19話 それは祈りにも似て




 窓の外を見やる。いつもの、大聖堂の庭の風景だ。濃い緑が中庭の石畳に影を落とし、礼拝や観光で訪れた人々で賑わっている。いつもの光景だ。とても穏やかな。
 カーテンを閉める。しゃっ、という音が妙に響くような気がした。それほどこの部屋は静まり返っていた。
「風邪をひくよ」
 横たわる娘に声をかけるが、返事はない。
 代わりに、ゆっくりとした寝息が聞こえてくる。
 完全に熟睡してしまっている。おそらくビアンカかそれ以外の者が気を遣って魔術で眠らせたのだろう。
 方法はどうあれ、今だけは眠らせてやりたかった。
 何も考えなくてもいいように。夢を見ることがないように。――囚われることがないように。
 シーツをかけてやる。
 ゆっくりと、亜麻色の髪を撫でた。自分のそれと同じ色だ。――もっとも、自分のものはだいぶ輝きを失ってはいるが。何度も、何度もそれを撫でる。
 ひどく、滑稽だと思わないか――と彼は云った。
 相手は黙したまま立っている。無言の彼に向かって、言葉を連ねた。
「娘一人さえ救えない、この私が――誰かを救う仕事をしているだなんて」
「……今日はやけに饒舌だな、ウェントゥス。酔っているのか?」
 返ってきたのは、重く低い声。わずかに驚きが混じっていたそれに、ウェントゥスは苦笑した。
「まさか、こんな時間にアルコールを摂取しやしないよ。下弦の月を過ぎたばかりだからだよ」
 ――下弦の月。あの日もそうだった。
 視線を、落とす。床には自分の影が映っていた。一ヶ月ぶりに見たその形に、彼は薄く嗤う。
「そうだね、罪悪に酔っているのかもしれない」
 痛みを感じていたいだけかもしれない、とも彼は胸中で付け加えた。
「親と呼べるものをおれは捨ててしまったからその問いには答えられない。でも――」
 相手は一度言葉を切った。
 壁に寄りかかり、腕を組んだ彼の姿は岩のように雄雄しかった。だが、まっすぐと向けられる琥珀色の瞳はひどく穏やかだ。
「親ならば誰もが願うことだ、と。メールは言っていた」



 レヴェランド・メールの声が、空気を震わせた。沈んでもなお、澄んだ響きを持つ声音。
「――ウェントゥスは、サティの魔力を魔術で封じようとしたの。翼を切り離すのが禁忌ならば、そうするのが一番効果的な方法だから」
「でも、有翼人に関することは隠蔽されていたはずだって――」
 レオンの疑問符にメールはやや苦笑いを浮かべた。
「そう、ね。でも、ウェントゥス自身は王都生まれで王立魔術学院卒、奥さんは有翼人。どこかで翼の秘密を知ったとしても不思議ではなかったのよ」
 彼女は、ふう――と吐息する。
「上手く行くはずだった。……理論上は」
 銀色の睫毛が目の縁に影を落としていた。
「だけど、封印の術式が終わろうとした瞬間――別の魔術が発動した」
「え――」
 その言葉の響きに、レオンは僅かに身体を強張らせた。けれど決して相手から視線を外せなかった。ただまっすぐに、その紫色の双眸を見つめる。ただ、レヴェランド・メールの言葉を待った。
「さっきも言ったけど、有翼人の秘術は完璧だった。普段、私たちの前から翼を見えなくするだけでなく、万一翼に危害を加える者がいたら発動する術までも染み込ませていたんだから」
 安定した音の波が空気中を振動して耳に届く。
「ウェントゥスは、そのとき翼の拒絶を受けたの。本来ならば完全に身体を失っても不思議ではなかった」
 レヴェランド・メールは静かに続ける。
「けどね、彼は命拾いをした。皮肉にも、一つだけ犯していたミスのおかげでね」
 メールは少しだけ暗い眼をした。しかし、それは単に窓の外で流れた雲が太陽を隠したせいだからかもしれなかった。
 彼女はそう間を持たせずに続けた。
「――あれはね、決行すべき日を間違えていたの」
「決行すべき、日?」
「大掛かりな魔術を発動させるには、満月、もしくは新月の夜が最も適しているの。マナが濃いだけでなく、比較的安定しているから」
 そして彼女は再びよどみなく語り始める。
「でも、あれはよりにもよって下弦の月の晩に決行したのよ。その晩はね、場のマナが一番薄いの。要するに、適していないのよ。一番マナのバランスが取れている期間ではあるけれども。アルトゥスで発動させるならば、なおのこと満月か新月の晩でなければならなかった」
「……?」
「あー……ごめん。面倒だったからさっき説明を省いたんだ」
 すまなそうにジークが呟いた。
 レオンは体の向きを変えてそちらを見やる。
聖都ファティマ(ここ)とアルトゥス、王都エセルがマナの交差するパワースポットだって知っているよね?」
 レオンは黙って首を上下に動かした。
 こちらの肯定を確認すると、彼も満足そうにうなずいた。

「でも、実は、厳密にはその性質は異なる」

 そこで一呼吸置いて、彼は説明を再開した。
「王都はマナが交差し、留まる場所。つまり、住民は常に濃いマナにさらされている。常にマナが留まるということは、魔術の暴発事故が起こりやすいということだ。でも、満月や新月を待つだけでなく、天気の心配までしなくてすむから、大掛かりな魔術の研究をするにはもってこいの場所でもある。反対に、アルトゥスの森はマナが交差はするけれど、互いに打ち消し合う場所なんだ」
「魔術を発動させにくいってことか……?」
 片眉を上げて問えば、やんわりと返される。
「いや、一応できることはできる。けど、相乗する分が少ないから、術によっては極端に効果が薄れてしまう」

「そう。だから、仮に決行したのが満月の夜のエセルだったならば、この世界に彼が残るのは難しかったでしょうね」

 よく通る、落ち着いた声だった。
 レオンは、無言でレヴェランド・メールに向き直る。
「発動したのは呪いの一種。今は失われた魔術の一つ。でも、彼ら有翼人も命を取るまではしなかった――自分たちに決して危害を加えない存在にさえすれば良かったみたい。相似するものにしてしまえば、危害を加えることはないだろうという算段」
「じゃあ……」
 彼女はうなずいた。
「そう。鳥と彼らの翼は似て非なるもの。近しいものにしてしまう呪いだった」
「…………」

『――今夜は下弦の月だからね』

『でも、今夜が下弦の月でよかったわ』

 呪い。
 鳥。
 黒い翼。
 ふと、彼の人のどこか寂しげな蒼い瞳が脳裏を掠めた。

 レヴェランド・メールの静かな声が耳を打つ。
「幸か不幸か、下弦の月の晩に発動した魔術は不完全なことが多いの。だから、呪いの性質も少しだけ弱かったし、こっちで和らげることができた」
「?」
「マナが最も安定している下弦の月から三日は元の姿でいられるように。鳥の姿の間でも彼の自我を保てるように。……悔しいけど、あたしとローレンツにできたのはそれだけね」
 淡々と告げるメールに、レオンは目を見開いた。
「……ええと、それだけどころじゃないん――」
「なっ! じーちゃんが!?」
 率直な感想はジークのひっくり返ったような声に遮られた。
「そうよー、ムカつくことに理論のほとんどは、ジーク・ローレンツ・アートルム先生様様が直々に、ね」
 ほとんど棒読みでメールはそう締めくくる。
 ぴたり、と口を閉じてジークは顔を思い切りしかめた。
 それから大きく嘆息し、背もたれにずるずると寄りかかる。
「……?」
 分からずにレオンは怪訝な表情を浮かべる。
 耳に入ってきたのは、苦笑めいた声。
「魔術をやらないと耳には入らないわよね?  アートルムといえば、昔から魔術師の間では有名な家系でね。ローレンツはこの子の爺さん。その爺さんだけでなく代々賢者を輩出しているのよ、アートルム家は」
 メールは愉快そうにその紫色の目を細める。
「つまり、そこの少年はそのプレッシャーに押し――」
「――レオン君、もう一杯紅茶はいかがかな? 飲むよね飲みたいよねっつーか飲めや!」
 ジークが勢いよく立ち上がった。
 強烈な笑みを顔に貼り付けてはいるが、その紺碧の瞳はほとんど死んだ魚のようだった。
 彼はこちらの返事を待たずにティーカップを奪い取ると、乱暴に紅茶を注ぐ。
 メールのどこか呆れたような声。
「……まあ、本人が一番気にしていることだからあんまり言わ――」
「ははははっ! 甘党ぞなもし」
 やはり、こちらの意見を聞くことなく大量の砂糖が紅茶へと沈められていく。
「……はあ」
 レオンはため息とも返事とも取れる声を漏らした。こっそりと心の中で十字を切りながら。

 話はそこで一度途切れた。
 ジークの寄こした、およそ紅茶とは呼べない代物をとりあえずティースプーンでぐるぐるとかき混ぜる。ざりざり、と鳴る砂糖の音にレオンは顔をしかめた。
「あ……れ?」
 疑問。
 今までの話に違和感を覚えて、レオンは頭の中で慌てて整理する。
 有翼人の魔術――翼を目で確認できなくなるものだ――には、翼に危害を及ぼすものに発動する拒否魔術も施されていた。十二年前にサティの魔力を封じようとしたウェントゥスは、その魔術を受けた。
 そこまでは良い。だが、それならば目の前にいるレヴェランド・メールはどうなのだ? 彼女はサティの魔力を封印する魔術を使っている。三日前に、だ。しかも、直接封印したのはレオンである。
 それならば――
「あのー、すいません」
 恐る恐る、声をあげる。
 訝しげにメールが視線を寄こしてきた。
 一瞬、嫌な汗が額に浮かぶ。
「三日前、サティの魔力を封印できたのはどうしてなんですか? 今までの流れから行くと、俺が呪いを受けることになるんですけど……」
 ひきつったレオンの声に、メールは明るい笑みを刷ってみせた。
「大丈夫、大丈夫。安心なさい」
 ちらり、と紅茶を口に運ぶジークを見て、
「それもアートルム大センセイの功績のおかげだから」
 付け加える。
 刹那。
 隣から紅茶が勢いよく噴射された。
 再び苦しそうに咳き込むジークの背中をレオンはとりあえず叩いてやる。
 彼女は涼しげにその様子を眺めている。――面白がっている。完全に。
「召喚術の応用よ。召喚術っていうのは、普通、自分より強いものを呼び出して使役させるものなの。だから、呼び出したものの力を制御することが必要でね、あの魔術もそのひとつ」
 よどみなく彼女は説明を続ける。
「それから、対象の魔力を吸収する魔術器具で細工した首輪や指輪なんかを精霊につけて使役したりもするのよ。 サティのつけてる大聖堂(うち)の紋章の入ったブローチもそれと同じ」
 レヴェランド・メールは声を落とす。だが、その透明な響きは損なわれることはなかった。
「何らかのショックを受けたサティの魔力が一気に流れ出て、耐えられなかったみたいね。粉々に砕けてたわ。――怒りや憎悪、恐怖などの強い感情は、魔力を増幅させるから」
 彼女の眼差しが愁いを帯びる。
「巻き込まれた人もそうだけど、一番苦しいのは魔術を暴走させた本人。自分だけでなく誰かの命をも危険にさらしてしまうのだから。たとえ命を奪わなくても、いくつもの十字架を背負って生きていかなければならない」
 淡々と掛けられた言葉の重みに、レオン目を伏せる。
「自分の子どもをそんな目に遭わせたくない――親ならば、誰もが願うことよ」
 彼女は、静かに、毅然として云った。

「だから――あたしたちにはウェントゥスを断罪することはできない」



 こぼれたのは、苦く痛い笑みだった。
 声が、沈む。
「そうかな、ベル? これ以上サティを傷つけさせたくないのは、傷つくこの子の姿を見て、自分がひどく傷つくのを恐れているからだとしても?」
 ベルはゆっくりとうなずく。
「サティを大事に思うからこそだ、とおれは思う。何とも思っていなければ、何も感じるはずがない。わざわざ傷つく理由がない」
 淡々と彼は告げる。
 だが、だからこそ重く響く言葉にウェントゥスは目を伏せる。
「ひとは、ひとを救えない。それでも、誰かに手を差し伸べてもらったりすることで救われる部分があったり、それが支えになったりすることもある。それは手を貸す側でも同じことが言える、ともメールは言っていた」
 彼は静かに続ける。
「だから、サティのためにウェントゥスがそう願うことは、サティの支えにもなると思う。願うことは、心のよりどころになる。そう願ってくれるひとがいるだけでも、サティは幸せだ」
 ウェントゥスは何もできずに、ただ黙っていた。何も言えない。何も答えられない。
 できたのは、顔を上げることだった――相手の顔が見えるように、少しだけ。
「それに、サティはウェントゥスのことを恨んでなんかいない。そうでなければ、わざわざ今回の仕事もおれに交代を頼むはずがない」
 彼の目は、変わらずにこちらをじっと見返してきていた。その眼差しはとても優しい色を宿していた。
「え――」
 ウェントゥスは言葉を失う。
「最近ウェントゥスと自分が同じ組にならないという不満をこぼしてきた。だから、交代した」
「…………まいったな。……君こそ、今日はやけに饒舌じゃないか」
「月が、痩せていくからだ」
 そっけなく返される。
 だが、彼は眩しそうに目を細めていた。心なしか、栗色の尻尾もゆらゆらと揺れているようだ。
 その様子にウェントゥスはこっそりと笑みをこぼした。

 下弦の月が痩せて、鳥の姿に戻る朝。サティはひどく悲しそうな顔をする。
 自分は、あの日の過ちに縛られている。囚われている。
 けれども、それを無理に振り解こうとは思わない。

『だって、おとうさんは――』

 あのときの自分を、誰もが咎めなかった。断罪しようとしなかった。
 それが、自分にはどうしようもなく許せなかった。
 それは、どうしようもなく――苦かった。 
 だから。これはせめてもの自分の我侭なのだ。
 あのとき、初めて自分のあやまちを思い知らされたことを、忘れてはいけない。そう思うから。
 せめて、この手を離さなければならない日が来るまでは、この痛みを感じていよう。

 ありがとう――とウェントゥスはかすれた声で呟いた。
 相手は急に耳が悪くなったのか、何も聞こえなかった振りをしてくれていた。
 それは、どうしようもなくありがたかった。