きっと、名探偵。
「サーヤ先輩!」
「うん?」
朗らかな声が紗耶の足を止めた。
「先輩もついにこちら側の人間になられたのですね。歓迎します! ウェルカムです!!」
まず耳に通ったのは歓喜の声。次いで緑の黒髪が目の前で大きく揺れ、喜色満面の笑みを浮かべた少女が紗耶の両手を力強く握った。
ぱちぱち。ぱちぱち。三橋紗耶は目を瞬いて、相手を見上げる。
「栞ちゃん?」
「はーい!」
玉狛支部の優秀なオペレーター宇佐美栞が上機嫌に応えを返してくれた。ラウンジの喧騒の中でも彼女の声は澄んだまま耳に通る。
「ええと、こんにちは?」
「はい! サーヤ先輩、こんにちは! 今日も大変よきメガネ日和ですね!」
「え……はい」
宇佐美は気さくで気取らない快活な少女だ。けれども、今日はやけに瞳が爛々としているし、何故だかやけにぐいぐい迫って来る。強い。圧が強い。
「いやだなあ。とぼけちゃって。小さな一歩かもしれませんが、我々にとっては大きな一歩ですよ」
「そ、そうなんだ? いや、そうかな? ううん、そうかも」
何がなんだかわからない。皆目見当がつかない。が、こういうときはもっともらしい顔つきで相槌を打ち、七割ほど聞き流しておくのが良い。年の離れた兄の小粋なトーーク(本人談)を子守唄に聞きながら伊達に十七年間すくすく育ってきたわけではない。
ほそりとした少女の白い指が、眼鏡のブリッジを押し上げた。きらり。レンズもその奥の瞳も煌めいた。
「メガネ人口に新たな民が誕生した。歓迎せずにいられますか!?」
「いや、ない……?」
思わず反語表現で返しかけ、紗耶はようやく閃いた。今日は訳あって自分が眼鏡をかけているということを。そして、常日頃から“メガネ人口”を増やさんと野望、否、大志を抱く宇佐美栞がそれを歓迎どころか祝福してくれているのだということを。
こちらの胡乱な目つきに宇佐美が我に返ってくれた。
「すみません。サーヤ先輩がメガネかけているの初めて見たから嬉しくなっちゃいました! つい!」
ほんのりと朱く頬を染め、誕生したばかりの新星の如く煌めいた瞳。「エヘ!」と頬を搔く宇佐美が眩しい。邪気のない圧倒的な笑顔に紗耶は白旗をあげた。
「ごめんなさい」
「へ?」
目を白黒させる後輩の顔がまっすぐ見ていられない。紗耶は頭を下げたまま、真相を告げる。
「ごめんね栞ちゃん。メガネ人口は増えないです」
「え」
「あのね。これ、生粋の眼鏡じゃないんだ」
黒く象られたステンレス合金のフレームを持ち上げ、告げる。
「犯人追跡眼鏡」
「えっ⁉」
「――のようなものを作れないかって納期明けハイテンションの兄が遊びで作ったものをかけることになった妹の図です」
紗耶の兄はボーダー本部で働くシステムエンジニアだ。主にトリオン・エネルギーの力率についてなんやかんやしているらしい。なんやかんやは、なんやかんやである。
激務が続くと、兄はいつもクッキーを焼いたり、マフィンを焼いたりする。布団で寝るのではなく、睡魔が降りてくるまで手を動かすことを好むのだ。曰く、「手を動かすと確かな実績も確かな満足も得られるからね」とのことだ。働くということはとても大変なことなのだな、とお相伴に預かりながら、しがない学生の妹はいつも痛感する。
その兄が三日ぶりに家に帰ってきたと思ったら、工作を始めた。
そして、完成したのが国民的推理漫画の江戸川コナンくんがかけている“犯人追跡眼鏡”そっくりの形をした眼鏡である。
「あくまでも今回完成したのは眼鏡の形だけで。あのアンテナもいわゆるウェアラブル端末要素はまだ何も搭載されていないよ。今日はかけ心地の調査というか実験というか」
でも、と紗耶は頬の力を抜いた。
「お兄ちゃん、将来的にはこのトリオン技術を、防衛任務とか遠征とか特殊状況下だけでなく、普段使いできるものにも何か応用できないか考えているみたい。……ついでに告白すると、わたしの視力は両目ともA判定なのでレンズに度が入ってません。だから、申し訳ないけど栞ちゃんのメガネ人口増加の野望……じゃなかった、希望の前進には繋がらないんだ。ごめんね」
もう一度頭を下げる。
がっかりするかな、と両手を合わせたまま彼女を上目遣いにそっと見る。
けれども――少女はレンズをきらりと光らせた。
「それこそメガネ人口増加の鍵ですよ! ウェアラブル端末はメガネ人口を救う! 大メガネ時代到来間違いなし!」
「ひえ」
「というのは半分冗談で」
「半分は本気なんだね……」
思わず半眼で指摘すると、宇佐美は晴れやかに笑った。
「それはもちろん」
「栞ちゃんはしょげないめげない元気でよい子だなあ……」
それだけを呻く。けれども、宇佐美は目元と頬を思い切り緩めた。
「そりゃあ、そうですよ。サーヤ先輩とお喋りしたら心温まりましたし。もうほっかほかですよ」
「うん?」
首を斜めに傾げる紗耶に宇佐美は人差し指をぴんと立てた。
「サーヤ先輩、なんだかんだでお兄さん想いなんですねえ」
「え」
「お兄さんのお話してたとき、やさしい顔してましたよ。とっても」
にやにやと頬を緩め、宇佐美は更に距離を詰めてきた。
「ねえ、先輩。気づいてました?」
そして、そう囁いた。
「サーヤ先輩がお兄さんの焼いたクッキーをアタシたちに快くお裾分けしてくれるとき、先輩は誇らしげで得意げで、こっちもつられて笑っちゃうくらい、くすぐったそうにやさしく笑ってるんですよ。いっつも」
澄んだ声に乗せられた言葉の意味をゆっくりと砕いて、飲み込んで。宇佐美の明るい声音とほどけるような笑みを足して、もう一度砕いて、ゆっくりと飲み込む。
「⁉」
瞬間、頬が燃え上がった。
口をぱくぱく開閉させる紗耶を見下ろし、相手は更にとどめを刺した。さすが元A級風間隊、現玉狛支部の誇る敏腕オペレーターである。判断が速い。
「お兄さんのこと大好きなんですね。妬けちゃうなあ」
「……探偵さん、もういいでしょう。何が望みなんです」
やっとのことで紗耶が呻くと、宇佐美は屈託なく笑った。
「続きは事務所で聞かせてもらいましょうか。例のクッキーを食べながらたっぷりと」
びしっと空いているテーブル席を指し、相手は笑った。
鼻歌交じりに歩く名探偵の背中をじっとりと見やる。
紗耶の鞄には今日も兄が持たせてくれた手作りクッキーの詰め込まれた缶が鎮座している。けれども、紗耶の頬の火照りはまだ当分冷めそうになかった。