トドメは王子様
ほう――
また一つ、通行人が深いため息を落として行った。
正面に座る二人を見やり、水上敏志はうどんをすすった。鰹出汁の濃い口。黒っぽい彩りにはまだ目が慣れそうにないが、丼からくゆる湯気は鼻をやさしくくすぐる。
色素の薄い髪をきらきらと飾るのは天使の輪。窓から零れ落ちる光が、よく誂えたアクセサリーのように彼を明るく照らしている。涼し気な翡翠色の瞳に濃く深い影が落ちているのは、彼の睫毛が長いことにほかならない。
隣に座る小柄な少女もまた少年に負けず劣らず、野薔薇にでも喩えられそうなくらい可憐で繊細な顔立ちをしている。こちらも色素が薄く、よくできた人形めいた顔をしている。けれども、くるくると素直に変わる表情は見る者を和ませるし、小動物めいたそれはどこか危なっかしくて庇護欲を掻き立てるものがある。
果てしなく絵になる二人である。無理もない。昼時のピークを終えたとはいえ、まだ賑やかな食堂である。二人並ぶと食堂の作画が華やかで優雅で何やらロココでロイヤルな作画に変わると言っていたのは我らが隊長生駒達人だったか。また一人、また一人、と通路を通る隊員が二人を視界に捉えては、深く吐息している。最早ため息製造機である。生駒ならばこの食堂の通路を「今日から『ため息街道』て呼ばん?」とか言い出しそうだ。
ただし、会話内容を完全にセルフでミュートする必要がある。そう。果てしなく凄まじくとてつもなく絵にだけはなる二人なので。
「そういうわけで、昔からアトラス一択だと相場が決まっているのさ」
「……そうかな?」
きょとん、と少女が首を傾げた。
「決まっているとも」
少年は静かに、けれど、深々と頷いた。さらり。額に掛かっていた彼の細い髪が揺れ、世界に光を散らした。また通行人のため息が聞こえた。
「これは自然の摂理と言っても過言ではない」
「いやいや過言でしょう……」
少女が大きく頭を振った。その所作に従い、結われた髪がやわらかに揺れ肩から滑り落ちる。
少年は翡翠の瞳を瞬いた。
「おや、サーヤ。君にしては珍しく食い下がる」
彼が片眉を上げたのはほんの刹那。ゆっくりと骨ばった指先を組み、少年はよくできた彫刻よろしく黄金比で構成された美しく整った頤をその上に載せた。形の良い唇は機嫌よく上向きに弧を描く。そして、澄みきったテノールでこう囁いた。
聴こうか、君のプレゼンを――
端麗で白皙な王子様めいた少年――その名も王子一彰と言うのだが――のとびきりの笑顔を直視しても、三橋紗耶は特にどうということもなく、顔を赤らめることも微笑み返すこともなく、人差し指をゆっくりと立てた。待ってましたとばかりに。
「やっぱりサタンでしょうサタンオオカブト! ヘブライ語の『敵対者または悪魔』に由来するサタンを冠せられたその名にふさわしい溢れ出す威厳! ネプチューンオオカブトにも似ているけれど、上翅背面を彩る鈍い光沢! その鈍い輝きに艶がないとか、物足りないとか言いたくなるかもだけど、待っていただきたい。そう、よく見てしかと刮目して! 煌めきがほどよく抑えられてこそ、冥界を統べる王者であることを小さく巨大な全身でもって表しているのがお分かりいただけるはず! あっくんも『決定版! ムシキングオージャー大全集』136ページの中央右下写真と袋とじポスター見たらきっと頷きたくなるよ。ううん、その偉大さにひれ伏したくなるかも。やはりサタン。サタンしか勝たん、と」
「へえ……ここでヘラクレスを安易にチョイスしなかった君の審美眼は本物だな。驚嘆にも称賛にも値するよ」
「お褒めに預かり光栄に至れり。あっくんのアトラスも筆舌に尽くしがたい良さだったよ」
ふふふ、えへへと微笑み合う二人はどこまでも絵に、そう、絵にはなるのだ。
ボーダーでも美しいと評判の二人は、至高にして究極、最高に格好いいカブトムシ選手権(当然二人とも採取も飼育もしていない)を開催しているのであった。
二人に憧憬の眼差しを送っていた斜向かいのテーブルの中学生C級隊員などは、先ほどから時を刻むのを完全に放棄したようだ。葬式参列者じみた沈痛な面持ちをしている。テレビショッピングさながら情熱大陸もびっくりの早口カブトムシマシンガンプレゼンラリーを唐突に始めた麗しい二人に凍りついたのだろう。無理もない。分かる。分かるぞ。とてつもなく。やっぱ音声ミュート必須よな。
「あらら。水上くん、元気です? 11分前からずっとチベットスナギツネみたいな顔してる……」
「おや、みずかみんぐ。手が止まっているじゃないか。食欲がないのかい?」
正面に座る二人は代わる代わるひらひらと水上敏志に手を振ってくる。水上は答えず、深く息を吐いた。
王子が長い人差し指で顎をさすった。
「いや、待てよ。これは生駒隊の参謀と名を馳せたみずかみんぐの高度な戦術の一つかもだ」
「というと?」
「冷やしうどんを頼むつもりが熱いうどんを注文してしまい、自然に時間を置いて冷ますことでエコロジーかつエコノミーに冷やしうどんを合理的に生み出す極めて高度な戦術」
「エコノミー、とは?」
澄みきったテノールで淀みなくいけしゃあしゃあと大法螺を披露する王子に、少女はきょとん、と首を傾げた。ぱちぱちと音が聞こえそうなまばたきを繰り返している。子犬でも家に居たらこんな感じだろうなという愛らしさである。ただし、会話さえ聞こえなければ。
王子様は美しい笑みをかんばせにゆるりと浮かべ、こちらに向けてきた。少女もまた、やけにきらきらしい瞳をこちらにまっすぐ注いでくる。なんかもうすごい格好良くて強い解説が飛び出すのをわくわく待ち構える
「……この時季の熱いうどんは五円割増ししとることを言いたいらしい。俺が損しとる」
「水上くんが損をすることでボーダーの食堂は儲かり、経済が回る……なるほど合理的かも」
へにゃり。水上の解説に少女は頬を大きく緩めた。
「ちゃうねん」
「うん?」
美しい顔立ちの二人が同じ角度、同じ速度で首を傾げた。
「合理的違うて、不可抗力で冷めたうどんはこの際置いておく」
「おや、もっと冷ましたいのかい」
「うん。伸びきってしまうのでは」
お勧めはしないよ、と二人揃ってきょとんと瞬いた。長年の幼馴染だという二人は、掛け声を出さずとも所作が揃う。
「ちゃうねん。王子も三橋ちゃんも頼むからもっとパブリックイメージを大事にしてくれ頼むから……」
水上がこめかみを押さえてぐったりと呻くように懇願したのは、自分のうどんが冷めきったからではない。通路を挟んだ隣のテーブルで昼食を囲む
「みずかみんぐ、『頼むから』が重複していたよ。国語の成績も優秀な君らしくもない」
「うんうん。でも、水上くんのそれくらいお困りでなーんか嫌だなあ嫌だなあという気持ちだけは分かる。そこはかとなく」
「……パブリックイメージ大事、了解」
何やら視界の隅で息も絶え絶えに生駒が親指を立てているのが見えた。
「パブリックイメージは大事にしろ」
「えー……」
重ねてそれだけを告げれば、まるで知らない異文化だとでも言うように王子は肩を大きくすくめた。少女もまた初めて耳にする外国語に窮したように眉を大きく下げ、ぽつりと呟いた。
「それ、根付さんにも去年言われたし泣かれた……」
「いや、あるんかい! 言われたこと!」
ガタン! 視界の端で生駒達人が大きくテーブルに突っぷすのが見えた。大きく震えている。生駒、ダウン。聞き慣れた訓練室の機械音声が耳を通った気がした。
細井真織もいつになく険しい顔つきで唇をぎゅうっと噛み締めている。しかし、しきりに震える指先で目尻に浮かんだ涙を押さえているし、ずっと小刻みに全身の揺れが続いている。こちらもベイルアウト寸前である。
「そう、あれは折しも一年前、麗らかな春の日の出来事だった――」
「うん? それ、あっくんが話すの?」
「あの哀しいエピソードの脚本には自信があるんだ。安心して僕に任せてほしい」
「はい、はい」
華麗なるウインクをきらきら飛ばしながらやけに澄んだ声音で王子が宣えば、慣れているのだろう、その幼馴染の三橋紗耶はただ軽く頷いた。特にどうということもなく。
壁にかかった時計を見やり、水上は巨大で重いため息を吐いた。隠す気など毛頭なかった。
休憩はあと二十分。今日の防衛任務はいつになく厳しいものになるだろう。隊長もオペも不意打ちによるパブリックイメージギャップの連携集中砲火を浴び、気の毒なほど笑いすぎて過呼吸になりかけているので。