第12話 おやすみのまえに
セレスト大聖堂の廊下は長く、綺麗だった。いくつもの大きな窓から月明かりが漏れ、心なしか明るい。
レオンはうつむきながらも遅れないようにウェントゥスとベルさん、メールの後に続いて歩く。夜だからか大聖堂の中はとても静かで、彼らの足音と呼吸の音だけが響く。
階段を上り、廊下の角を曲がっていくと、白い大きな扉の前に着いた。
ノックもせずにそれをメールはばたん、と開く。
部屋の中からあたたかい声が聞こえてきた。
「あら、メール。おかえりなさい」
「はいただいま。悪いけど、急患よ。眠ってるのが一人、伸びてるのが二人、それからあと一人……そこでへたり込んでる」
メールは軽く手を上げ、疲れたような声を出した。
「あまり急患じゃないような気がするけれど……」
首をかしげながら女性が顔を出した。
「あら! 皆さんおそろいで……おかえりなさい」
多少間延びした声。
部屋の前でへたり込んでいたレオンも顔を上げる。
メールと同じか、それより少し上と言って良い年齢だろうと、レオンは見当をつけた。まっすぐな薄茶色の髪を短く切った女性である。彼女の格好に彼はきょとんとする。
誰もが一度は見たことがあり、また世話になるであろうその姿。
「医者?」
レオンは呆然と呟いた。
彼女の着ているものは医者の白衣のはずであった。
「あら。あなた、顔色が良くないですよ」
白衣の女性はてきぱきと彼を部屋へ引き入れた。
鼻にしみるような消毒薬や湿布の臭い。白い空間。部屋の中には予想通りたくさんのベッドが並んでいた。
「ひどい失血状態……さしずめ剣にでも刺されたのかしら?」
「ご名答だよ、ビアンカ。私が応急処置は施した」
ウェントゥスが後から入ってきた。
彼に抱えられたサティの姿を認めると、彼女は悲痛な声をあげた。
「サッちゃん!」
「魔力の保護が外れてしまってね……今は、眠ってる」
ひどく悲しげな声でウェントゥスが告げる。
彼女――ビアンカは慌てて彼のそばへ走り寄る。心配を隠しきれない顔で、眠るサティの様子をじっと見守った。
「可哀想に……」
彼女は小さくため息を吐き出した。
しかし、目尻を下げたまま、その口元をそっと緩める。
「でも、今夜が下弦の月でよかったわ」
「そう、かな……」
ウェントゥスのかすれた声に、彼女は優しく、力強くうなずく。
「ええ」
「……そうだね」
ウェントゥスもようやく微笑んだ。
ビアンカに優しく促されるまま、彼は隣の部屋へゆっくりと娘を抱えて行った。
ウェントゥスと入れ替わりに現れたメールが、事情を簡単に話す。その間、ビアンカはほとんど表情を変えずにうなずいた。
それが終わると、廊下で律儀に待っていたベルさんを招き入れ、男二人をすぐにベッドに寝かせた。とはいえ、彼らは未だに気絶したままなので、改めて寝かしつける必要はなかったのかもしれないが。
それから彼女はレオンに座るよう指示を出した。そばのベッドに腰を降ろす。と、彼女は上着をめくり、傷の具合を確かめた。
「あら」
間延びしたような声にレオンは片眉を上げた。
「――もう、私のできることはほとんどありません」
「……え……あの――その――」
言葉が続かずに――レオンは、震える拳を握った。冷たい汗が頬を伝う。呼吸までもが徐々に苦しくなっていく。
苦笑めいた声。彼女は、とりなすように告げた。
「いえいえ、そうではなくて。きちんと傷は塞がっていますから、もう他に治癒魔法は必要ないということですよ」
それから彼女は棚から瓶を取り出した。レオンの目の前で何か赤く透明な液体をコップに注ぐ。更にそばにあった水差しから水を足した。
「これを飲んで下さいね。失血した分を戻す必要がありますからね」
ビアンカは優しくそう言ってレオンの前に薬を差し出した。
言われるままにレオンはコップに口をつける。苦みも匂いもない。冷たい液体が喉を通って行く。レオンはそのまま一気に飲み干す。
空になったコップを受け取って、ビアンカはおっとりと小首を傾げた。さらりと薄茶色の髪が動いた。
「そうそう。魔法陣酔いは治まったかしら?」
「あ、はい」
言われて初めて、気持ちの悪さが引いていたことに気づく。歩き回ったせいかもしれないし、見た目とは裏腹に爽やかな薬の味がこちらにも作用したのかもしれない。
レオンの返事に彼女は満足そうにうなずく。
「でも、魔術の余波を受けているかもしれませんから今夜はもう横になって下さいね」
ベッドの脇の椅子に腰を降ろしていたメールが立ち上がった。
「今夜は疲れたわね。――お互いに」
おやすみなさいと告げて、苦笑しながらベルさんと連れだって部屋を去って行った。
目を開けると、見えたのは天井だった。
見慣れない白い天井。差し込むのは窓からの青白い光。いくつもの並べられたベッドに背の高い間仕切用の白いカーテンが見える。
レオンが起き上がると、じきに扉の開く音がした。
そちらに視線を向ける。
白衣を着た女性が何か液体の入った瓶や、軟膏、ガーゼ、包帯、その他もろもろの治療器具をワゴンの上に乗せて、床の上を滑るように入ってきた。レオンはその時になって自分の置かれている状況を思い出した。
「あら、気がついたんですね。気分はいかがです?」
やや間延びした声。ビアンカが瞳をこちらに向けていた。
「はあ。悪くないです。……あ。おはようございます」
少々気後れしながら告げると、彼女はにっこりと微笑んだ。
「はい。おはよう。といっても、もうお昼ですよ。こんにちは」
「はあ、こんにちは」
窓に目を向ければ、太陽が高い位置から地上を見下ろしていた。
ビアンカはベッドの脇に立ち、レオンの脈をとる。それが済むと彼に舌を出させ、レオンの下まぶたを両手の親指で引き下げてめくった。
それから今度は、レオンに上着をめくるように指示を出した。レオンが素直に従うと、彼女は腹の傷の具合を確かめる。そこで彼は初めて、全身のだるさも刺し傷も跡形もなく消えていることに気がついた。
ビアンカは満足そうににっこりと微笑む。
「もう、すっかり大丈夫です。三日間眠れば気分もいいでしょう?」
沈黙に、世界は覆われた。
数秒の硬直から解けると、レオンはただ大きく瞬きをした。
――三日?
「あら、聞こえなかったかしら? 三日間眠れば気分も……」
相手がきょとんと首を傾げた。
「いえ、そうじゃなくて! 俺、そんなに寝てたんですか!?」
急き込んで問えば、のらりくらりとした返事が届いた。
「ええ。疲労のせいもあったんでしょうけど、ほとんどは薬の副作用ですよ。よく眠れたでしょう?」
それには無言でうなずく。そういえば、ほとんど夢も見なかった気がする。
「寝る子はよく治るって昔から言いますから、怪我のときには眠るのが一番の薬なんですよ」
少々間違っているような気もするが、首を縦に振っておいた。
「ウェントゥスの応急処置が間に合って本当に良かった。もう今日は退院してもよろしいですよ」
「はい。ありがとうございました」
ベッドから降りて、ぺこりと頭を下げる。ビアンカも優しく微笑んだ。
脇のテーブルに自分の荷物が置いてあった。ジャガード村から誰かが持ち帰ってくれたらしい。ベッドの間仕切りのカーテンを閉めようとして、思いつく。
「あのー、すいません」
ビアンカは、治療器具を乗せたワゴンを部屋の隅に持って行き、きびきびした動作で戸棚に薬の瓶を入れていた。
「あら、どうしました? 痛むの?」
「いえ、平気です。えーと、俺はこれからどうすれば……?」
レオンの問いに、彼女はぱちくり、と大きなまばたきをした。
しばらく経ってからポン、と手を打つ。なかなか古典的なジェスチャーだ、とレオンは思う。口には出さないが。
「そうですねぇ……」
と、やはり間延びした声だったが、彼女は珍しく思案の表情だ。
「あいにく、皆さん出払っているんですよ。メールは大聖堂のお仕事。ベルさんたちはジャガードで遺跡跡地の修理」
「……はあ」
「ウェントゥスは……不動産屋だったかしら? ウルスス商会が経営してるんでしたっけ? ええと、そこへ出かけています」
「…………はあ」
「それから、私はこれからうちの主人がエセル――王都の方へ出かけるので、それの準備をしなくてはならないんですね。だから、これが終わったら家に帰ります。そういうわけですから……」
改めて相手に顔を向けると、彼女は奇妙な表情を浮かべていた。眉根を寄せて、何やら考え込んでいる。
「……どうしたらいいのかしらねぇ」
「………………はあ」
レオンは首を傾げる彼女を見やると、ぐったりと息を吐いた。
「えーと」
とりあえず、ベッドに座ったまま、レオンが呟いた。いったん言葉を切り、答えを探してからワゴンの前のビアンカへと視線を戻す。
「……じゃあ、ここにいます」
「ええ。そうして頂けると助かるわ」
いかにも名案だと言わんばかりに彼女は深くうなずく。
「あら」
多少間延びした彼女の声
レオンは片眉を上げた。ビアンカが小首を傾げて壁時計を見上げていた
思わずきょとんとそれを見る。
「いけません。もうこんな時間なんですね。帰らないと。あのひと、荷物の整理が下手だから、きっと日が暮れてしまいます」
口調とは違い、せかせかとせわしない動きでワゴンの上段のものをすばやく棚へと移しながら、後を続ける。
「レオン君だったかしら? お腹空いたでしょう。朝ご飯、少しですけど持ってきましたから――ああ、ワゴンの下の段に入ってます。食べて下さいね」
手は休めずに、こちらに顔を向け、にこりと笑いかけてくる。
「お昼ができたらこちらに運んでもらえるように頼んでありますからね」
「ありがとうございます」
「あらあら。いいんですよ。これくらい」
レオンはワゴンの方へ近づいて、声をかける。
「あの」
「なあに?」
「急いでるなら、あとは俺がやっときますけど……」
包帯をてきぱきと引き出しに入れていたビアンカは、嬉しそうに笑う。
「あら、ありがとう。じゃあ、隣の部屋にこれを持って行ってもらえるかしら」
ワゴンの下の段から水差しとコップの載ったお盆を取り出す。
まだ眠っているでしょうから起こさないようにお願いしますね――と彼女は気遣わしげな微笑みを浮かべた。