閃きの王子さま
紺碧に染め抜かれた空。雲がくっきりと白く浮かび上がっている。
じりじりと照り付ける太陽を避けて逃げ込んだ木陰から見える白雲は、それでも眩しかった。
「おやサーヤ」
頭上から聞き慣れたテノールが降ってきた。
小さく笑いながら回覧板をこちらに差し出すひとがいた。
「今日は随分と景気がよいものを持っているじゃないか」
「あっくん」
澄んだ翡翠の瞳を上機嫌に和らげる幼馴染み殿に紗耶もまた頬を緩めた。
「一人でご機嫌にパーティでも開催したのかと思ったよ」
紗耶は今、両手に色とりどりの風船を携えているのである。景気よくとびきりハッピーな絵図であることには違いない。否定できないのが悲しいところである。
「あっくん、夏休みおめでとう! 今日の佳き日におすそ分け」
「光栄に至れり」
一瞬目を丸くしたものの、彼は恭しく少しかがんで受け取ってくれた。物語の王子様の如く優雅で華麗な所作である。正真正銘、おとなりの王子さん家の一彰くんである。夏の陽射しにも負けない立派な幼馴染み殿とその眩しさに紗耶は目を細めた。
「サーヤも夏休みおめでとう」
「ありがとう」
秒速で風船をリリースされる。
こてん。紗耶は首を傾げた。「冗談だよ」と笑い、一彰が再び風船を受け取ってくれた。
「呼び鈴鳴らしても誰も出てこないから留守かと思ったよ」
「ごめんね。風船膨らませるのが思いの外面白くて全然気づかなかった」
祖父母は学校の終業式後に帰宅した紗耶と昼食を囲んだ後、ホームセンターまで買い物に出かけているのだ。紗耶は留守番を仰せつかったのである。物理の演習問題を二ページ終わらせた息抜きのつもりがすっかり熱中してしまった。「天下分け目の受験戦争、夏の陣突入だ」と担任教諭からも檄を飛ばされた矢先の午後である。
がっくり項垂れると、一彰は緩く首を振った。
「まあ、こんなにあれば楽しくもなるだろうし、受験生にも息抜きも必要だよ。それにしてもどうしたんだい、この風船」
「よくわからないけど、開発室で眠っていたとかいう風船をお兄ちゃんが大量に持って帰ってきたの」
「柊介くんが?」
「うん。他にも賞味期限の近いラムネ、かき氷機、あとは去年の花火とかクリスマスリースとか色々『開発室ハッピーセット』を持って帰ってきて、おばあちゃんからアンハッピーなお小言もらってた」
「へえ。開発室も決して広いわけじゃないのによくそんなにスペースがあったね」
「謎のトリオン技術の謎じゃないかなあ」
「謎が重複しているよ」
「謎は謎を呼ぶので強調してみました」
「なるほど」
開発室の収納術も謎ではあるが、忙しい大人たちが季節を楽しもうと風物詩を持ち込んだのに堪能できなかったらしい悲しい謎まで浮かび上がってなんだかしょっぱい気持ちになる。
「回覧板ありがとう。あっくん少し時間ある? 冷えてるラムネを飲むのにご協力いただけると大変助かります」
両手を合わせれば、幼馴染み殿は快活に笑った。
「いいとも。いただこう」
「ありがとう! 助かります!」
口と喉を通り、しゅわしゅわ冷たく淡く溶けるラムネ水に紗耶は生き返った心地がした。風の通る木陰にいたとはいえ、だいぶ身体が火照っていたようだ。
「このラムネ、何を隠そう、三ダースもお兄ちゃんが持って帰ってきてね、おばあちゃんも言葉を失ってねえ……夏なのに昨日は氷河期に突入した三橋一家でしたとさ」
「うーん。柊介くんも困ったお兄さんだねえ」
「うん。『元の場所に戻してきなさい』っておばあちゃんに言われて、『大事にするから~』って今朝もお願いしてたよ?」
くつくつと一彰が笑った。
今朝の兄と祖母は捨て猫を拾って帰宅した小学生とその保護者の攻防のようなやり取りであったのだ。
硝子瓶に浮かぶビー玉を午後の陽射しに透かしていた一彰が秀麗な眉を上げた。
「そういえばサーヤ、今年はおじいさんのラジオ体操スタンプ係にお供するって言ってただろう?」
「うん」
学校の夏期講習を受講する週がちょうど祖父のラジオ体操当番と重なっているのだ。紗耶も登校前に顔を出すことにしたのである。早起きは三文のなんとやらである。
ぴん、と一彰が人差し指を立てた。
「小学生にラムネも振る舞ったらいいんじゃないかな」
「さすがあっくん! 閃きの王子さま! お礼にもう一ダースお付けします!」
「けっこうです」
にっこり。光の速さでノーを返され、紗耶はしょぼしょぼと肩を下げた。
ちりん。軒下に吊るされた風鈴が揺れた。外はどこまでも眩しい夏の輝きに満ちていた。