きゅう。眉が下がるのを自覚する。息を吸って、大きく出す。背を正し、前を見据える。
こまった。
壁が厚い。強固なディフェンス陣である。一人の隙を突いても、斜め前の守備にすかさず阻まれる。更にそれを交わしても、新たに別のガードが入るのだ。隙がなく層の厚い頼もしい精鋭チームだ。
こまった。とてもこまった。
出席番号の席順に不満はない。特に一列前の子は、高校に入ってから初めて同じクラスになった女生徒だが、おおらかで気立てのやさしい子なので緊張せずに交流できている。不満も不服もない。だが。しかし。でも。けれども――前列の誰も彼もが背が高いのだ。同じ新一年生なのにそろいもそろってすらりと背が高いのである。
前の席の友人が書き取ろうと身をかがめた隙に背を伸ばして黒板を狙う――が、二列前の女子のすらりとしなやかな背中がそびえ立つのだ。座ってはいるのだが。さすがバスケ部所属である。左から顔を出しても、左斜め前の男子の縦に長くて広い背中が大きく立ちはだかる。着席しているのだが。落語研究会は伊達ではない。長い寄席にも耐えうる体長なのだろう。
うんうんうなずいて、壁に掛かる時計を見上げる。予鈴までのカウントダウンが始まっていた。チャイムが鳴れば、一時限目の数学に向けて日直が板書を消してしまうだろう。
こまった。高校一年生初めての模擬試験。がんばりたいのにまずスタートラインに辿り着けない。とてもこまった。当日の時間割がさっぱりわからない。強固なディフェンスを突破できない。すごくこまった。いっそのこと、このまま敢えて時間割の全貌を把握せずに真の実力テストとして臨むのもありなのではないか――ちょこちょこ背を伸ばしてはひょいひょい顔を出す終わりなき戦いに疲れ、そんなことをなんとなしに考える。だが、「諦めたら試合終了ですよ」と有名なバスケ部監督は仰っていた。目を閉じる。深く呼吸する。まぶたを上げる。そうして、もう一度、背を正す。と――
ひらり。
「え」
白が、視界いっぱいに広がった。
5/20(日)第1回全統模試
数学 9:00~10:20
英語 10:30~12:00
昼食 12:00~12:45
国語 12:45~14:25
☆時計の代わりに携帯電話などの電子端末使用は禁止!
☆必ず昼食持参を! 食堂も購買も休業日!
白いルーズリーフには、五月に開催される模擬試験の時間割と禁止事項が綴られていた。
飾り気のない書体だ。急いでシャープペンを走らせたからだろうそれは、右肩上がりの文字だがはっきりと書かれているので読みやすい。最後の“はらい”が一番力強くて、ほのかに先が丸くなっている。担任教諭が描いた星のマークをそっくりに写したのだろうか。いや、先生のものはいつも縦に長い。二つ並んだ星。それぞれの角は、ほんのり丸い。それが、少し可愛い。
五月二十日に実施される初めての全統模試時間割だ。欲していた情報が、そこにはある。
理解した途端、息が止まった。
右隣から助け船が出されたのだ。右隣の席に座るのは、男の子だ。それも入学式の日に教室まで案内してくれたとても親切な男の子だ。何から何まで頭が上がらない。
自分と同じ新一年生なのに、どうして彼はこんなにも周りに目が行き届いて、ためらわずに手を差し伸べることができるのだろう。
「……あの、あの…………うたがわくん」
自分から進んで男の子に話しかけるには、勇気が必要だ。それも、大いなる意気と大量の気概が。今週どころか今月いっぱい分は掻き集めねば足りない。家にいる小学二年生男子とは毎日気軽に話せるのに。
少女は緊張いっぱいのまま、唇を、ひらいた。
「……歌川くん、ありがとう」
情けないことに絞り出せた声はどう見積もっても震えていたし、ひどく小さかった。
けれども、そのひとは少女の小声に気を悪くすることもなければ、緊張をからかったり聞き咎めたりすることもなかった。代わりに、そのひとは笑みを落としたのだ。そっと。ふわ、と。
「初めての模試、お互いがんばろうな」
大きな窓からは、朝の光が燦々と降りていた。教室の中をやわらかく彩る春の陽光は、廊下側に位置する少女の机にもルーズリーフにも、右隣のそのひとの肩と頬にも届いている。
そのひとの穏やかな顔。すっきりと短く切り揃えられた栗色の髪。額に大きく掻き上げられたその前髪一本一本が、春光を帯びて金色に縁取られている。なんだかきらきらしている。
ぼうと見上げたまま少女は首を縦に動かした。こくん。
そのひとはもう一度少女に笑いかけ、姿勢を正した。数学のノートと教科書を机に並べ始める。それから最後に黒板とルーズリーフの時間割をひとつずつ確認し、うなずいた。クリアファイルにそれを丁寧な所作で入れ、音を立てずに机に収めた。
仕舞われたのは、少女に差し出したのとそっくり同じ、右肩上がりの文字で、星の形がほのかに丸い模試時間割。
胸のあたりが、きゅう、となった。
あたたかいものが、胸のあたりから込み上げてくる。やがてそれは、喉、頬、腹、指先、爪先にまで、じんわりじんわり広がっていく。
まぶしい――
そう、思った。
春の陽射しにあたためられた穏やかな風が、教室を渡った。
予鈴が鳴ろうとしている。
ウエストミンスターの鐘の音と共に、まもなく少女の物語も幕が開く――
こまった。
壁が厚い。強固なディフェンス陣である。一人の隙を突いても、斜め前の守備にすかさず阻まれる。更にそれを交わしても、新たに別のガードが入るのだ。隙がなく層の厚い頼もしい精鋭チームだ。
こまった。とてもこまった。
出席番号の席順に不満はない。特に一列前の子は、高校に入ってから初めて同じクラスになった女生徒だが、おおらかで気立てのやさしい子なので緊張せずに交流できている。不満も不服もない。だが。しかし。でも。けれども――前列の誰も彼もが背が高いのだ。同じ新一年生なのにそろいもそろってすらりと背が高いのである。
前の席の友人が書き取ろうと身をかがめた隙に背を伸ばして黒板を狙う――が、二列前の女子のすらりとしなやかな背中がそびえ立つのだ。座ってはいるのだが。さすがバスケ部所属である。左から顔を出しても、左斜め前の男子の縦に長くて広い背中が大きく立ちはだかる。着席しているのだが。落語研究会は伊達ではない。長い寄席にも耐えうる体長なのだろう。
うんうんうなずいて、壁に掛かる時計を見上げる。予鈴までのカウントダウンが始まっていた。チャイムが鳴れば、一時限目の数学に向けて日直が板書を消してしまうだろう。
こまった。高校一年生初めての模擬試験。がんばりたいのにまずスタートラインに辿り着けない。とてもこまった。当日の時間割がさっぱりわからない。強固なディフェンスを突破できない。すごくこまった。いっそのこと、このまま敢えて時間割の全貌を把握せずに真の実力テストとして臨むのもありなのではないか――ちょこちょこ背を伸ばしてはひょいひょい顔を出す終わりなき戦いに疲れ、そんなことをなんとなしに考える。だが、「諦めたら試合終了ですよ」と有名なバスケ部監督は仰っていた。目を閉じる。深く呼吸する。まぶたを上げる。そうして、もう一度、背を正す。と――
ひらり。
「え」
白が、視界いっぱいに広がった。
5/20(日)第1回全統模試
数学 9:00~10:20
英語 10:30~12:00
昼食 12:00~12:45
国語 12:45~14:25
☆時計の代わりに携帯電話などの電子端末使用は禁止!
☆必ず昼食持参を! 食堂も購買も休業日!
白いルーズリーフには、五月に開催される模擬試験の時間割と禁止事項が綴られていた。
飾り気のない書体だ。急いでシャープペンを走らせたからだろうそれは、右肩上がりの文字だがはっきりと書かれているので読みやすい。最後の“はらい”が一番力強くて、ほのかに先が丸くなっている。担任教諭が描いた星のマークをそっくりに写したのだろうか。いや、先生のものはいつも縦に長い。二つ並んだ星。それぞれの角は、ほんのり丸い。それが、少し可愛い。
五月二十日に実施される初めての全統模試時間割だ。欲していた情報が、そこにはある。
理解した途端、息が止まった。
右隣から助け船が出されたのだ。右隣の席に座るのは、男の子だ。それも入学式の日に教室まで案内してくれたとても親切な男の子だ。何から何まで頭が上がらない。
自分と同じ新一年生なのに、どうして彼はこんなにも周りに目が行き届いて、ためらわずに手を差し伸べることができるのだろう。
「……あの、あの…………うたがわくん」
自分から進んで男の子に話しかけるには、勇気が必要だ。それも、大いなる意気と大量の気概が。今週どころか今月いっぱい分は掻き集めねば足りない。家にいる小学二年生男子とは毎日気軽に話せるのに。
少女は緊張いっぱいのまま、唇を、ひらいた。
「……歌川くん、ありがとう」
情けないことに絞り出せた声はどう見積もっても震えていたし、ひどく小さかった。
けれども、そのひとは少女の小声に気を悪くすることもなければ、緊張をからかったり聞き咎めたりすることもなかった。代わりに、そのひとは笑みを落としたのだ。そっと。ふわ、と。
「初めての模試、お互いがんばろうな」
大きな窓からは、朝の光が燦々と降りていた。教室の中をやわらかく彩る春の陽光は、廊下側に位置する少女の机にもルーズリーフにも、右隣のそのひとの肩と頬にも届いている。
そのひとの穏やかな顔。すっきりと短く切り揃えられた栗色の髪。額に大きく掻き上げられたその前髪一本一本が、春光を帯びて金色に縁取られている。なんだかきらきらしている。
ぼうと見上げたまま少女は首を縦に動かした。こくん。
そのひとはもう一度少女に笑いかけ、姿勢を正した。数学のノートと教科書を机に並べ始める。それから最後に黒板とルーズリーフの時間割をひとつずつ確認し、うなずいた。クリアファイルにそれを丁寧な所作で入れ、音を立てずに机に収めた。
仕舞われたのは、少女に差し出したのとそっくり同じ、右肩上がりの文字で、星の形がほのかに丸い模試時間割。
胸のあたりが、きゅう、となった。
あたたかいものが、胸のあたりから込み上げてくる。やがてそれは、喉、頬、腹、指先、爪先にまで、じんわりじんわり広がっていく。
まぶしい――
そう、思った。
春の陽射しにあたためられた穏やかな風が、教室を渡った。
予鈴が鳴ろうとしている。
ウエストミンスターの鐘の音と共に、まもなく少女の物語も幕が開く――

