風が、ほのかに甘い香りを運んでくる。零れんばかりに咲き誇る薔薇。 地面や緑の壁に映る薄い影が、揺れている。 蔓薔薇の入り口を通ると、ぱちん、と剪定鋏の音がした。 いくつかの葉を残し、咲き終わった花の分を切り取っているようだ。 音のする方へ寄ると、ふさふさとした栗色の毛並みが見える。植え込みの間から――そのひとは顔を出した。 「……どうした?」 蜂蜜を溶かしたかのような琥珀色の瞳は、きょとんとしていた。 サティが片手を上げて尋ねる。 「こんにちは、ベルさん。おばあちゃんを知りませんか?」 「ビアンカなら洗濯物を入れに家に戻った」 「入れ違いかあ。そういや、曇ってきたしな」 ジークの声につられてレオンも空を見上げる。青空が、風で流れてきた薄く大きな雲に覆われ始めていた。 「そうだな」 ため息混じりに呟く。サティが軽くベルさんに会釈をしたのを見届けて、この場を立ち去ろうとした。 と。 ぬ、とベルさんが三人の前に立ちはだかった。 「待て」 「?」 見ると、サティとジークも、きょとんと疑問符を浮かべていた。 狼――ベルさんの顔が三人を見下ろしている。レオンは無言で硬直し、ただ次の動きを待った。 琥珀色の瞳が、まっすぐ三人を射て光る。 「一旦帰っただけだ。もうすぐ戻ってくる」 ふと、その瞳が微笑んだ。 「は、はあ……」 少々あっけに取られて返す。 レオンの抱える小包に目をやり、ベルさんが声をあげた。 「ビアンカに、届け物か?」 「いや、マリーベルさん宛てです」 「そうか。おれに、か。わざわざすまないな。……そういえば、応募者全員サービスが届く頃だったな」 そのとき、時間が止まった。 「えーと……」 とりあえず、レオンが返答に窮してうめくと 「何? 何かの暗号ですか?」 サティが訝しげに首を傾げ、 「なるほど。それを解かないと三十分後に黒髭キャプテンが樽から飛び出すとかいうあれだな?」 ジークが神妙な顔つきで呟いた。ぽん、と右手で左手を打つジェスチャーをして。 「お前たちが何を言っているのか、おれにはさっぱりわからない。でも、マリーベルが、おれの名前だということは事実だ」 ………… 目の前が白んだような気がして、一瞬、意識を手放した。 乾いた地面に倒れ、レオンは声もなく、狭い視界に映る地面を見つめていた。ぱたぱた、という軽い足音が、頭が地面に近い位置にあるからか、やけに大きく耳に響いた。 視線を動かすと、白衣が飛び込んできた。少々間延びしたような声が聞こえてくる。 「あらあら、どうしたんですか? 三人そろって何もないところで転んでいるだなんて……」 おっとりとビアンカが首を傾げた。 がばっ、と跳ね起き――震える指を指して、聞き返す。 「……マリーベルさんがベルさんで、ベルさんがマリーベル、さん?」 ベルさんことマリーベル氏は無言でうなずいた。 再び時が静止した。 「あら、初耳ですか?」 こくこく、と三人そろって首を縦に振る。 ビアンカは双色の瞳――紫玉と翡翠玉――を丸くした。 「まあ。あきれた。ハルドまで知らなかっただなんて」 ひきつりまくった声で孫が応戦する。 「む、むむむ無茶言うなよ、ばーちゃん! 俺が物心付いたときには、みんなして『ベルさん、ベルさん』って呼んでたんだぜ? 百歩譲ってベル・サンならまだしも、マリーベルなんてメルヘンは詐欺だろーが!?」 「そうねえ。あなたが生まれるより少し前にベルさんは大聖堂に来たのでしたっけ」 彼女は、右手を頬に当て、ほう、とため息をつく。 「リヒトさん……メールの旦那さんがね、名付けたのですよ」 ね、とベルさんに笑いかけた。マリーベル氏は無言で肯定する。 ビアンカが嬉しそうに笑って、薔薇を指し示す。 「ベルさんは、ガーデニングの才能がありますから。ほら、この庭園がこんなに大きくて綺麗なのは、ベルさんが世話をして下さるからなのですよ」 レオンは改めて周囲を見渡す。赤や黄、白の薔薇が、めいめい気高いその顔を覗かせている。一面の薔薇の海だ。 髪が揺れるのを感じた。 透明な風が渡って、薔薇がさざめく。それほどきつくない上品な匂いが届く。 「ベルさんの小さい頃は、それはそれは可愛らしかったんですよ」 懐かしそうにビアンカが目を細めた。 「無口でおとなしくて、決して自分を主張しようとしない不器用な子。でも、とても聡くて優しい子で……いつだったかしら?」 彼女は小さく首をかしげ、話題の人に笑いかけた。 ベルさんはさほど表情を変えずにビアンカを見返す。けれども、その尻尾は、くたり、と居心地悪そうに揺れている。 「そうそう。メールがリヒトさんから花の鉢植えを贈られたときでしたっけ。そう間を空けずに萎れさせて、メールは酷く落ち込んでしまってねえ……」 そこで彼女の話は途切れた。右手を頬に当て、おっとりと首をかしげる。 「……あら? 何という花でしたっけ? メールが大好きでしたよね、あれ……」 「カーネーションだ」 吼えるような声音でベルさんが指摘した。 「そうそう、カーネーションでしたね!」 ぱちん、と手を合わせてビアンカは嬉しそうに笑う。 「そのとき、ベルさんが熱心に世話をして、花もメールも元気にしてくれたのですよ」 彼女はどこか眩しそうに紫と緑の瞳を細めた。 「ね、素敵でしょう? まるで緑の指を持っているみたいで……。それで、花の妖精マリーベルみたいだねって、リヒトさんが――あらあら、どうかしましたか?」 おっとりと不思議そうにまばたきをして、こちらをまじまじと見つめてくる。 「いや……あの――その――あの……」 言葉を続けることができない。ぎぎぎぎ、と音が出そうなくらい、ぎこちなくレオンは顔を背けた。 見れば、ジークも額に脂汗のようなものを浮かべているようだし、 サティもひきつりまくった表情で突っ立っていた。 彼女はこちらを不思議そうに見つめ返していたが、すぐに止めてしまった。 くすくすと笑みを漏らす。 「それにしても、あのときのメールときたら」 紫玉と緑玉の瞳がいっそう眇められて、可笑しそうにこちらを見る。 柔らかな笑みを含んだ声が、耳に入ってくる。 「飛び跳ねそうなくらい喜んでいて……」 ぶッ―― とレオンとサティ、ジークは示し合わせたわけでもないのに、同時に吹き出した。 「メールってあのメールだよ、な……」 ジークがひきつった声で、こちらに確認するように呟いた。そっとレオンはうなずく。 「……い、今までの流れからして、そーだろ」 「…………」 サティもこくこく、と首を縦に振る。気のせいでなければ、血の気の退いた頬が細かくひきつっているように見える。 「ええ。想像するだけで可笑しいでしょう?」 彼女の瞳がにっこりと弧を描く。どうやら、こちらの動揺を気にしていないようだ。全く。 「でも、実際に見た方がもっと面白いですよ。それを見守るベルさんの方が親のようでしたから、余計にね」 風が耳を打つ。視界の端で薔薇の海が揺れている。 風にさらりと髪を流したままレオンが反応に困っていると、ぱちん、と鋏の音がした。 ぐるりと視線を巡らせば、栗色のふさふさした尻尾がこちらを向いている。ベルさんが剪定作業に戻ったのだ。 その様子に同じように目を移していたビアンカの表情が、曇る。 「この頃のメールときたら――随分疲れている様子ですね。おまけにきちんと眠っていないようですし……」 「……そろそろ、リヒトの命日だからな」 重低音が庭園に響く。こちらに背を向けているために、ベルさんの表情までは分からない。けれども、それはどこか痛いような響きの声音だった。 はっとビアンカは大きな瞳をしばたたいて、眉を下げた。 「――もう、そんな季節になるのですか……心配ですね」 毎年この時期になると働きすぎるきらいがありますから――と彼女は声を落とした。 ビアンカは懐中時計を取り出すと、思案顔で口を開いた。 「すぐに料理長と相談してきます。疲れもとれて、よく眠れるようなメニューを工夫して頂きましょう。メールはああ見えて自分のことには無頓着ですから、こちらが働きかけないと……」 こちらに会釈して、ビアンカは足早に歩き出す。 数歩進んでから、彼女は気づいたように振り返った。 「みんな分かってると思うけれど、くれぐれもメールに余計な仕事をさせないよう気をつけましょうね。始末書とか増やしたら駄目ですよ」 「…………わ、わかってます」 サティがか細い声でうめいた。 遠ざかるビアンカを見送って、レオンはふうと息を吐き出した。 風に自身の髪が揺れるのを感じる。 見れば、サティが疲れた顔をしたままハンカチで冷や汗を拭いていた。ジークはと言うと涼しげな顔をして、ベルさんの剪定した枝を見つめていた。 「ところでベルさん、応募者全員サービスって何ですか?」 視界の端で、彼女がベルさんの方へ移動したのが見えた。……復活を遂げたらしい。 ぱちん、ぱちん。 ベルさんも鋏を動かしながら、律儀に答えてくる。 「雑誌についてきた注文用紙に住所や氏名、希望する商品の数量などを書き、代金分の切手を同封して郵送すれば品物が送られてくるというサービスだ」 「なるほど」 サティは素直に呟いた。が、しばし考えたようだ。 「って、そうじゃなくて……」 「カーネーションの苗だ」 相手もあっさりと返してきた。 「へえ……」 相槌を打って、レオンは―― 「――え?」 あわてて振り返った。サティとジークも、驚いたような表情でまばたきを繰り返している。 「もしかしてメールに――」 「――お前たちの話が早いというところを、おれはとても気に入っている。だから、このことをメールに内緒にしなければおれがこの鋏でちょんぎるということも、お前たちなら当然知っているだろう」 その場の空気が白く凍りつく。 レオンもサティやジークと同様に、こくこくこくと小刻みに首を縦に振った。 何をちょんぎるのか、を彼は告げなかった。それが一番の問題なのだが、疑問符を彼に投げつける勇者は存在しなかった。 それは、ほんの数十秒にしか過ぎない出来事であったが、やけに長い時間のように感じられた。 「……冗談だ」 「…………」 「…………」 「…………」 「……どうした? 顔色が悪いぞ。具合でも悪いのか?」 ベルさんが鋏を動かすのを止め、不思議そうな顔をしてこちらを見つめている。 サティもジークも凍りついたままで反応しない。 ――選択を間違えた ――小包を引き受けたことじゃない。ここに仕事を決めたことだ…… この数時間の出来事を反芻し、レオンは長く長く嘆息した。 それは、ベルさんが冗談を口にした極めて珍しい午後であり、レオンの胸に何となく暗い不安がよぎった午後であった。 |