きみにより想ひならひぬ

放課後 : 薫る香に

 降りみ降らずみの定めなき糸雨が続く一日であった。

「今日は休んでもよかったんじゃない? 雨なんだから」

 バスタオルで少年の頭も肩も包み、母が零した。
 頼れる友人で同部隊の仲間、菊地原から教室でも本部でも繰り返し歌われたフレーズだ。家でも言祝ぎ代わりに贈られるとは思わなかった。眉を下げ、返す。

「ただいま。南の島の王様じゃないんだから……」
「そうね。どんなときでもそれをしないのがあなたのいいところよね。おかえりなさい。遅くまでお疲れ様」

 ふわりと笑い、母は濡れたブレザーをハンガーごと預かってくれた。礼を伝え、洗面所に向かう。
 しとしと雨は降っているが、深夜には強い降り方へと変わるらしい。気象予報士の声が聞こえてきた。まだ梅雨の走りであるが、まぶしく暑い夏の足音がする。毎年馴染みある準備期間の長雨の憂鬱に、街の防衛任務に携わる少年は小さな嘆息を零した。蛇口を捻り、手も顔も喉も洗う。少し沈む気持ちごと清澄な水で流していく。

 ドアノブを回せば、居間は暗い。代わりに、あたたかな気配のする空気に迎え入れられた。不思議なことに、ひとの生活する家としない家とでは纏う空気が異なる。食事のために起こされた火の気配。夕食を囲む家族の朗らかな語らい。それらすべてが少年の帰る頃には消えていても、余韻として室内をやわく穏やかに包んでいる。

 ソファで姉と父が船を漕いでいた。社会人となり家を出ても弟が歳を重ねる当日に必ず祝いに来てくれる姉のやさしさが嬉しくて、面映ゆい。急な代行任務とはいえ、疲れている三人を待たせて悪いことをしたな、と彼は眉を下げた。せめてもの詫びに細い指が大事そうに抱えているリモコンを攫ってテレビの電源を切る。と――

 机から甘い香りがした。薔薇だ。薔薇が咲いている。青みを帯びた淡い紫色のまあるい薔薇の花が、奥ゆかしく、けれども、清らかに凜とまっすぐ背を伸ばしている。

 立ち尽くす少年の耳に、笑い声が届いた。白いカードを差し出して母が悪戯っぽく微笑む。お手紙です、と。
『貴方のファンより』
 あるのはそれだけだ。けれど、ずっと見ていたくなるまっすぐでうつくしい字だ。星を煌めかせた瞳で彼を見つめ、あどけなく笑ってくれる恋人の姿が、まなうらに見えた。胸に灯るあたたかな気持ちに彼は眦を緩めた。





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