アルビレオの領分

キャットミーツドッグ

 少年は柳眉を僅かに寄せたものの、すぐに深々と頭を下げる。
「すみません。ではお言葉に甘えて。ありがとうございます」
「いえいえ、そんなそんな! こちらこそありがとう。烏丸くん」
 へらり。笑いかければ、烏丸少年はもう一度だけ頭を下げた。律儀である。それから紙袋を抱え直すと、ゆっくりと踵を返した。自由自在に跳ねる黒髪が弾く光は、蛍光灯よりも眩しい。
 任務終了。軽くなったトートバッグを肩にかけ直し、歩く。と――
「ずるい!」
「へ」

 自動販売機の影に引きずり込まれた。とりあえず、眉を下げてそれらしい叫び声を絞り出す。「あなや」と。
「ずるい!」
「え?」

 犯人は赤みがかった髪を怒りに震わせた美少女だった。突然のホラー展開に瞬きを返せば、美少女は爛と光る猫に似た瞳をますます大きく吊り上げた。
「ずるい!」
 聞こえていないと思ったのか、もう一度言い直して来るあたり、良い子である。犬歯まで惜しみなく見せてくれているのに、険悪な表情さえも美少女である。
「え、え!? なになになに!? 藪からスティック!? 自販機から美少女!?」
 襟首を引っ張られたまま仰け反る。

「まあまあ。香取さんや。びーくーる。びーくーる。ほら、クッキーを食べよう。今なら期間限定鳥丸くんも食べるおそろい(かもしれないし、おそらく弟くん妹さんに献上されてしまうかもしれない)味だ!」
「……サーヤ先輩のそーいうとこ、ほんっとムカつく」
 赤い美少女こと香取葉子は今世紀最大の極大ため息を吐いた。
「ずるいってなあに?」
 笑いかけながら期間限定販売のミルクティーを差し出す。

 一瞬躊躇ったようだが、細い指が缶を受け取ってくれた。もう片方の汁粉ドリンクはお気に召さなかったようだ。おずおずと小さく五文字を紡いだ唇に、「どういたしまして」と笑いかける。
「……バレンタインデーでもないのに鳥丸くんに手作りのお菓子渡して受け取ってもらうなんてずるい。しかもちゃんとおいしいし。ずるい」
 つんと尖らせた形の良い唇はパールオレンジ色に彩られている。透け感のあるそれは、この秋発売されたばかりの新色だ。ぷるぷるしているのは怒りに震えているのも何割かあるようだが、日頃からこまめなケアを欠かしていないからだろう。傍目にもよく分かる。
 怒りと照れで薔薇色に燃えた頬。興奮でうっすらと涙の膜を張った猫目。紙袋と口元を素早く往復する華奢な指。可愛い。

「ずるい」
 不満げに大きな猫目がじっとりとこちらを見下ろしてくる。
 大いに不満ありというポーズを取りつつもクッキーとこちらを忙しなく行き来する目線にも、いくぶん下がったトーンの声にも紗耶は吹き出しそうになった。もちろん未遂だ。耐えた。二度と口をきいてもらえなくなりそうなので。自分は先輩だから我慢できたけれど後輩だったら我慢できなかった。そう思う。
 少女のように誰かをまっすぐに想う気持ちはとても素敵だ。ただし、物影から問答無用で首根っこを掴むのはいただけないものがある。指導しないといけない。先輩として。
「ありがとう。お兄ちゃんに伝えておくね。葉子ちゃんお墨付きの美味しさだって。お兄ちゃんもボーダーの『ステラおばさん』の称号は伊達ではないって喜ぶと思う」
 思い切り笑い返せば、美少女は凍りついた。
「は?」

 混乱したままでは兄の手製クッキーのおいしさも半減するだろう。人差し指をぴんと立て、笑う。事件は複雑ではないのだが、もう少しお姫様の混乱が解けるのを待つのが得策だろう。汁粉ドリンクの缶を少し窪ませて、開ける。
 ようやく飲み頃まで冷めた汁粉をちびちび飲みながら紗耶は種を明かす。

 本部開発室のエンジニアである紗耶の兄が開発室の買い出し当番でスーパーに出かけた。選ばれし者の知的飲料ドクターペッパーの在庫が尽きたからだ。しかし、兄は途方に暮れることになる。迫る納期故に兄が本部と自宅のみを往復していた間にスーパーでは秋の模様替えがあったのだ。かくしてオアシスを探し求める砂漠の旅人の如く、兄はしおしおと店内を彷徨うことになった。しかし、救いの手はすぐに差し伸べられた。偶然にもアルバイトのシフトで棚卸しをしていた烏丸京介そのひとである。烏丸少年が颯爽と棚まで案内し、兄も開発室もめでたしめでたしというわけだ。

 兄の代わりにお礼参りをした妹の真相を知った香取は頭を抱え、呻いた。
「ずるい……」
「え!?」
「ずるい! 『口さえ開かなければ美しすぎる男殿堂入り』の格好いいお兄さんに手作りクッキー焼いてもらえるうえに、お兄さんきっかけに鳥丸くん会話イベント発生してるし! アタシが言いがかりつけても余裕綽々どころか態度緩いし!」
 理不尽にもほどがある。紗耶は目を丸くした。けれど、香取はあからさまにほっとした顔つきでクッキーを更にスピーディーにもりもり頬張り始めた。唇も頬も緩んでいるのがよく見える。おまけに言いがかりの自覚があって甘えてきたのも分かりやすくて可愛い。
 大きな猫が家にいたら毎日こんな感じなのかもしれない。緩む頬に任せ、笑う。
「わたしは誰かさんちみたいに防衛任務終わりに近くまで迎えに来てくれて、ふわふわもこもこの手編みマフラーを巻いてくれるお兄ちゃんが羨ましいけどなあ」
 先月の合同任務の日だ。大陸から入り込んだ寒気の影響で十月一番の冷え込みとなった夜のことだ。ほそりと照らされた月明かりの道で、おそろいの手編みマフラーをぐるぐる巻く香取兄妹の姿はとても微笑ましかった。
 パールオレンジ色の唇をつんと尖らせ、香取はじっとりと見つめてきた。

「……見てたなら声掛けてよね! サーヤ先輩だって帰りが独りじゃ危ないでしょ」

 ぷうと膨らんだ相手の頬は、薔薇色に燃えている。紗耶は両指に力を込めた。猫ちゃんの可愛い言いがかりに眉も頬も緩んでしまう衝動を汁粉ごと飲み干すために。