アルビレオの領分

こうほうもおしごと?

 ボーダー本部メディア対策室。自分のような一般隊員がこの部屋に入る機会はめったにない。緊張で冷たくなった指をさすり、少女は頭を下げた。
三橋紗耶です。失礼します」
「ああ、よく来てくれたね」
 今日最後の太陽の光が、こちらを見つめるそのひとの額や頬、髪を淡く照らしている。ブラインドを上げきった窓の向こうは、蜂蜜色と橙色、紫紺色がまもなく混ざり合いそうだ。
 根付栄蔵メディア対策室長はゆっくりとチェアに背を預け直し、紗耶を迎えた。
 手前の来客用ソファに腰掛けていた長身の男が、視線を引き締め、告げた。
「今日俺たち兄妹が呼ばれたのは他でもない――例の件ですね」
「…………」
 沈黙が、世界を支配した。

「あれ⁉ 根付さん⁉」
「…………」
「おかしいな。聞こえなかったかな。もう一回言うのでよく聞いてくださいよ。あわよくば何か感想くださいね。できればそれっぽい台詞でお願いします!」
 瞳に熱いものを滾らせて早口で捲し立ててくる、口を開かなければやたらと顔の良い男こと三橋柊介――紗耶の歳の離れた兄――である。
「お兄ちゃんやめよう……。根付さんが見たことない顔で困っていらっしゃるよ?」
 なんとなく気まずい思いを抱きながら、紗耶は口を開いた。
「何故⁉」
 身構えて、兄が聞き返してくる。
 呼ばれた側の人間がそういう台詞を言ってくるシーンを見て疲れたからだと紗耶は推察したが、指摘するのもなんだか億劫なので根付栄蔵メディア対策室長の復活を心から待つことにした。紗耶もまた今日の数学と古典小テストで疲れているのだ。
 衝撃を受けたように兄が色素の薄い瞳を大きく見開いた。
 ふらり、と今世紀最大の美しい角度でよろめいている兄は無視し、紗耶は根付に目線を送った。根付は顔の前で手を組んだまま動かない。三度まばたきを繰り返し、彼女は首を捻った。ブラインドも上げられたままだし、ここはメディア対策室だ。
 紗耶は黙したまま兄の横に立った。端末に指を伸ばし、人差し指を上にスライドした。そのまま端末内の小窓を上に、画面外へとスワイプさせる。
 途端、ブラインドも夕焼けに染まる窓も一気に消えた。
「あなや」
 果てしなく間の抜けた悲鳴が室内に響いた。
 紗耶の記憶通りである。昨年の広報任務時にもこの部屋に来たことはあるのだ。室長デスク真後ろにブラインドもなければ、窓そのものが根付のデスク付近には存在しなかった。
「お兄ちゃん」
「ブラインドが下ろされた薄暗い会議室。そこで待ち構えるボス。会議室で何も事件が起こらないはずもなく――起こらないのは寂しいから組織っぽい雰囲気を演出してみたという寸法だ。あれ? おーい。あだな、聞こえてる? 根付さんはさっきからずっとこうだし、せめてあだなはお兄ちゃんに何か言ってくれよ~」
「お兄ちゃん……」
 演出も何もブラインドは思いっきり上げられていたし、なにやら美しい夕焼け空に染まる窓まで登場していたのだが。設定がテキトーすぎる。
 授業終了後に本部に到着する紗耶を待つまでに暇を持て余したエンジニアの兄が用意したお遊びだった。時間前行動には根付からもお褒めの言葉を賜ったことのある兄であるが、時間前行動を理由に早くから押しかけ、小粋なトーク(本人談)を根付栄蔵メディア対策室長相手にずっと披露していたのだろう。根付の顔がいつも以上にげっそりしていらっしゃる。指摘するのも以下略なので紗耶はひたすら根付をまっすぐと見つめ、発言を待った。
 こめかみを丹念に揉みほぐした根付栄蔵は、長々と息を吐き、ようやく口を開いてくれた。
三橋くん二人を呼んだのは他でもないといえば他でもないのだが、どうしよう。やはりやめようかな……」
 いつになく及び腰になっていらっしゃる。小粋なトーク(本人談)をし続けた兄の罪は大きい。
「じゃあ、帰ります」
 ちゃ、と右手を挙げ、兄が颯爽と立ち上がった。
「待ちなさい! 今のは気になってちゃんと聞き直す所だろう?」
「ちゃんと聞きましたよ? ちゃんと聞き終わったから流しました」
 唇を噛むような表情で言ってくる室長に、きらきらしい笑みを返す兄。紗耶は目をぱちくりさせた。なんだか仲良しである。春先のちょっとした事件で兄と自分は海よりも深く反省し、根付栄蔵メディア対策室長の疲労ポイントを溜めないよう、彼には極力近寄らない話しかけない万一遭遇したら三秒で解散する三原則を誓っていたのだが。
「……三橋紗耶くん。座りたまえ」
「はい」
 兄の正面の椅子を示されたので、粛々と移動して座る。

「きみの所属部隊が解散してからどれくらい経ったかね?」

 根付が声を努めてやわらかく出しているのは、一昨日、紗耶が鬼怒田開発室長に汁粉ドリンクを買ってもらっている場面にひょんなことから出くわしたからだろう。ひょんなことから、というのはきっとあの瞬間に使うべき言葉なのだろうと紗耶はしみじみ思う。二人の大人に挟まれて飲んだ汁粉ドリンクはとても温かくて甘かった。

「四十日です」
 春に解散が決まってから六ヶ月と四十日。解散してから四十日目。女の子は記念日が好きな生き物らしいが、寂しさばかりが募るので、少なくとも紗耶は全然好きにはなれそうにない。
 戦闘員として組織に一人だけ残ることになったチーム最年少隊員の紗耶が心配だったらしい。部隊の先輩方は自分たちの新天地に向けた準備で忙しいだろうに、それを少しも見せずに何かと心を砕いてくれた。新しいチームを立ち上げるならば同じポジションの後輩を紹介するとも、入りたいチームがあるのならば交渉のテーブルに加勢するとも言ってくれた。
 けれども、紗耶はどちらも選択しなかった。選ぶことができなかったのだ。チームを解散した喪失感はあまりにも大きく、気持ちの処理が追いついていないのだ。胸のあたりにすうすうと穴が空いた心地のまま、眠っては起き、起きては学校と防衛任務に行き、帰っては眠っていた。

 三橋紗耶がボーダーに入隊したのは、トリオン兵に追いかけられ、疲弊しきったところに手を差し伸べられたのがきっかけだ。
 あの日――三門市の空に大きな門が開き、街が壊され、日常を脅かされた日。あの日を境に界境防衛機関が街を守り、市民の安全を防衛する任を担ってくれている。
 学校の登下校中、少女は偶然にもトリオン兵に出くわした。偶然に何度も。何度も偶然にも。そのたびに近くのシェルターに逃げ込んだり、防衛に駆けつけたボーダー隊員にトリオン兵の特徴と目撃場所を図に描いて報告したりして事なきを得ていた。けれども、何度も重なる偶然に組織が違和を覚えた。少女の証言したトリオン兵の特徴、出現した場所の手描き地図、トリオン兵と共に描いた付近の建物の形と配置。それらがあまりにも正確すぎたのだ。そして、少女が遭遇したトリオン兵は、いつも捕獲用トリオン兵「バムスター」であったのだ。幸いにも少女は毎回直近のシェルターに自力でたどり着けていたため、ボーダー本部や支部に直接保護されたことは一度もなかった。
 幸運ならぬ膨大なトリオン量か何らかのサイドエフェクトを有しているのではないか――組織が少女の保護及び検査を試みた。
 突然自宅に現われた組織の大人たちに少女は戸惑ったが、一も二もなく、呼び出しに了承した。少女もまた登下校のたびにトリオン兵に遭遇し、走り回って逃げることに疲れきっていたのだ。そして、当時中学生の少女が本部まで出向くことに抵抗を示さなかったのは、少女の兄が組織本部にエンジニアとして勤め始めていたからだ。
 検査の結果、少女のトリオン量は比較的多いことが明らかになった。その場からすぐに離れたのにもかかわらず、毎回トリオン兵も付近の建物配置も構造も正確に記憶していたのは、少女のサイドエフェクトの賜物であることも判明した。トリオン兵との遭遇率が多いのも直近のシェルターに迷うことなく逃げ込めていたのも、比較的多いトリオン量の持ち主であり、意識せずにサイドエフェクトを活用していたことが裏付けられたのだ。
 少しだけ物覚えが良いこと、一目見ただけですぐに覚えられる少女の幼い時分からのこの癖は、精査の末にサイドエフェクトであると診断された。そして、そのSEには便宜上、「写真記憶能力」と名付けられたのである。
 サイドエフェクトを所持しているから高いトリオン能力を持つのか、トリオン量が多い部類だからサイドエフェクトを有しているのか。鶏が先か、卵が先か問題と同じく、それにはまだ明確な答えは出ていない。けれども、トリオン兵とのエンドレスかくれんぼに疲弊していた少女に、ボーダーは提案したのだ。組織に身を置くことで少女の安全を保証することを。その代償に少女には組織の研究と発展、街の防衛に力を貸すことに力を貸してほしいと。
 少女は差し出されたその手を取ったのだ。組織に身を置くことで、自分と家族や友人、周囲の安全、そして、危険から守る術とその方法が提供される約定を欲したのだ。ボーダーからその全てを提供してもらう代わりに自分が隊員として組織に身を置くことを心に誓ったのだ。それが三橋紗耶のボーダー入隊のあらましだ。
 目で見たものを瞬時に記憶する「写真記憶能力」は、記憶封印措置によるリスクが極めて甚大であろう――と研究者からも技術者からも懸念も指摘もされている。海馬や大脳皮質にトリオンがどのように作用しているのか、まだ明らかになっていないことが多すぎるのだ。重大な過失を犯した際に行われるという記憶封印措置。サイドエフェクトの検査をするたびに研究者にその危険性を指摘され、紗耶は震え上がった。重大な過失を犯して、ひとつの記憶コードを遮断されたことで昔天才、今ぼんやりの子が爆誕する可能性があるのだ。
 もっとも、人命よりも重い重大な機密を預かるような腕の立つA級戦闘員にレベルアップしたわけでも、優雅に華麗にエリートに暗躍するマーベラスでパーフェクトなS級隊員でもないのだが、組織での行動にはいつでも謙虚と慎重を心がけた。

「そうか……。新しいチーム所属への準備は進んでいるかね?」
「すみません。まだ何もできていません……」
 紗耶は顔を伏せた。根付のまなざしを受け止める勇気はなかった。
 組織に身を置くことを決めたからには、隊員を募集しているチームに志願をするか、紗耶が部隊を立ち上げるかの二択である。分かってはいるのだが、気持ちを切り替えることはできなかった。
「目で見て覚えたものから最適解を判断するのが苦手? 難儀なSEだねえ。じゃあ、代わりに全部撃ち落としちゃえ」と豪語してくれたオペレーター。
「うちの迎撃システムちゃんが撃ち損ねたのはこっちで叩き斬るからノープロブレムだ。安心して撃ち損ねてくれ。先輩にもポイント稼がせてくれよ」と笑ってスコーピオンで全てを斬り伏せてはハンドガンで念入りにトドメを刺した万能手。
「さよならの準備は早ければ早いほど良いけれど、まだ半年ある。泣くな泣くな」と解散後に紗耶がしょげきることを見越して半年も前からチーム解散を告知してくれていた隊長。
 安心してその広くて大きな背中を任せてくれる先輩方はもう同じチームにはいない。紗耶にはそれが寂しくてたまらないのだ。喪失感に打ちひしがれた今は新しいチームを作る勇気もなければ、どこか新しいチームに飛び込む元気も意欲も湧かなかった。

「そうか。それは重畳」

 根付はあっさりとそう宣うと、顔の前で組んでいた両手を解いて、座り直した。
三橋紗耶くん。こちらから一つ提案なのだが、新しいチームにまだ所属する気になれないのならば、受験生向け広報のモデルケースになってもらえないかね?」
 予想外の返答と聞き慣れない言葉に、紗耶は大きく首を傾げた。
「受験生のロールモデル、と言ったら良いのかな。六穎館高等学校生のきみにはその係をぜひともお願いしたい」
 まばたきを繰り返し、紗耶は根付に向かい直った。
「あの、室長、すみません。自分で言うのも何ですが、わたしはそこまで優秀な成績ではないですよ? クラスはC組所属ですし……。ロールモデルならばB組の荒船くんや神田くん、A組の蔵内くんの方が適任かと思います」
 サイドエフェクト「写真記憶能力」のおかげで暗記科目の勉強に時間はかからない。けれども、その弊害か悪癖か、紗耶は耳で聞くものはあまり得意ではない。コミュニケーション英語には毎回難儀しているのだ。天は二物を与えず。そういうことである。
「やだなあ、根付さん、回りくどいですよ。優秀すぎない一般的生徒で、隊を率いる隊長でもない『お前がちょうどよいから係よろ!』の一言で済むでしょうに」
三橋くん……」
「お兄ちゃん……」
 あっさりと身も蓋もないことを兄が言ってきた。
「あー……お兄さんの露骨すぎて情緒の欠片もない言葉を真に受けて気を悪くしないでほしいのだが」
「はい」
 紗耶もまたあっさりと頷いた。柊介の話は七割ほど差し引いて聞くくらいがちょうどよいのだ。何も問題ない。
「この提案は、きみに大いに期待しているということを前提に聞いてほしい」
  目を閉じ、根付は大きく息を吐いた。
「きみも知っての通り、ありがたいことに少しずつ進学校の六穎館からもボーダーに入隊志願してくれる子たちが増えているんだよ。非情にありがたいことにね。だが、その分、保護者や学校関係者の皆様による組織への期待も不安も大きくてだねえ……」
「きたいとふあん……」
 確かに紗耶が知る限りでも、奈良坂透に片桐隆明に辻新之助。宇佐美栞に三上歌歩。綾辻遙や結束夏凜、氷見亜季……と今年は頼もしい一年生が入学してきている。
「要するに、第二、第三の太刀川くんを生み出すわけにはいかないってことだよ」
三橋くん! 言い方ァ!」
 またしてもあっさり言ってのけた兄に根付が叫び返した。額にはくっきりと青筋が見えている。兄は特にどうということもなく、きらきらしい笑顔で手を振った。
「やだなあ、根付さん、行き着く結論は同じわけですし、迂遠なのはやめてストレートに効率的に行きましょうよ~。妹本人だけでなく、ご丁寧に俺までこの場に呼んだってことは、保護者了承の元でそのまま本人から即同意を得たいわけでしょう」
「だからね、言い方……」
 眉間に深い影を刻んだ根付が深々と息を吐いた。
「お兄さんは身も蓋もないことを言っているが、まあ、その……」
「第二、第三の太刀川さんは生み出すわけにはいかないから、なのですか?」
「そう! その通り、太刀川くんのあの手口をこれ以上使うわけにはいかないのだよ。組織にも面子というものがあるからね。パブリックイメージを大事にしたい…………ああ、三橋紗耶くん、言い方には気を付けて。手口などとは言ってはいけないよ。然るべき手順も手続きも踏んでいるのだから。手口などとは言わないでもらおうか。くれぐれも。けっして」
「はい」
 紗耶はそこまでは言っていない。
 ボーダーが誇るA級一位太刀川隊隊長太刀川慶。攻撃手ランク一位にして個人総合ランク一位の太刀川は戦闘員憧れの存在である。ランク戦で勝つことが趣味だと豪語する彼は、ランク戦室に棲む妖怪とも呼ばれて久しい。ランク戦室にいつも居るのだ。いつ家に帰っているのか、いつ学校に行っているのか謎だ。三門市立大学への進学は推薦合格だと聞いてはいたが、なにやら背後でとてつもなく大きな力が動いていた、らしい。
「要するに、三門市立大へのボーダー推薦枠はあくまでも最終手段ってことだよ。太刀川くんと同じ手口を乱用できると勘違いする子たちがわんさか出ても困るし組織の体裁が悪いし、進学校の面子が潰れるってことだよ」
「手口などとは言わないでくれるかね」
 兄の解説に根付が真顔になった。
「ええと、太刀川さんの入学は最終手段の奥の手だった、ということは分かりました。でも、どうしてわたしが今回呼ばれたのでしょうか?」
「手口って言わない!」
「はい……」
 言ってはいない。言ったのは兄だ。そもそもカウント数では根付が一等賞である。

三橋紗耶くん。重ねて言うが、どうか気を悪くしないでほしい。きみはボーダー内で可もなく不可もなく、つつがなく防衛任務に就いてくれているB級隊員だ。そして、ボーダーが提携する進学校六穎館の二年生でもある。今、きみは受験を意識し始める高校二年生の十月を迎えた。折しも所属部隊がこのほど解散となった。そのうえ、きみは解散後にどのチームにも属していない」
 C級からB級に昇格後、どのチームにも属していない隊員は実は多く存在している。ボーダーと提携していない学校に通学中だから、一般職に勤めているから、アルバイトや部活などと両立したいから等々、部隊を組まない事情は皆様々だ。いわゆるフリーランスの隊員は、混成部隊の形で防衛任務に就いているのだ。
「そして、きみは昨年と今年発行した進学広報誌に協力もしてくれたね」
 そう。昨年と今年、進学を目指す学生やその家族向けのボーダー広報誌が作られたのだ。六頴館高校で活躍中の先輩方に学校生活にもそろそろ慣れてきた一年生が勉強方法やボーダー隊員との両立するコツなど貴重なお話を伺うというスタイルで。
 その後輩一年生役に大抜擢されたのが紗耶だった。
 首席入学したという華々しい理由ではなく、小柄な体型が健気で迷える一年生役を醸し出すのにちょうどよいからとの抜擢理由である。遺憾の意を表したい。心から。
 広報誌のキャッチコピーは、「大丈夫。ボーダーの進学攻略本だよ」である。国近に借りたゲーム攻略本そっくりのそれは、「ほんとにござるかぁ?」と疑問符を浮かべずにはいられなかったが、何故か大好評だったらしい。売れに売れた。根付さん曰く、「飛ぶ鳥を落とす勢いだった」という。
 確かに表紙を飾ったのは、二宮匡貴と加古望、来馬辰也の三年生と三橋紗耶の新一年生である。目を惹くお三方なのだ。宜なるかな。しかし、肝心要の特集の目玉である三年生の二宮匡貴と加古望のコメントはばっさりカットされ、二人はあまり登場しなかったのにも関わらず、売れたのだという。「子どもと動物が登場するモノは外さないのが世の習いだ」とは兄と幼馴染の見解である。これがよく分からない。
 三年生と一年生の座談会ページまで大幅に削減されたのは大人の事情である。「小学生低学年の口喧嘩はやめなさい」と根付さんから二宮と加古に熱いご指導があったのだ。体感温度があんなにも下がる部屋に長時間に渡り滞在したのは初めてだったな、と紗耶は今でもあの日の寒さに身震いする。
 大好評を博したのは、鈴鳴第一を任されて間もない人望厚い来馬辰也の単独インタビューが八ページ増え、座談会ページの代わりに嵐山隊のテスト対策ページも緊急登場したからではないかな、と紗耶は考えている。
 さて、座談会ページだが、二宮と加古の発言だけでなく、集合写真も何枚かお蔵入りとなった。先輩方と紗耶の身長差が大きく、同じ一枚に収めようとすると、遠近法を駆使する必要が出たからだ。解せぬ。何枚も撮り直しをすることになった。二宮と加古の小学生低学年めいたキャットファイト。ただ困ったように、けれども慣れているのか静かにやさしく微笑む仏の来馬。来馬は二人の口論が始まりそうになるたび、机の上のいいとこの菓子と茶を根付と紗耶にスマートに勧めてくれたが、味は全くしなかった。紗耶は二宮と加古に挟まれて座っていたのだ。席順指定をあんなにも恨めしく思ったことはない。根付の額に浮かぶ青筋。二宮の舌打ちに加古のため息。体感温度が下がっていく室内。更に撮り直しを要求される集合写真。針のむしろ。むしろ針。
 代わりに二宮匡貴が提案して撮った一枚が表紙を飾り、座談会となるはずだった先輩方への一問一答コーナーにも採用された。あとは、一人ずつ大きく撮影したスナップをデザイナーさんがいい感じに配置し、漫画で四天王が初登場するシーンめいたコントラストがはっきりくっきりした格好良いテイストのページを作ってくれた。やはり身長差に黄金比の法則は乱れたのか、紗耶だけが先輩方よりも若干拡大されたものが写った一枚になった。解せぬ。
 今年の広報誌も尊敬してやまない先輩・弓場拓磨と同学年の蔵内和紀、神田忠臣と共に取材に応じた。脚長族と短足族との格差社会を突きつけられたりもしたがなにやら好評だったらしい。
 そんなこんなで、大好評だった先の広報誌進学特集号発売からほぼ半年。

三橋紗耶くん。きみが適任なんだよ。きみは、昨年と今年の広報誌進学特集号で善良な進学校生だと保護者の方々にもスポンサーの皆様にも広く浸透しているんだ。きみにとっては不本意かもしれないが、それだけ周囲はきみに期待もしているし、信用も充分あるということなんだよ。そして、ありがたいことに、現在、ボーダー隊員は提携校の六穎館や三門第一に進学している子たちだけではない。他校生もどんどん志願して入隊してきている。ただし、彼らは提携校所属校生ではないから授業欠席・早退の免除や配慮など、組織側から学校に可能な働きかけはそう多くはない。そうした隊員たちは、今のきみのように部隊に所属せず、混成部隊で防衛任務を担ってくれている。ただ、彼らにとっては、良きロールモデルとなる同じ学校の先輩が組織にはまだ存在していないこともある」
 根付のまっすぐな眼差しが、紗耶を射貫く。静かで、けれども力のある語り口に紗耶は水を浴びた植物のようにしゃきっとする。
「そこで、きみに模範的な受験生ロールモデルをお願いしたい。進学校生のきみがフリーランスの隊員として、どのように学業とボーダー防衛任務を両立できているか。成績不順に陥ることなく、志望大に進学できるか。進学校生だけでなく、他校生たちの目標や指針、励みにもなってほしい。それは、彼らの保護者の方たちにとっても大事なお子さんが所属する組織に対する安心材料にもなる」
「とどのつまり、ボーダーで進学実績を作ることは、保護者と学校関係者、スポンサーの皆様への強くて巨大な宣伝にもなるってことだよ」
三橋メジャー! 言い方ァ!」
「うははは。まあまあ。根付さん。悪い話ではないと俺も思います」
 緩やかに首を左右に振ると、
「……これは体質上、ボーダーに身を置くのが何よりも安全なので。ボーダーに所属する限り、これには近界兵あれから自分の身を己の手で護る手段が与えられ、許される。家族としてこんなにも安心できることはありません。……そりゃ、防衛や戦闘なんて物騒なものからは離れて暮らしてほしいのが兄としての本音ですけどね。でも、他の街で近界兵あれが出ないとも、出たとしてもボーダーここのように護る術が完璧に備わっているとは保証されていませんから」
 兄は眉と頬を引き締めた。

紗耶。俺もお前には長生きしてほしいんだよ。母さんの分まで」

 三橋柊介紗耶の母は、紗耶が小学校入学後のまだ頑是ない頃に病気で儚くなった。七学年上の兄は、それ以来より一層、歳の離れた妹に対して過保護になった。早くに亡くなった母の分まで、紗耶を大事にしてくれているのだ。

「お前が成人するまではちゃんと俺がそばで見守るって母さんと約束したからさ、紗耶にはいつも元気でいてもらわないと困るよ。チーム解散してから食欲がずっと落ちてるだろ? 父さんもおばあちゃんもおじいちゃんも心配してるぞ」
 重ねられた静かな声。それは紗耶の胸を軋ませた。
 前にも言ったけど、と兄はやわらかに笑みを落とした。
「さよならだけが人生だって言うけど、分かっていても寂しいよ。それは仕方がない」
 母譲りで自分とおそろいの淡い色彩の双眸と視線がかち合った。そして、兄の瞳は、紗耶の知る限り、いっとう美しい灯りが揺らめいていた。
「新しい旅路を選んだチームメイトへのはなむけは、お前が元気に過ごすことが一番だよ。あの子たちと別れた寂しさも感傷も思い出も全部捨てろだなんてお兄ちゃんは言わない。だって、それも全部、紗耶の大切なものだからね」
 兄の輪郭は天井から降りる照明のやわらかな光に縁取られている。長い睫毛が柊介の瞳に濃く深い影を落とした。
「幸い、根付さんも上の方々もお前に新しい目標『模範的な受験生ロールモデル』を提案してくださっている。俺も賛成だ。紗耶が楽しくて明るい約束を自分で作って、未来と待ち合わせできるんだから」
「お兄ちゃん……」
三橋くん……」
 声に湿ったものを滲ませた根付と紗耶をたっぷりと見つめ、兄は口角を大きく上げた。
「それにさ、『あのときの迷える子羊一年生が今ではこんなに大きくなりました』って生産地から季節の便りを出すのは大事なことだよ。保護者とスポンサーの皆々様の庇護欲をばっちり刺激し、がっちりアピールし、ボーダーを応援したい気持ちをみっちりしっかりちゃっかり掴める機会は逃すの厳禁――ですよね、根付さん?」
「……三橋くん、言い方」
 声と頬を引きつらせた根付に、兄はただ瞳も頬も緩ませた。根付の目が少し潤んでいるのが見えた。室長のやさしさに兄も紗耶も小さく笑みを漏らす。ボーダーでは、この三門市では、あの日を境に親や家族を亡くした子どもはそう珍しいことではない。三橋家の場合はあの日がきっかけではない。けれども、すべてに共感はせずともそっと耳を傾けてくれる。そうした大人がそばに居てくれて、見守ってくれているというのはとても安心できるのだ。紗耶にとって、兄や父、祖父母、おとなりの王子家がそうであったように。良い組織に自分は居るのだな、と紗耶は熱くなった目頭を冷ましたくて、まばたきを繰り返した。
 雨上がりの澄んだ空に似た兄の双眸に、自分の姿が明るく見える。あれだけお喋りだった兄はただ静かに首を縦に動かした。こくん、と紗耶もうなずき返し、大きく深呼吸する。
 それから姿勢を正して立ち上がる。根付に向き直って、四十五度の角度で頭を下げる。
「根付さん、その係を拝受いたします。よろしくお願いします」
「ありがとう三橋くん。こちらこそよろしく頼むよ」
 破顔一笑した根付に紗耶もまた頬を緩めた。

「では、早速と言ってはなんだがね、保護者としてお兄さんの柊介くんにも一緒に来てもらったことだし、こちらの契約書を読んで、二人には最後にサインを――ああ、しまった。ここには万年筆しかないな。昨今の高校生にはあまり馴染みがないだろう。ボールペンを隣の部屋から借りてこよう……」
 机の上と引き出しで目を彷徨わせた根付が、椅子から立ち上がった。右手を挙げ、紗耶は室長を引き留めた。
「すみません。そのサインは自分のボールペンで書いても良いものですか?」
「ああ、問題ないとも。すまないね」
 ほっとしたように座り直す根付に紗耶も口元をほころばせた。
「いえいえ、学校からそのまま来て筆記具も全部鞄に入っていますので」
「ああ、今日は授業後に直行してもらったのだったね。急がせてすまなかったね。荷物は机に広げてくれて構わないよ。契約書もサインも急がずゆっくりでいい」
「はい。ありがとうございます」
 快く言ってもらえて助かった。鞄に手を伸ばしたものの、ペンケースが奥底に沈み込んでしまっていたのだ。今日はショートホームルームが長引き、根付との集合時間に遅れそうだったのだ。机の中身はとりあえず鞄に突っ込んだ状態であったため、教科書とノートの高さも不揃いだ。お言葉に甘え、鞄の中身を一旦全部机に出して整理を試みた。と――

三橋紗耶くん」

 根付にフルネームで呼ばれた。兄も同席しているので至極当然のことではあるが、その響きはどこか冷たかった。思わず正面の兄を見上げたが、静かに着席している。
「…………?」
 急激な温度変化の疑問を確かなものとし――
 紗耶は手を休めて根付に向かい直った。
 メディア対策室長の顔から狼煙が上がっていた。

「模範的な受験生がグラビア表紙の週刊誌を持ち歩くのはやめなさい! 没収!」

 根付は宣言するなり、紗耶の手元にあった――友人から受け取りほやほやの――『週刊少年サンデー』を奪い取ってしまった。クラスの友人に譲ってもらったこのバックナンバー二十五号は今をときめくアイドルが確かに表紙と巻頭ページスナップを眩しげに飾っている。
 遠ざかるアイドルの華やかな微笑みに手を伸ばし、紗耶は長椅子ごと飛び上がった。
「えっ? そんな⁉ 根付さん‼ コナンくんを! コナンくんをまだ読んでないんです! わたしもやっとミステリートレインに乗れるところだったんですよ⁉ それに契約書にサインしていませんよね⁉ まだ‼」
 声を荒らげた紗耶に、根付は思い切り顔をしかめた。
「口頭では先ほどしっかり契約を交わしたはずだがね⁉ そもそも契約以前として、若いお嬢さんが何の疑問も抱かずに白昼堂々とグラビア雑誌を鞄に入れて持ち歩くのは如何なものか!」
「圧政! 圧政です! グラビア雑誌ではありません! 『週刊少年サンデー』はごくごく普通の少年漫画誌です! 今回はたまたま偶然に図らずも表紙と巻頭ページがグラビア写真だっただけです! わたしだってアイドルの皆さんにはもっと厚着してほしいなと思いますけど……。それはそれとして! 右下! 右下にコナンくんだって一緒に登場しているじゃないですか! 今回は友情出演ですが彼だって何回も表紙を飾っている健全な漫画雑誌なんですよ⁉」
 縋り付く紗耶には届かないよう、根付は天に突き上げるように『週刊少年サンデー』を持ち上げた。背伸びしてもジャンプしても紗耶には届かない。歯がみも足踏みもした紗耶は一縷の望みを賭け、兄を振り返った。
「うはははは!」
 柊介は腹を抱えて笑っていた。援軍は来ない。了解。
「根付さん、年頃の娘と親子げんかするお父さんみたいだ。それだと若い男子は持ち歩いて良いことになっちゃいますよー」
 長い指で目尻に浮いた涙を拭う兄に、紗耶と根付は目を吊り上げた。
「それだとお兄ちゃんからしても根付さんはお父さんになるでしょう⁉ 根付さんを困らせないで!」
三橋柊介くん! きみのように大きくて手のかかる子どもは持った覚えはないし、持ちたくはないがね⁉」
 根付と並び、頭から湯気を上げて柊介に急き込んで言えば、兄は何故か戸惑ったように頬を引きつらせていた。もともと大きな目を更に見開き、半歩ばかり身体を退くと、今度は静かに口を開いた。
「ええー、なんか二人だけ仲良しじゃん……お兄ちゃんは寂しい」
 兄の途方に暮れたような声が、メディア対策室に浮かび、ほのりと空気を揺らしては、消えていった。