第2話 彼の力 彼女の力
よく使いこまれた剣にナイフ。真新しい地図。清潔なタオル。洗い替え用の上着と下着。雨具。パンと干した肉。水筒。
「何て言うか、その……」
青年の荷物の中身をすべてその場に広げてから少女は遠慮がちに言った。
青年は無言のまま視線で問う。ちなみに彼の手足はまだ拘束されている。嘆息混じりに疑問を発してやる。
「何だ?」
「恐ろしく不思議なことに全然金目のモノがありませんねえ」
「……まあ引っかかる部分は置いておくとして、全然盗品なんてないだろ」
ややひきつりながら彼は告げる。
だが、少女の返事はなかった。
違和感を感じたが、しばし待つ。それでも答えがなかったので、少女をまっすぐと見つめて彼は聞き返した。
「どうした?」
少女の顔は傍目にもわかるくらいに青ざめていた。
そして、絞り出すように声をあげた。
「こ……れ」
「?」
「どうしてあなたが――」
と――
何かを続けようとしたのだろうが、少女の言葉がそこで止まる。訝しく思い、青年は首をひねって少女の目線の先を追った。そのまま十数秒が経過する。
がさっ。
藪が割れた。かき分けたものは、熊のような大きさだが、熊とは形容しがたい異形の生き物だった。
「ガアアアアアアアア!!」
それは弾けるように駆け出す。こちらへ。
「――――っ!!」
彼は総毛立つのを感じるが、身体の自由は依然として奪われたままだ。あと数センチというところまでそれが近づいていることを全神経が知らせてくる。
ふわ、と身体が浮くのを感じて驚いた。彼は目を瞠る。
木漏れ日はなく、夕暮れの空が眼前に大きく広がっていた。風が吹いている。雲は少ない。
何だか一瞬状況が把握できない。
先刻の獣が足下にいて、自分を見上げている。そのそばの大地に雲ではない影が二つある。
本能的に理解する。
「飛んでる……のか」
「何とか……間に、合いました、ね」
風に負けそうな、少女の声。
「!?」
驚いて声の方向に目を向けると、そこには少し困ったような表情でこちらを見下ろす少女の姿があった。
少女の背中には純白の翼が生えている。あの場から少女が瞬時に自分のマントをつかんで上空高く飛んだのだ。
まばたきも忘れて彼は呟いた。乾いた声だった。
「天使……有翼人、か。はじめて見た」
「うん、でもっ! そんなことより重い……」
青年をつかんだまま飛ぶのには無理があったのだろう。みるみるうちに高度が下がっていく。それでも何とかもちこたえて、落下はぴたりと止まる。
「解除せよ」
短く小さく、少女がそう呟く。と同時に、何かが弾けるような、ぱちんという音がした。振動と共に枷が弾け、手足が自由になる。
少女が叫ぶ。
「これで走れますか!?」
上空の冷たい風を、胸一杯に吸い込む。頭の芯が冷え、身体のだるさも取れてきたのを感じる。彼はうなずいた。
「十分だ」
言われて少女はとっさに手を放す。
青年は衝撃のない体勢をとろうと身体を動かし、上手く足から着地した。
獣が青年の方に身を傾け、一気に駆け出してくる。
「ガアアアアァァ!!」
彼はその間にすばやく体勢を立て直し、意識を整える。
そして。
彼も駆け出した。
マントの下で剣の柄に手をかけて――抜刀する。
一気に駆け抜けて標的を通り過ぎ、抜刀したまま彼は動きを止める。
――と。
獣の胴体が斬り落とされ、地面に倒れた――ように見えた。
しかし、実際に地面に落ちたのは、そばの太い木であった。斜めに切れ目が入り、獣に向かって倒れたのだ。
大木の崩れ落ちる音が鳴り止む頃、獣はその場に倒れていた。眠るように、完全に気を失っていた。
しん……とした静寂の中、ぱちぱちぱち、と気の抜けた拍手が響いた。これまたのんきな声と共に。
「お見事です。……それにしてもその獣を斬ろうと思えばできたと思うんですが、どうして斬らなかったんです?」
「それはどーも。……無駄な殺生は好きじゃない」
青年はその声に一応答えてやる。
彼が向けた視線の先には、草を踏んで立つ、亜麻色の長い髪を流した天使――有翼人の少女。今はどういうわけか、その背中に白い翼は確認できない。
少女は懐から一枚の紙を取り出した。
「これ」
紙に印刷された紋章を見て、青年は眉を寄せた。先ほど広げた青年の荷物の中にあったものである。
「紹介状だ。聖都ファティマのセレスト大聖堂の」
聖都ファティマはここアルカディア王国の都の一つである。緑と石畳の壮麗な、歴史ある美しい場所だ。この世界――アルス――のマナの力の流れが交差する、大きなパワースポットにあることで知られている。
また、中心地にあるセレスト大聖堂には毎日多くのものが礼拝に訪れるため、観光名所としても有名である。
レヴェランド・メール――――偉大なる母。
慈悲深く聡明、落ち着いたやわらかな物腰のまさしく“聖母”と冠された女性がそのセレスト大聖堂をまとめているという。
書いてあるだろ、と続ける前に少女に遮られた。
「いや、そうではなくて。どうしてあなたが?」
「この間、そこのお偉いさんにスカウトされてな」
彼が嘆息混じりに呟く。
と。
少女は息を吸い込んだまま凍りついてしまった。
そして――
彼女は青年の方へ歩み寄ると、いきなりぺこりと頭を下げた。その突然の光景に、彼はまばたきすることしかできない。
急に自信をなくしたのか、少女は、うつむきながらためらいがちに言い始めた。
「あの……ごめんなさい。先ほどは勘違いとはいえ、大変失礼しました」
彼女の声は消え入るように途切れた。彼はじっと耳を傾ける。
「それを持っている人が……そんな盗賊まがいなことをできるはずないんです」
「なんで」
聞く。と、少女はその紋章を手で示した。
「ここに何か良からぬことをすれば燃え尽きるよう術がかけてありますから」
「!」
言葉の響きに一瞬どきりとして彼は少女をまじまじと見つめる。彼女はそのまま言葉を紡ぐ。
「レヴェランド・メールの人選に間違いはありませんし、彼女の決定は絶対です」
ふっと短く息を吐いて、少女は笑う。
「だから、あなたを信用します。わたしもセレストの人間ですから」
その決然としたあかるい蒼と琥珀の瞳を見て、彼は金色の髪を乱すようにして頭を掻いた。
と――青年に気絶させられたはずの獣が目を覚まし、こちらへ向かってきた。青年はマントの下で剣を抜いて、少女をかばうようにさっと身構える。
けれども、少女はそれを手で制し、前へ歩み出た。
獣を見据えて少女が言う。
「晩ごはんになりたくなかったら立ち去りなさい」
途端、少女が手にした紙のようなもの――紹介状とは違った――が一気に発火した。獣はその燃え上がる炎に怖気づいたのか、きびすを返して藪の奥へと逃げ去った。
「魔術、か?」
青年がぽつりと呟く声に、少女はひらりと手を開いて見せた。すると、煙が昇り、やがてすぐに消えた。手のひらには灰さえも残っていなかった。
「ま、似たようなもんです」
何てことはないように少女はあっさりと言ってのけた。面倒なので説明は省きますが、と付け加えて。
彼は、しばしの間、黙り込んでから――半眼で口を開いた。
「そういうことができるなら最初からやれ。最初から」
少女は――その発言を予想していたのか、笑みを深めた。これまたどうということもないように、けろりと言ってのける。
「やですよ。そんな面倒な。だいたい、か弱き乙女に何てこと言うんです」
「誰がだ誰が」
油断していたとはいえ、自分を昏倒させた張本人である。なので、彼は非難の声を投げてみた。
「まあ、いいじゃないですか。結果オーライです」
さほど気にしていない様子で、少女がにっこり笑う。
そのあまりにも能天気な笑みに、何だかこれ以上突っ込みを入れるのもばかばかしくなる。剣をようやく収めて、やっぱり彼は嘆息した。
気がつくと陽はもうほとんど沈みかかり、金色の雲がたなびいていた。空はまだ薄青いが、じきに暗くなるだろう。
「サティ・レインフォルムです」
ふいに邪気のない圧倒的な笑顔で言われ、彼はまばたきする。けれども、理解するのにそう時間はかからなかった。
サティ・レインフォルム――それが、少女の名前だろう。
その間も少女――サティはじっと青年のいらえを待っている。双色の瞳には何かを期待するような、そんな光が宿っている。気づいた彼は、やれやれと大きく肩をすくめてから告げた。
「レオン・カーディナライトだ」