の身体が、ぐらりと斜めに傾いた。
正気の限界に達したのか、少女はそのまま瞳と翼を閉じた。
操り糸の切れた人形のようにゆっくりと倒れこんでくる。
たった一言聴こえた声。
「
ごめんなさい」
レオンは両腕で受けとめた。
傷を塞いでもらっても、やはり血液を失ったことは確かで。
少しふらつく。寒気がする。
その重みを支えきれずに、冷たい灰色の地面にそっと横たえる。
彼自身は近くの倒れた柱に寄り掛かるようにして座り込んだ。
「お疲れさま」
白いヴェールの女性がこちらへ寄ってくる。
「術できちんと治療したいのも山々なんだけど、あたしもウェントゥスもあいにくとそっちは専門じゃないのよ。だから一時的に、ね」
それから彼女は天井をゆっくりと仰いだ。
彼もつられて仰ぎ見る。
天井を突き抜け、ぽっかりと空いた大穴から満天の星空が見えた。
「もし神様がいるとしたら、のんきな顔してると思わない? ――この娘みたいに」
聞こえてきたのは、苦笑めいた声で。
瞳に飛びこんできたのは、先ほどの喧騒などなかったかのように穏やかな表情で横たわる少女の姿だった。
返事はしなかったものの、レオンもその意見に心から同意した。