14話 まほうのじゅもん(前)




 目の前で起こった出来事に思考は停止したが、疑問の声は案外するりと口をついて出た。
「……大丈夫なのか、あれ?」
 今しがたベッドに倒れこんだサティをちらりと見やる。
「のーぷろぶれむ。問題なし。眠ってるだけだよ」
 彼――ジークは真面目にうなずき返す。
 と――
 急に何か思いついたのか、ぱちくりと大きなまばたきをした。そしてそのまま頭を掻く。
「やだなー。いくら俺でも――」
「……は?」
「――巻き上げられたジェムを恨んで、あいつを永遠の眠りにつかせるなんてまねはしないって。第一、法律で禁止されてるじゃん」
「……じゃんって」
 禁止も何もそれは立派な犯罪である。
 レオンが頬をひきつらせるのとは対照的に、ジークは気楽に微笑んだ。
「寝る子は良く治るって言うでしょ。大丈夫大丈夫」
 微妙に間違っているし、それには拡大解釈が必要だとは思ったが、とりあえずうなずいておいた。
「さて、行きますか」
 彼は軽く伸びをしながら立ち上がる。
 レオンも言われるままにジークの後を追う。

 セレスト大聖堂の廊下を歩くのは今回で二回目だが、夜と昼とではまるでその印象は違った。
 廊下はよく磨かれた白い石を組み合わせて作られているようだ。
 いくつもの大きな窓から外の光がきらきらとこぼれる。
 窓の外の濃い緑。それらの葉の間から青空が顔をのぞかせる。濃い緑が石畳に影を落とす。石と古ぼけた歴史の匂い、騒がしいざわめき。
「こっち」
 そう彼は告げ、目の前の大きな広間へと足を踏み入れて行った。
「さあ入りたまえ。そして驚け腰抜かせ」
 足を踏み入れたレオンは、絶句する。
 そこは、いったいどこから溢れ出てきたのだろうと思うほどの人波でごった返していたのだ。
 固まるレオンに満足したのか、ジークはにやりと口の端を上げた。
「礼拝堂だよ。アルカディア中からいろんな人が毎日礼拝やら何やらで来てる。ま、ファティマ一の観光スポットなわけで」
 開いた口が塞がらず、呆然と立ち尽くすことしかできない。
「ちょーっと我慢してくれよ。ここを通るとショートカットできるんだ」
 ごった返しの人込みの中を、ジークがひょうひょうと歩いて行く。まるでそこが自分の家の庭であるかのように。
 外出用のおしゃれをして着飾った人々が落ち着きなくざわめいている。眺めるだけで目が痛くなりそうなほど、カラフルな服を着た御婦人方の間を縫うように歩きながら、レオンはジークを追いかける。
 と。
 一瞬、目だけでなく鼻までおかしくなったのではないかと違和感を覚えた。
 いや、マダムたちがそれぞれ違った匂いを放っているのだ。
 一つ一つならばまだましであろう香水。しかし、どんなものにも限度というものがある。ごちゃ混ぜにすると、それはほとんど異臭でしかない。
(歩く凶器だ……)
 きつすぎる芳香に、レオンは眉を思い切りひそめた。
 彼はこんな強烈な匂いの中、いたって平然としているジークに心から感心した。
 が、それもほんの数秒のことだった。
(――慣れっていうのもけっこう考え物だよな……)
 なるべく鼻で息をしないよう決意した。少しでも気を紛らすために周囲へと視線をめぐらす。
 吹き抜ける天井に何本もの白いアーチを形作る柱。
 正面の奥に祭壇のある空間。そこには大きな蒼い十字架が掲げられ、後ろのステンドグラスからこぼれる光を静かに浴びている。
 薔薇色や琥珀色、空色などの色とりどりのガラスに精緻な透かし彫りが施され、そこから降りる光が不思議にも美しい。
 ジークはすいすいと人垣を縫うように歩き、滑るように奥へ進んで行く。
 レオンはあちこちで礼拝に訪れていた人達とぶつかりそうになり、そのたびに慌てて謝るはめになった。何度もそれが続くとさすがにげんなりしてきたが、それでもジークの後を追わなくてはならない。
 本日だけで恐らく何十回にも及ぶだろう嘆息を、彼はもう一度大きく漏らした。

 一足先に人垣を抜け、渡り廊下の壁に寄りかかっていたジークがこちらに軽く手を上げた。
「や。お疲れさん」
 レオンも彼の隣に立つ。そのまま人ごみでもみくちゃにされた髪や服を整える。
 ジークはというと、涼しい顔をして人ごみに目を向けていた。
 つられたようにレオンも視線を投げる。
 白い壁にぐるりと囲まれたその空間に、大人も子どもも、男も女もざわめいている。
 ひっきりなしに人々の笑い声や囁き合う声が、耳の右から左へと通っていく。
「この先がメール専用執務室――」
 彼はあごで奥の大きな扉を示す。
「――なんだけど、あいにく何かの取り込み中らしい。ここで待機してろとのお達し。呼んでおいてそりゃないよな?」
「はあ……」
「ああ、それそれ」
 ジークが、まるで子供を諭すかのようなため息をついた。
「中途半端な敬語は使わんでよし。年もせいぜい数ヶ月の差だろ? ……まあ、半分かったるいのも本音なんだけど」
 周りでやけに丁寧語が蔓延してるからさ、と彼は苦く笑った。

 さまざまな色の肌、髪、瞳の人間が礼拝堂でひしめき合う。
 まるで闇を集めて固めたかのような漆黒の髪の持ち主やクリームソーダそっくりのグラーデーションの髪の主がいるかと思えば、獣のような耳の者もいる。他にも羽のような耳、三ツ目、一本角……と、特徴だけ拾うとしても、全てを数え終える頃には日が暮れてしまうであろうほど、たくさんの人間が、その空間にはいた。
「……面白い?」
「あ、ああ。でも」
「うん?」
「むしろ珍しい、かな。うちの村じゃ、こんなにたくさんの人もだけど、いっぺんに違う種族の人なんてまず見ないし。有翼人だとかハーフだとか狼人だとか、生まれて初めて見たよ。……世界ってのはつくづく広いんだな」
 しみじみとレオンが感想を漏らす。
 すると、ジークはどこか眩しそうに目を細めた。

「あいつさ、君のこと無条件に信頼してると思うよ」

「……?」
 唐突な言葉にレオンは片眉を上げる。
「今はそんなでもないけど、やっぱり昔はファティマ(ここ)もハーフには住みづらい所だったしね。……好意的ではない人間もそれだけ多かったと思う」
 ジークはどこか痛いような微笑を浮かべると、こちらに背を向けた。

「好きになるよ」

 ざわめきの中、その言葉は不思議にもはっきりと聞こえた。
 ジークは振り返らない。
 風に吹かれて、その黒髪が細く揺れる。
「それが精いっぱいの自分を護るための呪文だったんだ。知らない人間にそんなこと言われたら気味悪いだろ。まして向こうは好意を持ってないわけならなおさらだ。悪魔だ何だとか言っている相手に言われたら、なあ?」
 そしてジーク・ハルド・アートルムは、彼にとってちょっと昔でちょっと忘れがたく、目の前の青年に何故かどうしても伝えたくなったという話を始めたのだった。