アルビレオの領分

雨に誘えば

 寄せては返すざわめきに紛れ、音が聞こえてきたような気がして、彼女は足を止めた。
 雨だ。風はなく、灰色に煙りながらまっすぐに空から滴る六月の雨。雨粒がアスファルトを、街の屋根を、そして昇降口の屋根も楽曲のようにリズミカルに叩く。
「あ」
「お疲れ様です」
 宵闇と夕暮れのあわいの空と同じ輝きを成す菫色の瞳と視線が合った。名前がまばたきをしている間に少女は頭を下げた。雨にも負けず風にも負けず、梅雨時の湿気にもへこたれない、どこまでも果てしなくまっすぐサラサラで艶やかなボブがさらりと揺れる。
「お疲れ様です。先週の広報誌も素敵だったね。きらきらしてた」
「……ありがとうございます」
 華やかな広報部隊にしてA級部隊でもある嵐山隊最年少隊員の彼女は、万能手として常にまっすぐ前を見据えて止まることなく走り続けている。この年下の少女――木虎藍のひたむきに努力し続ける姿はいつだって胸を打つ。ポジションも違えば、学年も学校も違うのでなかなか接する機会はない。それでも見かければ、名前はついつい労いの声を掛けて甘やかしたくなるのである。加賀美や国近には「一向に懐かない猫への接触チャレンジ」だと言われているが、当たらずも遠からずである。
 そっけない返しであったが、収穫はあるのだ。クールな返事をしつつ、先ほどから右耳に髪を掛けては下ろしての所作を繰り返している。照れているのだ。可愛い。
 緩みそうになった眉と頬を引き締め、名前は涼しげな声を出すよう努めた。イメージは心に住まう弓場拓磨先輩である。びーくーる。びーくーるだ。
「先週はどうもありがとう。おかげで楽しいひとときを過ごせました」
 きょとん、と菫色の瞳がまたたいた。

「木虎さんのが審査員特別賞だったよ」

 猫のようにまあるくなる菫色の瞳が可愛くて、名前はとうとう口元をほころばせた。両手で丸く筒を作り、背伸びして木虎の右耳に囁いた。

「帽子を忘れてハットした」
「ああ、この間の」

 この春、苗字名前は六穎館高校三年生に進級した。成績順やら文理選択やら進路希望やらの兼ね合いでクラスメイトは昨年度からほぼ持ち上がりの気心知れたメンバーである。週に一度のロングホームルームは最後の学校行事に向けた話し合いや準備、進路指導に時間が当てられるものだが、時折そのどれにも当てはまらない遊びをしている。クラスの親睦を深める目的で始まったそれは、受験勉強の息抜きにもなるだろうと担任教諭からも大目に見てもらっているのだ。
 先週のLHRは、各自十個ずつ駄洒落を持ち寄るというテーマであった。最もポピュラーなものの統計も取れるし、ウィットに富んだものは心を豊かにする。クラスメイトと共に名前もまた張り切って駄洒落ハンターと化した。
 友人やボーダー本部の先輩後輩からも収集を試みた。
 隣のクラスの荒船や犬飼などからは「えらくのんきなクラスだな」「いいじゃん。C組楽しそ~」と言われたが、彼らも駄洒落を快く献上してくれた。曰く、「布団がふっとんだ」と。
 ランク戦ブースやラウンジで捕まえた先輩後輩も多くは「布団がふっとんだ」を教えてくれた。魂に刻まれているといっても過言ではないのかもしれない群を抜いて大人気の駄洒落に頷いていると、天使が現われた。日浦茜が丸めた両手を頭の上に構え、「猫が寝転ぶ」を披露してくれたのだ。はにゃ~んとなる日浦の愛らしさに手持ちの菓子を思わず両手いっぱいに握らせてしまった名前である。奈良坂透も腕組みをして深く頷いていた。
 ラウンジでは何度も布団が吹っ飛んだし、坊主は上手に屏風にジョーズを描きまくり、竹藪も焼けに焼けた。謎だ。機知に富む駄洒落を所望すると、ひとは何故、早口言葉や回文を披露してくれるのだろうか。謎である。そういうわけで、なかなか最後の十個目が集まらず、頭を抱えたそのとき、賢者が現われたのだ。
 濡れ羽色のまっすぐな髪を耳に掛け、澄んだ菫色の瞳で賢者は名前を見据えると、とっておきの知恵を授けたのだ。「帽子を忘れてハットした」と。

「その発想はなかったってクラスでも大好評だったし、お洒落で心が豊かになる駄洒落ですねって担任と副担任の先生からお褒めの言葉があったよ。どうもありがとう」

「いえ、どういたしまして」
 木虎はさっと目を逸らした。耳がほのりと朱く染まっている。口ごもるように右手で口元を覆う仕草も可愛い。緩む口元を隠しているのだろう。大きく噴き出しそうになるのをなんとか呑み込んで唇を開いた。
「お嬢さん、このあとお茶でもいかがです? お礼に一杯ごちそうさせてくださいな」
 本部すぐそばのチェーン店を指差して、名前は思い切り笑いかける。
「藍ちゃんのめくるめく近況を聞きたいです」
「……いいですよ」
 名前先輩のお話も聞かせてくださるのなら。
 小声でそっと付け足された一言に名前はぴょんと跳ね上がった。凜とした響きに胸が躍る。初めて名前で呼ばれたのだ。
「お茶一杯分だけですからね」
 口調こそそっけないが、日当たりのいい場所で寝そべる猫のように菫色の瞳は緩んでいる。
 さっと傘を開くと、木虎は雨の中に一歩を踏み出した。凜と背筋を伸ばして先に歩く少女の背を眺め、名前は深く息を吸った。胸の奥まで、雨の匂いで満たされる。まっすぐと降り注ぐ雨をたっぷりと含み、みずみずしい初夏のみどりの青く澄んだ匂いだ。灰色に煙る雨で奥を見通すことはできない。けれども、明るくまばゆい世界を、やわらかく静かに包んでくれているようでどこか落ち着いた心地がする。
 今日が雨で良かった。名前はだらしなくふにゃふにゃ緩む頬を隠す言い訳にできる傘を広げ、少女の背中を追いかけた。


あとがきなど

木虎ちゃんをかわいがり隊。ツンツンガールから得られる微量のデレはたいへんよいものです。