第22話 満ちて去る午後
「やあ。おかえり」
医務室のドアを開けると、涼しげな声が耳に飛び込んできた。
足を踏み入れて、レオンは一瞬目を瞠る。
少々白髪の混じった亜麻色の髪。どこか寂しげな蒼色の瞳。ベッド脇の椅子に腰をかけているウェントゥスが、のほほんと笑っていた。
その笑顔にレオンは黙したまま頭を下げた。
――今夜は三日目、なのだ。下弦の月の。
こちらの視線から聡く感じ取ったのか、ウェントゥスはただ静かに微笑んだ。あの晩――三日前と同じように。
見ればその隣には栗色のふさふさとした毛並みのベルさんも座っている。彼はこちらに目礼してきた。慌ててそちらにも頭を下げる。
その間からひょこりとサティが顔を出した。
「終わったんですか?」
「ああ。もう起きてたんだな」
返事はなかった。
彼女は呆けたようにベッドの上でこちらを見つめている。
「…………」
しばしの沈黙。サティが、ぽつりと呟くのが聞こえてきた。
「もしかして、素人演芸大会に出るために帰ってきたんですか、ハル君?」
「は?」
レオンの隣に立つジークが目をしばたたいた。
「だって、そうでもなければ眼鏡をかける必要が全くないじゃないですか。両目とも視力にいてん――」
言われた彼はサティの声を遮って否定する。
「――いや、別にそういうわけじゃないって」
「ああ。王都で流行ってるのかい?」
穏やかに笑んでウェントゥスが声をかける。
ジークは困ったような笑みをますます深くしながら、
「いやいや、いくら王都でもさすがにそんな流行は……」
否定する。
続けざまに重く低い声が投げられた。
「合わない眼鏡をかけると肩こりをするという。だから気をつけたほうがいい」
「いやいやいや、ご心配なく」
彼は眼鏡の奥の目を細めて笑っている。
しかし、レンズを隔てて向けてくるその紺碧の双眸は、なぜか落ち着きなく泳いでいた。
「ああ」
そのやりとりを無言で見ていたレオンの脳裏に、ひとつの考えが浮かんだ。
「……度が入っていないのか、やっぱり」
静寂が、その場を支配した。
どうやら声に出してしまっていたらしい。部屋中の視線がレオンに集まった。だが、それはすぐに憐れみを持った色へと変わり、ジークへと向けられる。
「ハル君……」
「な、何かな」
ぎこちない微笑みで彼は答える。彼の指は、落ち着きなく眼鏡を上下させている。
涼しげな声。ウェントゥスだった。
「いくら個性の時代とはいえ、無理に個性を出す必要はないと思うよ」
「そうですよ。そのままのハル君も笑えますよ。そこそこ」
とサティがあとを続ければ、
「そ、そこそこ?」
ジークの口の端が、ひくひく、とひきつった。
レオンは無言で肩を叩いてやった。ポンと。……一応、責任を感じていたのだ。
にこにことその様子を眺めていたビアンカが声をあげた。
「サッちゃん、具合はいかが?」
「!」
訝しく見やるレオンは彼女と目が合った。だが、それに気づいたのか、彼女はさっと目を伏せた。レオンの見間違いでなければ、その蒼と琥珀の瞳はゆらゆらと揺れていた。一瞬、泣いてしまうかと思った。
が。
へらり。
彼女は笑みを浮かべ――誤魔化そうとしているようにしか見えなかったが――口を開く。
「――まあまあです。……ああ、そうだ! それはそうと聞いて下さいよ、おばあちゃん」
「なあに?」
「ハル君ったら、休暇はまだなのにサボ――」
「ちょっと待てこら!」
血相を変えてジークがサティの肩を掴む。
両者は睨み合う。――片方は笑顔のままだが。
先手はジークが打った。
「さっき交渉成立したじゃんよっつーか巻き上げるだけ巻き上げておいてあんたそれはないんじゃないですか!?」
彼は怒気を含んだ声で一気にまくし立てる。苛々と眉間に皺を寄せてはいるが、だらだらと顔に冷や汗が流れていた。
へらへらと笑いながらサティも返す。ノンブレスで。
「でも寝たくない私を無理やり眠らせたんですからチャラですよあんなはした金」
「……くっそー、永眠させておくべきだった」
ジークは額にうっすらと血管を滲ませる。
「ハルドがどうしたの、サッちゃん?」
にっこり。
ビアンカが首を傾げた。
「ウェンとっさーん! ああああああとは俺が剥くから! 任せろ、いえ、任せて下さい!」
彼はばっと弾かれたようにサティから手を離した。そのままウェントゥス――リンゴを剥こうとしていたらしい――に詰め寄る。
「ハルドがどうしたの?」
「何でもない何でもない何でもないってばっ! ああっ! そうだそうそうそうだよ!
王立魔術学院研究所でのリンゴ
☆とは何を隠そう俺のことだぜ、ばーちゃん」
ジークは猛烈なスピードで果物ナイフを動かしいく。冷や汗で眼鏡がずり落ちているのも気にはならないようだ。
レオンは視線を落とした。自然とベッドの横の小机に目が入る。その上には、空っぽの皿が何枚もきれいに重ねられていた。
どう見ても、二人分。
「……それ、昼飯だよな?」
「はい」
「俺の分は?」
サティはきょとんとまばたきをした。机の上からコップを手に取って、そのまま水を飲み干す。そして、腹をさすった。
言われるまでもなくレオンは理解する。すべてを。
「……なんで人の分まで食ってんだよ?」
「フッ。愚問ですね」
「何?」
やけに余裕たっぷりと返され、レオンは片眉をぴくりと上げる。
彼女は蒼と琥珀の瞳に強い光を宿らせる。
「レオン君、知っていますか――昔の人はこう言いました」
「?」
二人は、静かに顔を見合わせた。緊張が走る――
サティのそっと静かな声。
「俺のものは俺のもの。お前のものも俺のもの――と」
「つまり、俺の分まで食っちまったんだろーが!」
あっさりとジャイアニズム宣言され、レオンは叫んだ。
「それはそうとレオン君」
「無視かよ!?」
力の限り叫ぶ。が、やはり、どうということもなく彼女は続ける。
「代行人の契約を結んだのでしょう?」
「……ああそうだよ。って、いつもいつも思うんだが本当に切り替え速いよな、お前」
「光栄です」
「褒めてねえよ!」
たまらず叫び返してから、急激に力が抜けるのを感じて――半分は鳴く腹の虫のせいだが――レオンは近くの椅子に腰を落とした。
「レオン君も代行人の仲間入り、ですね」
「……ああ」
何もかも面倒になってうなずく。空きっ腹に響くのんきな声が何とも忌々しい。
すると、何が可笑しいのか、彼女はにっこりと笑う。それからひらりと右手を差し出してきた。こちらへ。
完全に半眼で、訊く。
「なんだ、その手は」
「やだなー、よろしくお願いしますの気持ちと、レオン君舎弟記念日おめでとうを込めた親愛の握手ですって」
「……俺はお前の面倒を見てやるつもりはさらさらないけどな」
「お父さん、レオン君って不言実行なひとですよね!」
こちらの眼差しをあっさり無視して、サティが思い切り笑いかけた。
言われて、ウェントゥスも目許を和らげた。
「そうだね」
「どんな解釈だそれは」
「そのまんまです」
この親子への抵抗はとてつもなく難しいことだと改めて確認し、レオンは深々と嘆息した。
脱力したまま、うめく。
「……ジーク、俺にもくれ。昼飯代わりにする」
「いいとも。まだまだあるぜ」
その手を休めずにジークは快く返す。
と、サティが不思議そうに声をあげた。
「あれ? ハル君、普通リンゴって何等分かにしてから皮剥くんじゃないんですか」
「へ」
彼女の指摘にジークの手はぴたりと止まる。
レオンも彼の手元を見る。リンゴの皮が、赤い紐のように綺麗に長々と垂れていた。
「あ。本当だ。丸ごとリンゴの皮剥いてから等分するんだな。初めて見た」
「えええええ!?」
ふふっ――と、ビアンカが笑い声を零した。
三人から目を離し、ウェントゥスはビアンカを見つめる。嬉しそうに彼女は笑っている。
こちらの訝しげな視線に気づいたのか、彼女はおっとりとまばたきをする。
「あら。ごめんなさいね。つい安心してしまって……」
「安心?」
「ええ。昔から、ハルドが顔を見せるのはどういう時なのか決まっていますから。それで心配していたのですよ。少しだけ」
ビアンカは吐息混じりにそう言って、瞳をそっと伏せた。淡いアメジストと深いエメラルドがまぶたに隠れる。
「でも、そんな必要はなかったみたいですね」
瞳を上げ、ふわりと笑んだまま付け足してくる。
「サッちゃんも。良かったですね、思っていたよりも心配はいらなかったみたいで」
胸中を見透かしたかのようにそう言われ、自分の眉が下がるのがウェントゥスには分かった。
ため息を吐いて、頭髪を掻き上げる。指を零れ落ちる亜麻色。
「そうだね。下弦の月で本当に良かったよ」
そして付け加える。
「でも、この高さで心配してあげられると思っていたのに、その必要がないのは残念だね」
苦笑すると、ビアンカはにっこりと笑い返す。ベルも優しい光を宿した瞳を眇めて笑っていた。
「普通かどうかはわからんが、等分してからの方が剥きやすいだろ?」
「そうそう」
「俺は断じて信じないぞ! はっ、そうか!」
「「何?」」
「この俺の芸術的ナイフ捌きに全力で嫉妬しているんだな!? そうだ、そうに決まってる! こんなに長く皮を繋げて剥くなんていう神業を目の当たりにしたのは初めてなんだろう、君たち! ん?」
「フッ、笑止!」
「何ッ!?」
「それくらい誰だってできる、とレオン君が言っています」
「……言ってねえし言うつもりもねえよ」
「くうっ、小癪な。よし、ナイフを抜け。勝負だっ!」
「こっちはこっちで聞いちゃいねえしよ……」
顔を寄せ合って言い争う様子は何とも微笑ましい。
満ち足りた眼差しで受け止め、ウェントゥスは瞳を伏せた。伏せたまぶたに陽の光が明るい。
賑やかに午後が過ぎていく。