よく磨かれた白い石の廊下をぞろぞろと歩いていた。 『メールほどではないけど、ばあちゃんもここじゃけっこうな古株だからマリーベルさんのことを知ってるかもしれない』 ジークの一言が行動のきっかけであった。 彼の祖母ビアンカは、医者という仕事柄か、もともとの性質なのか、大変温厚な女性である。彼女がたとえマリーベルのことを知らなかったとしても、誰か知っていそうな者を紹介してくれそうである。 レオンもサティも二つ返事で承諾した。 この白い廊下は礼拝堂とは階が違うからか、人影はほとんどない。先ほどの喧騒がまるで嘘のようである。 外が眩しいせいか、廊下は心なしか薄暗く感じられた。 窓は開け放たれていて、透明な風が通っていく。 廊下の角を曲がり、白い大きな扉の前にたどり着く。医務室である。 白い大きな扉をジークが三回ノックし、扉を開けようとした。 けれども、扉はびくともしなかった。鍵がかかっている。 「何か貼ってありますよ?」 サティの指さす方へ、レオンもつられて視線を投げる。 白い便箋に、黒いインクで几帳面な文字が綴られていた。 申し訳ありません。只今、昼休み中のため外出しております。 お急ぎの方は、三階の第二医務室へお願いします。 室長 末文の下に『A』の刻印が入っている――この部屋の主ビアンカ・アートルムによる知らせである。 「参ったね、家に帰っちまったのかも……」 ジークが嘆息交じりに呟いた。 うなずいて、サティも蒼玉と琥珀玉の瞳をそっと伏せる。 「総合案内を見ておけばよかったですね。すっかり忘れてました……」 「総合案内?」 わからずにレオンが疑問符を投げた。サティはどうということもないようにこちらを見上げてくる。 「観光客が多いというのもありますが、セレスト大聖堂は結構広いから 正門と各階の何百メートルかごとに総合案内図があるんですよ。で、医務室に担当者がいるかどうかの表示がいつも出てるんです。蒼い光が在室で、白い光が不在の表示」 「へえ、便利だな」 レオンが片眉を上げると、サティも首を縦に振る。 「急患を運び込んでも誰もいないんじゃ、困っちゃいますから」 「なるほどな」 再びぼんやりと感心の声をあげる。 と―― 「やあ」 何やら涼しげな声が廊下に反響した。 しかし、視線をめぐらしても誰もいない。目をこすっても、まばたきをしても結果は同じであった。 風に自身の金髪を流しながら、レオンは眉根を寄せた。 「お父さん!」 サティが驚いたような声をあげ、開け放たれた窓のそばへ寄った。 ――そっちかよ…… ようやくレオンもかの人の漆黒の鳥――ウェントゥスの姿を認めた。 「今日も調査ですか?」 「ああ、そうだ。午前の分の報告に戻ってきたところだよ。でも、向こうもなかなかのやり手でね。もう少しかかりそうだ」 「またまた……。お父さん、いつもそんなこと言ってますけど、結局上手くやってるじゃないですか」 「おや、そうだったかな」 可笑しそうな目つきをして、サティの父親は羽を広げた。 一拍置いてから、彼は続けてくる。 「でも、今回はなかなか骨が折れることは確かだ。建物があれば上手く見下ろしていられるけれど、どうも縁のない所ばかり行くものだから……」 「…………」 サティは心配そうな表情を父親に向ける。ウェントゥスは眩しそうにほんの少しだけまぶたを下ろした。 「大丈夫。時間はまだあるから気長に向き合うよ。焦りは禁物だからね」 「はい……」 うつむいて返事をするサティに軽く翼で叩き、ウェントゥスはこちらに向き直った。 「そういえば、誰か具合でも悪いのかい? ビアンカならあいにく留守だよ」 サティの右目と同じ蒼い双眸がこちらを不思議そうに見つめてくる。 ジークが前に出て、口を開いた。 「ウェントっさん、こんにちは。俺たち具合が悪いわけじゃなくて、実はかくかくしかじかで……」 「――なるほど」 ウェントゥスの返事は、今までと違う重々しいものだった。彼はそのまま瞳を閉じると、そっと厳かな声をあげた。 「……ハル君」 「はい」 ごくり…… レオンは唾を呑んでいた。その場にそこはかとなく緊張が走った。 無言のままレオンは二人を見守る。 ウェントゥスがそっと瞳を開いた。 「『かくかくしかじか』ではそう都合よく話は通用しないよ。だから、きちんと説明してくれないかな」 「…………そりゃあな」 レオンは嘆息交じりに、半眼でぼやいた。 ジークは軽く咳払いをして、ビアンカに聞きたいことがあって彼女を探しているのだ――ということを話した。実に分かりやすい説明である。……その部分しか告げていないから当然なのだが。 ウェントゥスは二、三度うなずいてから口を開いた。 「ビアンカなら庭園に行くと言っていたよ。医務室に飾る花をもらいに行ったんじゃないかな」 「ああ、そうだったのか」 ジークが納得したような声をあげ、 「そういえば俺が入院していたときも飾ってあったような……」 レオンもぼんやりと返事をした。 軽くうなずいて、ウェントゥスは涼しげな声音で続ける。 「医務室の者は他の者とずらして休憩に入るから、まだ当分戻ってこないと思うよ。君たちに時間があるのなら、行ってみたらどうだろう?」 「うん。そうします」 ジークが素直に返事をすると、サティが不満そうな声を割り込ませた。 「お父さん、聞いてくださいよ! みんなひどいんですから!」 彼女は眉を吊り上げて父親に訴える。 「メールが私の始末書を見せびらかしたんです! しかもそれを回し読みされるという耐え難い屈辱に遭わされたんですよっ! なんかもうこれって嫌がらせっていうか、ほとんどいじめですよね!!」 彼は、きょとんとまばたきをしてからそっと嘴を開いた。 にっこり。 鳥の表情の変化については分からないが、おそらくそのように笑ったのだろうとレオンは解釈した。 「ちょうど良かった。私もそのことでサティに大事な話があるんだ」 「へ?」 ぴたり、と動きを止めてサティが間抜けな声をあげた。 ジークも分からなかったのか、不思議そうにレインフォルム親子を見つめていた。レオンも、黙って成り行きを見守っていたが。 「メールに聞いたよ。サティはポエムを履き違えているってね」 彼の声は大変落ち着いていて、涼しげである。だが、その蒼い瞳には氷のような光が宿っていた。 「この親にしてこの子あり、というメールの宣戦布告ともとれる視線を読み取った私は考えた。はたして、今まで私は父親として娘に十分な情操教育をしてやれていたのか、と」 なんで説明的口調なんですか、というような指摘を娘が小さくしたようだが、父親はあっさり無視した。 「そこで、だ。ポエムの本を『新世界』からたくさん注文しておいたから、毎日読むように」 「はい?」 たまらずに、サティが聞き返す。 「おや、聞こえなかったのかな」 ウェントゥスの双眸がゆっくりと弧を描いた。 レオンは思わず身震いする。気のせいでなければ、体感温度が五度ほど下がったようだ。 「私は、ポエムの本が届いたら毎日繰り返して読みなさい、と言ったんだよ。いいね?」 「や――あの……」 「――いいね」 「……………………はい」 目を閉じて素直な返事をしたサティは―― どう見積もっても、とにかくひたすら疲れ切った様子ではあった。 |