徐々に奇妙な貢献
ようやく目的地が見えた。弓場隊から一番近い自販機まであと一息。少女は荒い呼吸のまま再び駆け出した。揺れては足にまとわりつく高校の制服スカートが煩わしい。生身の今、プレスティッシモのテンポで何小節も疾走し続けている心臓を兎にも角にも鎮めたかった。黒髪のそのひとの広い背中をしかと視界に捉え、叫ぶ。
「こんにちは! 弓場先輩!! 今よろしいですか!?」
「おう、三橋。どうした? そんなに息切れして」
弓場拓磨は自販機のベンチの前で姿勢正しく立っていた。眉間に影を深く刻んだそのご尊顔は今日も迫力満点である。けれども、声音には気遣いが滲み出ているし、しなやかな体躯からは心なしか後光も差している。紗耶は目を細めた。薄曇りの今日は自販機の明かりがとても眩しい。
こちらの呼吸が整うまで黙したまま待ってくれるあたり、この先輩もまた兄なるやさしき生き物だなあ、と紗耶は息切れしつつもしみじみした。
スカートの裾を整えて、子鹿よろしく震えた膝をひとまず隠す。深く息を吐いて、もう一度吸う。まっすぐと弓場を見上げ――紗耶はきっちり四十五度の角度で頭を下げた。
「弓場先輩、突然すみませんが詳しい事情は聞かずに鉄板か鉄板のようなものを大至急貸してください!」
「鉄板ン!?」
「うははは! これかあ。見えてたのは!」
弓場の正面に腰掛けていた実力派エリートを名乗る先輩が何やら突然腹を抱え、げほごほがほと激しく咳き込んだ。さらさらしていそうな色素の薄い髪も、くの字に曲がった背中もなにやら徐々に奇妙なリズムを刻み始めたようだが、それはひとまず無視する。危急存亡の秋なのだ。
復唱してくれた弓場の声音は戸惑ったように揺れていた。けれども、彼は深々と息を吐き、腕を組み直しては一旦口を閉じた。訳も聞かずにこちらの希望について考えてくれている。弓場先輩はやっぱりやさしい。
弓場は組んでいた腕を解くと、紗耶に目線を合わせて告げた。
「……悪いが鉄板も鉄板のようなものもうちにはねェよ。迅もそうだろ?」
「うん、うん! ごめんねえ、三橋ちゃん」
実力派エリートの先輩が両手を合わせた。
「支部に戻れば鉄板のようなものはなくても鉄板ならば貸せると思うんだけどさ、さすがに今は持ってないよ」
実力派エリートの先輩もすまなそうに思い切り眉を下げている。が、紗耶と視線が合うや否や、猛スピードで顔を背け、またしても体躯を前方に折り畳んでは奇妙なリズムで震え始めた。こちらのことは構わずにどうか速やかに医務室に行っていただきたい。
「……ああ、やっぱりそうですよね。突然すみませんでした。鉄板も鉄板のようなものもないだろうけれど、粘土ならたくさん持っていそうな倫ちゃんに交渉してみます」
「待て。生駒のところにならあるんじゃねえか」
「エ!?」
引きつった低音が通路に大きく木霊した。
黒髪オールバックのどこか武人めいた佇まいの先輩、生駒達人だった。
ちょうど通路の向こうからこちらの自販機コーナー目がけて歩いてきた彼は、油の切れたブリキ人形じみた速度でぎくしゃくと歩みを止めたが、弓場と迅、紗耶を真顔で三度見するなり叫んだ。
「え? え!? 何の集会? 皆して作画ちゃうやん! まさか伝説の作画事故回!?」
「生駒っち……! 待ってた。待ってたよう!」
迅は何故だか感涙を滲ませ、両手を広げて生駒をベンチに誘った。そして、またしても実力派エリートの先輩は身体をコンパクトに折り畳むと震え出した。
「作画事故にしてはヤバない? 弓場ちゃんは『マガジン』で、迅は『ジャンプ』、そっちのちっちゃくてカワイイ子は『花とゆめ』あたりやろ。作画が“
真顔でなにやら捲し立てる生駒を、迅はヘッドバンギングでもって応えた。
「生駒っち優勝!! やっぱ今日は本部に来て大正解だった……」
息も絶え絶えに叫び、迅はまたしても腹を抱えた。この先輩の奇妙な発作は徐々にどころかどんどん重くなっているようだ。どうかこちらのことは構わずに可及的速やかに医務室に向かっていただきたい。そろそろ弓場先輩がそう声を掛けてくれないかな、と紗耶はこっそり願った。
未来視を持つ実力派エリート・迅悠一先輩の足元にはとても及ばないが、三橋紗耶もまたサイドエフェクトを持つしがない隊員だ。一度見たものをすぐに覚えてしまうそのサイドエフェクトには「写真記憶能力」と便宜上名付けられた。他のSE能力を持つ者同様に本部内研究室にて定期検査を受けている。
瞬時に写真として記憶できるこのSEには収容メモリに限界があるのか。記憶の保存期限はどれほどなのか。トリオン量の増減には関与しているのか云々。
定期的に身体検査を受けたり、サイドエフェクトの能力と効果、可能性を調べるテストを受け、精査されているのだ。
検査の一環として、新しく入隊した隊員たちの名簿が渡されていたこともある。けれども、三回目の検査の頃には受験対策過去問題集に代わった。
秘密を知りすぎたから自分はそろそろ組織から存在を消されるのかもしれない――
いつもの検査が過去問題集に変更となってから四回目のテスト後。自販機のまばゆい蛍光色に吸い寄せられベンチにたどり着けば、先に座っていた先輩が汁粉ドリンクを買ってくれた。実力派エリートの先輩は、お汁粉が飲める温度に冷めるまでの暇つぶしに、と、ぼんち揚の袋を紗耶にも傾け、SE検査を労ってくれた。
そろそろ記憶か存在を消されるかもしれない、と紗耶が呟くと、くつくつ喉で先輩は笑った。
「ないない。それはない。テストが変わったのは、間もなく受験戦争に身を投じる学生に余計なものばかり暗記させるのは如何なものかって怖い顔したオジサマたちが――特にフォルムが大きくて丸くて隈の濃ゆいオジサマが顔をますます怖くさせながら抗議していたからだよ」
名簿が毎回差し出されていたのは、すこしふしぎで便利な猫型ロボットアニメに登場する暗記パンの実験に電話帳が使われたのが由来でそういうものだと思っていたことを告白すると、迅はぬるく笑った。
「いやいや、隊員・職員名簿は定期更新されるとはいえ、毎月の検査に使うのはさすがに問題あるよね。それも人事課職員ではない隊員に。コンプライアンスにも触れるのに何故見直しをしないのかって鬼怒田さんと根付さんが怖い顔してたよ」
左右の人差し指を頭の上にピンと立て、角を生やした迅が青い瞳を緩やかに細めて、笑った。
「大丈夫。きみの性能の良すぎる記憶ポケットには、これからは楽しいことを詰め込められるよ。きっと、いっぱい」
「えー、どないしよ。どないしよ!」
こちらもどうしようである。
急いでいたとはいえ、以前から面倒を見てくれている弓場一人しかいないと思い込んでいたとはいえ、先輩方しかいない空間に独り飛び込んでしまった。勢いよく。失礼にもほどがある。
自販機とベンチ。つい、冬の思い出を記憶から取り出し、現実逃避をしてしまった。
今の紗耶にできるのはたった一つのことだった。仁王立ちする弓場の後ろに回り込み、相手の様子を窺う――
「えっ、アッ!? 迅! 見た!?」
「うんうん。見てたよ~」
「ちっちゃい子が弓場ちゃんの後ろにちょこまか隠れたとこ!」
「うんうん。見てた見てた。そろそろ生駒っち、おれの後ろ襟から手を離そうか。絞まる絞まる絞まる……」
こちらと同じように迅の背後を取った生駒がちらちらとはみ出しながら、こちらの様子を真顔で窺っている。
「それにしても弓場ちゃん足長ッ! 股下五キロメートルはあるやろ!? アッ、隠れたあの子がこのあと音もなく攻撃仕掛けてきたらどないしよ。やっぱ『いわおとし』で対抗が鉄板かな。でも潰れちゃいそう……」
「生駒っち、落ち着こうか。ポケモンバトルはまだ始めないで。ついでにおれの首から手を離して」
生駒は何事かを早口で捲し立てている。迅が首元を押さえながら「ぎぶぎぶ」と悲鳴を上げている。
「三橋ちゃん」
名を、呼ばれた。実力派エリートの先輩の声音は、ビブラードがかかっていた。後ろ襟を掴む生駒に揺さぶりを掛けられているので。
「前出ろ、三橋」
弓場の、低く静かな声音。ぎゅう、と引っ張っていた彼のジャケット裾から手のひらをやんわりと解かれた。
紗耶も覚悟を決めて、弓場の背後から前へと一歩足を踏み出した。
「あの、生駒先輩。初めまして。三橋紗耶と申します。このたびはご挨拶もなく突然すみません。ですが、義によって可及的速やかに鉄板か鉄板のようなものをお貸しいただけると助かります……」
きっちり四十五度でお辞儀をし、そっと生駒を見上げる。
返事はなかった。聞こえなかったかな、と紗耶はもう一度唇を開いた。
音もなく迅の背後に回り込んだ全身をガタガタし始めた。
「迅! 弓場ちゃん! ヤバない? 通報されんかな。俺はどう見ても三橋ちゃんみたいにちっちゃい子と会話したら不味い顔しとるやん? この子、俺がうっかりくしゃみしたら吹き飛んで全身バラバラになるやろ? 俺の作画的にこのあと目暮警部と小五郎のおっちゃんから事情聴かれるのが関の山やん?」
どこか武士を思わせるがっしりとした立派な体躯のひとがおろおろあわあわする様子は、なんだかコミカルである。
「おい、生駒ァ。本人眼の前にして言うことじゃねェだろ」
「未知との遭遇で緊張するのわかるけど、だいじょーぶだいじょーぶこわくないよ〜。この子、三橋紗耶ちゃん。日夜元気に射手担当してるよ〜。あといいかげんおれの襟から手を放してお願いだから」
「あ、ほんまや。迎撃システムちゃんやん! 先週だったかな、王子相手に弧月抜いて真剣勝負してたやろ。俺も見たで、二万回」
「生駒。言い方ァ」
紗耶はただ眉を下げた。人聞きの悪い言われようだが、事実なのだ。
斬った方が速いか。撃った方が速いか。次のランク戦に向け、ちょっとした実験を重ねている幼馴染みの王子一彰の手伝い要員として、紗耶も検証に付き合ったのだ。それだけの話である。
弧月での検証は元々個人の持てるリーチの差、つまりは攻撃手の身長差が顕著に出てしまい、小柄な紗耶には斬った方が速いのかは証明できなかった。相手の懐に踏み込んで斬り結びに行くよりは旋空を撃つ方が速い。けれども、間合いが大幅に伸びる旋空はその分トリオンも消費する。それならば通常弾を撃った方が速い。そんな気がした。
あの日はギャラリーにもスコーピオンを勧められたが、紗耶は頷きはせず、ただ頬を緩めておくだけに留めた。身長はただ伸び悩んでいるだけなのだ。来るべき日が来れば、弧月だってまともに抜けるし、リーチの差で刺される前に白刃一掃できる。はずだ。たぶん。
抜剣も旋空も抜群に速くて鋭い攻撃手の先輩に覚えてもらっていたのは、なんだか面映ゆい。
「三橋ちゃん、こっちは生駒達人さん。きみにこれから鉄板のようなものを貸してくれる生駒っち。生駒っちでもイコさんでも好きに呼ぶといい」
「よろしく」
「よろしくお願いします」
深々と頭を下げると、生駒は目を見開いた。
「え、身長差すご! つむじちっちゃ! 迅、俺は巨人だったかもしれん」
「……生駒ァ。言い方ァ」
謎の感激をしていた生駒は弓場の重低音に姿勢を正した。
「鉄板のようなものは知らんけど、鉄板ならやっぱカゲやろ。カゲに聞いた?」
「影浦くんはだめです」
紗耶はきっぱりと返す。生駒は僅かに目を見開いた。
「あー、三橋ちゃんの作画は花ゆめやもんな。カゲは明らかにマガジンだから共演NGやんな。作画の方向性違いすぎて結成後スピード解散もやむなしやろ。わかるわ〜。でも、緊張するならイコさんも一緒に行こか?」
「お、駄洒落だ」
実力派エリートな先輩からぬるい合いの手が入り、生駒の瞳がきらきら輝き始めたが、ひとまずそれらは置いておく。
「影浦くんはだめなんです」
「二回言った。二回も言いよった……」
紗耶は弓場を見習い、眉間に力を入れた。
「影浦くんはだめです。今日は六限が体育で明後日四限もまた体育。明日は朝から防衛任務なのでジャージ洗濯をお母さんに早めに依頼するには今日直帰する必要があるのです」
驚愕に瞠目した生駒が口元を押さえた。
「えっ、三橋ちゃんの制服、一高と違うよな。なんでカゲのことそこまで詳しく知ってるん? え? アッ!」
「生駒っち、真実は?」
「いつも一つ! エッ! アッ!! もしかして、二人は付き合っ……アカーン! 野暮なこと聞いたら馬に蹴られる」
見えないマイクを迅に向けられた途端、更になにやらあわあわし始めた先輩に紗耶は眉を下げる。
「……あの、盛り上がりに水を差してすみません。防衛任務交代の相談で義によって影浦くんの時間割を一回見せてもらったことがあるだけです」
紗耶がおずおずと口を挟めば、弓場が眉をぐっと下げ、紗耶に気遣うように目線を合わせた。
「おめェーも難儀な体質だよなァ、三橋。見ただけであれもこれも記憶しちまうなんて」
「でも、生駒っちのこの真面目でオモロな慌てっぷりを永遠に引き出しにしまえるのもそう悪いもんじゃないでしょ。今、これで生駒っちと縁ができたから。オモロが不足したとき、いつでも取り出せるよ」
迅悠一がそっと落とすように言った。頷いて、紗耶もへらりと頬を緩めた。
「……迅先輩も、そうですか?」
迅は何も言わず、何もかもを見透かす青い瞳をただ綻ばせた。やんわりと。ほどけるように。
「友だちは、人類で最高の尊称って言いますものね」
しみじみと呟けば、生駒も弓場も頬を緩めてくれた。
「え、え!? 唐突に眩しすぎる笑顔の花が胸にダイレクトに届いたんやけど。なんやわからんけどわかるで! 今日の俺がプリティでキュアキュアに浄化される運命ということだけは……」
きらん、と宙に星を飛ばす生駒。紗耶は星の行方に目を白黒させたが、弓場も迅も特にどうということもなく聞き流している。顎をしゃくった弓場に先を促され、紗耶も意識を集中させた。
「それに、影浦くんちの鉄板はちょっと問題が」
実家がお好み焼き屋『かげうら』の次男坊、影浦ならば確かに鉄板は豊富に家にあるはずだ。けれども、問題があった。
「なんでなん?」
非実在マイクをこちらに向けてくれた生駒に、紗耶もまっすぐ視線を返した。
「大きいので鞄には仕込めないです」
本題に近づきつつあるが、指定された時刻まであと僅かだ。ちらちらと腕時計に目線をやる紗耶を見かね、弓場が声をあげた。
「生駒、後輩が困ってんだ。鉄板のようなものか鉄板があるならさっさと貸してやれ」
「え? え? ええけど、え? 仕込むって何? お好み焼き? 最近のJKは鉄板を鞄に持ち歩くのがトレンドなん? どゆこと?」
頭にハテナマークを大量に浮かべつつも「とりあえず行こか」と生駒が踵を返した。作戦室まで案内してくれるらしい。
眉を下げたままの紗耶を気遣い、生駒隊作戦室まで弓場も迅も同行してくれた。
「なあなあ。作画『花とゆめ』なのに鉄板を仕込むって何やろ? もしかして花ゆめじゃなくて、『LaLa』でお好み焼き漫画流行っとる? マリオちゃんに貸してもらお」
「うんうん。生駒っちは期待を裏切らない底抜けに良い先輩だねえ」
先を行く先輩二人の背中がなにやらせわしなく(主に生駒が)動き、テンポの良い会話を交わしている。そっと覗き込めば、迅の青い瞳は上機嫌の猫のようにきらきら輝いていた。
「三橋」
「はい」
「言いたくねェなら細かい事情は無理に聞く気はねェ。だが、危ないことすんじゃねェぞ。おめェの兄貴と王子、それからダチを心配させんなよ」
言い方はぶっきらぼうだが、弓場の声はずっとやさしい。弓場自身も紗耶のことを心から案じてくれている。それが嬉しくて、照れくさくて。紗耶は頬も眉もへにゃりと緩め、頷いた。
結論から言う。
生駒が快く貸してくれた鉄板ではないけれど鉄板のようなもの――たこ焼き器――は大いに役に立った。
指定されたボーダー本部裏庭。果たし合い状に記された指定時刻に遅れぬよう、鞄にたこ焼き器を仕込み、紗耶はそれを頭に掲げながら全速力で滑り込んだ。果たし合い――いや、果たして、その呼び出しはあっけなく終わった。
つまり、想いを告白された瞬間、秒速で振られた。「ごめんなさい。イメージと違ったので」と。
そして今、三橋紗耶は頭を抱え、生駒隊作戦室の机の下で猛烈に震えている。
「三橋ちゃん、出ておいで~。オカン、今日のたこ焼きは張り切って腕によりをかけたで」
「三橋先輩、ほーら、こわくないこわくない」
ほこほこ湯気の揺らめくたこ焼きを皿に盛り付けた生駒達人と、猫じゃらしを振る隠岐孝二。生駒隊作戦室で突如開催されたたこ焼きパーティー。おいでおいでと紗耶は手招きされている。
解せない気持ちを抱え、たこ焼き器が役に立ったことを早速お礼も兼ねてその足で生駒隊作戦室に礼を伝えに行った。そして、お兄さん三人に部屋へ引きずり込まれた。それが、この事件のあらましだった。
そこにいたのは、顔を険悪メーターの針が振り切れたアウトレイジにしかめた弓場拓磨。威厳のある表情をしようとして失敗した口元が緩みまくっている迅悠一。それから――
「待ってたで三橋ちゃん。お腹空いたやろ? おにーさんらと一緒にたこ焼き食べよ。な?」
真顔だがやさしく迎えてくれるエプロン姿の生駒達人だった。
テキパキとたこ焼きの材料を準備する生駒に萎縮する紗耶を、ちょいちょいと迅が手招きした。弓場の向かい側に紗耶を座らせ、彼女の隣に腰掛けた迅がへらりと笑う。じゃあ全部吐いちゃおうか、と。
「……黙秘権は」
上目遣いで問えば、迅はにっこり笑った。
「ないよ。おれにはおおよそ見えたけど、現実はもっとオモロなことになったんでしょ。鉄板はないけれど鉄板のようなものを三橋ちゃんが借りるのに貢献したお兄様達に洗いざらい話してパーッと気分転換しよう。心配させた弓場お兄様には特に全部話して、ね?」
「…………」
何も尋ねてこないがまっすぐと紗耶を見つめる弓場の目線で心が痛い。眼鏡のレンズ一枚に隔てられても眼光はなお鋭い。紗耶の心のシールドは割れそうだ。
「うううう……」
頭を抱え、紗耶はのろのろと唇を開いた。
研究室でテストを終えた帰りのことだった。
「あの、三橋先輩!」
「はい?」
「これを!」
差し出されたのは、真っ白くて四角い封筒だった。
折り目一つない清冽な白。当然紗耶が落としたわけではない。が。そこに書かれていたのは――
三橋紗耶さまへ
紗耶のフルネームが書かれていた。やや角ばった右肩上がりの文字。けれども、とめ、はね、はらいはとても丁寧に運ばれている。まごうことなく己の名前である。記憶にない筆跡だが。
紗耶は首を傾げたまま、相手の顔に視線を戻す。C級隊員の少年だ。
面識はない(が、名も顔も名簿を見たので知ってはいる)少年が、顔を朱く染めていた。詰め襟学ランは三門第一の制服である。
呼吸を止めて一秒。彼が真剣な顔をしたから――紗耶もまたいつになく眉間にきりりと力を入れ直し、少年を見つめ返した。
「読んでください!」
少年はそれだけを告げ、受け取ってと言わんばかりに紗耶の両手に封筒を握らせた。
そして。
「待ってます!」
「え」
「失礼します!」
「え? あの! 待っ」
ため息の花だけ束ねたブーケならぬ謎の白い封筒を残し、すれちがいやまわり道を一切合切せず少年は去って行った。風と共に。
「名簿上は知ってるっておめェ……事実とはいえ言い方があんだろ。言い方がよォ」
「うううう……」
「三橋ちゃんは見て記憶するサイドエフェクトに頼りすぎる癖があるから、耳で聞く話はたいてい聞き流しちゃうもんね。手紙で待ち合わせ場所を指定するあたり、少年の本気度を感じるナ~」
返す言葉もなく、両手で顔を覆う。
常と変わって紗耶の正面に座った弓場の声音は心底呆れ果てている。腹を抱えた実力派エリートの先輩が、バックダンサーよろしく紗耶の隣でカタカタカタカタ視界の端で小刻みに揺れている。
ひとしきり笑い転げた迅が、節くれ立った指で目尻に浮いた涙を拭った。
「それで、たこ焼き器はどう使ったの?」
「……黙秘権を行使します」
紗耶は天井に目線をやり、追及から逃れた。
言えない。言えるわけがない。言えるはずがないのだ。
果たし合いだと勘違いし、鉄板がないので鉄板のようなものたこ焼き器を鞄に仕込んで待ち合わせ場所に現着したなどと。『マガジン』の不良漫画がクラスの友だちとの間で大流行し、てっきりそういう呼び出しかとナチュラルに思うレベルになるほど夢中になって読んでいるなどとは。言えるはずがないのだ。決して。断じて。
「おれのサイドエフェクトで見たこと話してもいいけど、齟齬があるからオモロは再現できないかなあ。やっぱりご本人の語りがイチバンだよ」
ね、と笑顔を向ける実力派エリートの先輩は、やっぱりひとがわるい。いじわるだ。
紗耶が両耳を塞ごうとすれば、作戦室の扉が開き、なにやら低くてやわらかい声が部屋いっぱいに響いた。
「なあなあ、マリオ知っとる?」
「知らん知らん」
「え、ほんまに。知らんの?」
「知ってるかも知らん。あんた、こういう場合、知らんって言わんと話す気ないやん」
人好きのする柔和な笑みを浮かべた隠岐孝二と呆れたように眉を下げたオペレーターの細井真織だ。サンバイザーを直しながら隠岐はますます笑みを深め、告げた。
「さっき合同狙撃手の予定表確認しに行ったら噂になっとったんやけど。憧れの先輩をついに呼び出して告白しに行ったら、なんや知らんけど先輩が鉄板や鉄板のようなものの代わりにたこ焼き器を鞄に仕込んで現着したらしいで」
三橋、左耳破壊。聞き慣れた機械音が響いた。紗耶の脳内いっぱいに。
さすが生駒隊が誇るスナイパー隠岐孝二、さす隠岐。精密射撃にもほどがある。
「なんやそれ。告白劇が果たし合いに変わってるやん。治安の悪い不良漫画やあるまいし」
細井の怪訝そうな声。三橋、良心大破。被害甚大。
「…………」
三橋紗耶はよろよろと机の下に潜り込む。
「うははは!」
たまらずに迅の笑い声が木霊した。椅子と机がガタガタ音を立て、揺れ始めた。実力派エリートの長い足は激しく震えている。大爆笑である。
「ほら、わけも事情も洗いざらいお兄さんたちに話さないから~。可哀想に。少年のちょっとセツナイ初恋話が狙撃手界隈でオモロな噂になっちゃってるじゃん」
紗耶は机の下で膝を抱え、唇を固く結んだ。暗躍が趣味だと公言して憚らない先輩には言われたくない。
「三橋」
弓場のよく通る重低音。それは紗耶の耳と、胸と、粉々になりかけた良心を鋭く刺した。
「おめェ、たこ焼き食ったらさっきの後輩のとこまで行って、脅かしたことをきちんと詫びてこい」
「…………」
「返事ィ!」
低く重く、びりびりと鼓膜にも心臓にも鋭く刺さる弓場の声。
意識無意識すべてを総動員して紗耶はただただ返した。いつになく冷や汗をだらだらと流しながら。
「三橋、了解……」
「え? 三橋先輩? そんなとこで何してはるんです?」
「あらら、ほんまや。何か詫びに行かはるんですか。うん? もしかして、現着した先輩って……」
猫のように透明な目をまあるくさせた細井。春風を思い起こすぬるい笑みをやんわり浮かべた隠岐。二人は一瞬だけ顔を見合わせると、縮こまる紗耶を気の毒そうに見つめてきた。痛い。二人分の気遣いがとてつもなく痛い。粉々になった良心がさらさらと風に飛ばされていく。
膝に顔を埋めて、紗耶はその場でますます身を縮めることしかできない。
「皆~、たこ焼きできたで~! ほらほら、いただきます前に、手ェ洗ってきて」
迅悠一の爆笑し続ける声と、生駒達人の声。そのセッションはやけに明るく朗らかに作戦室内で揺れては弾けた。
あとがき
イコさんは、「自分の作画はコナン君の青山先生(サンデー)だったらええなあ」とぼんやり考えています。