アルビレオの領分

お残しは許しまへんで

 ドキドキで壊れそう。心の臓が。たぶん。おそらく。けだし。めいびー。そういえば先代の洗濯機も勇退直前に尋常ではない速度で振動していたなあ、と少女は目線を彷徨わせた。
 ハートは早鐘を打つどころか、先ほどから速く激しくビートを刻み続けている。急速に。プレストではなくて――

「ぷれすてぃっしも……?」
「……プレスティッシモ。プレストよりもやや速い速度記号のことか」
「は、はい」

 声に出てしまっていたらしい。何気ない呟きを律儀に拾ってくれた隣にそびえ立つそのひとに、少女は目を白黒させた。
 長い。脚が長い。股下が五キロメートルは確実にある。背も高ければ脚も長い。鼻も高いし、骨ばった指先までやたらと長い。なにもかもがなにやらとてつもなく果てしなくシュッとしている。
 できる限り隣に立たないでいただきたい。互いを引き立てるどころか、遠近法がド派手に哀しくなるまで大いに狂うので。脚長族と自分のような短足族は共演NGの法律を課していただきたい。そう願ってやまないが、この自動販売機コーナーの余白に伸びしろはなさそうだ。
 偶然にも待ち合わせ場所も指定時刻も、高校とボーダーの先輩でもあるこの二宮匡貴と重なってしまった三橋紗耶は、自動販売機の真上にある時計をのろのろと見上げた。長針が動く気配はない。緊急脱出したいところであるが、生身なのでそれも叶わない。そもそも気まずさ故に苦手な先輩の隣でカジュアルに「それじゃ、お先にドロンします☆」などと宣言して緊急脱出をキメたらその後の関係には海よりも深い溝ができそうである。ああ、無情である。
 別に鎬を削る好敵手でも犬猿の仲というわけでも、古来から家の敵同士という関係性でもない。ただ単にこの先輩との交流が乏しいのでなんとなく一方的に紗耶が緊張しているだけである。ポジションは同じ射手だが、射手ランク一位にしてA級部隊を率いる隊長さまなのだ。しがないB級隊員にとっては雲上人である。
 歳の離れた兄がいる紗耶にとって年上男性は特別不得手というわけではない。が、いかんせん二宮は兄とは真逆の物静かなタイプなので対処法が分からないだけだ。ここに立つのが自分ではなく兄ならば、軽妙洒脱で小粋なトーーク(本人談)とやらであと十分だろうが三時間だろうが、瞬きをするのと変わらない体感時間で押して通るだろう。その会話に巻き込まれる相手が大変気の毒ではあるが。
 こんなにも兄の到着を切望したことはあるだろうか。否、ない。

「っくしゅん」

 静寂が破れた。飛び出たくしゃみは咄嗟にハンカチで飛沫も音量も抑えたものの、気まずい。あまりにも気まずい。リュック鞄に提げたアルコール消毒液で手を清めるついでに、英単語帳を探す。こういうときは勤勉な学生に徹するに限る。明日も小テストなのだ。
 と――
   ピッ。ピッ。ガタン。ゴトン。

 聞き慣れた自販機の軽快な機械音と硬い落下音が響いた。
 そして――
「!?」
 眼の前が黄金色に輝いた。じっくりコトコト煮込まれたコーンスープ缶だ。晩秋になると恋しくなる味である。

「飲まないのか?」
 缶を差し出してくれているのは二宮だ。声のトーンも特にどうということもない様子だし、顔つきもいつも通り静かに凪いだままである。
「……ありがとうございます。いただきます」
 おずおずと両手を伸ばした紗耶に、二宮は一つ頷いた。

 常に時間前行動を誇り、上司にもその点について定評のある兄はまだ現れない。手のひらを温めてくれているコーンスープと壁の時計とを往復させた紗耶の視界に、至極真面目な面持ちの男が割り込んだ。
「飲まないのか?」
「ひえ」
 びくりと両肩を上げた紗耶に、幾分トーンを抑えて二宮が尋ねてきた。
「飲まないのか?」
 二回言った。律義なひとである。そのうえ聞こえていないと判断したのか少々屈んでくださっている。律儀なひとである。
「すみません! ええと、ええと、ゴクゴク喉越し爽やかに豪快にごちそうになりたいのもやまやまなのですが、換装してないのでちょっと今は難しいといいますか……」
「蓋が開けられないのか?」
「いえ、そうではなくて……」
「冷めたら味が落ちるぞ」
「それはそうなんですが……」
 眉を上げた彼が視線で先を促してくる。奢ってもらいながら一口たりとも飲まないのは確かに無礼にもほどがある。やけっぱちで紗耶は叫んだ。

「コーンスープもお汁粉も底に沈んだ最後の一粒までお残しが許せないんです! わたし!」

 二宮の淡麗な双眸がまあるくなった。猫のように。
 なんとなく見てはいけないものを見てしまった居心地の悪さに、紗耶は早口で事情を明かす。
 粒入りのコーンスープ缶や汁粉缶は、そのままの形状で飲むと、缶の中で粒が入り口に一気に押し寄せ、山盛りになる。当然、山の下部分は飲み口近くに留まり続ける。けれども、飲み口の下を押し潰して缶の中に小さな山を作ると、粒は少しずつ流れることが可能となる。最後の一粒までスープの流れに乗って残さず飲めるという寸法だ。
 ところが、哀しいかな、この自動販売機スペースには硬い机もなく、トリガーオフしている今の紗耶では缶を潰す握力も足りない。飲みたくても飲めない。そういうことである。
「流体力学だな」
 二宮は淡々と頷いた。弱々しく紗耶も頷き返す。二宮の前でこんなにも喋ったのは初めてだ。自己ベスト更新である。ぐったりと、けれども最小限の音量で深く息を吐いた途端――手のひらから温もりが消えた。
 ぱちぱちと瞬きを四度繰り返していたら、二宮の大きな手のひらが紗耶の両手に黄金の缶をリリースした。
「あ」
 飲み口そばが、小さく押し潰されていた。じわじわと伝わるやさしさと温もりに紗耶は眉をさげた。へにゃりと。
「ありがとうございます」
 いらえはなかったが、そのひとは特にどうということもなく、ただいつも通り静かに大きな手のひらをポケットに仕舞い込んでいた。



「二宮さーん! 遅れてすみません!」

 明るい声が世界に弾けた。淡い色の髪を揺らし、犬飼澄晴が柔和な笑みを浮かべて足早に現着した。友人の鳩原未来が紗耶に手を軽く振り、辻新之助と氷見亜季も丁寧に紗耶にお辞儀をしてくれた。

「二宮先輩っていいひとだねえ。とっても」

 今夜は二宮隊の皆で焼肉を食べに行くのだという。
 自販機に紙幣を入れたそのひとは静かに宣言した。お前たちも早く選べよ、と。ラインナップに目をきらきら輝かせる辻と氷見は、二人並ぶと時計の長針と短針めいた身長差で微笑ましい。最年少の二人を静かに見守る二宮隊長は、両手をスラックスのポケットにしまい込むいつもの姿勢である。
 後輩ファーストで辻と氷見が選ぶのをのんびり待つ先輩二人に紗耶は笑いかけた。二宮先輩っていいひとだねえ、と。
 きょとん、と大きく双眸を瞬かせた二人に、紗耶はこれまでのあらすじをざっくり説明した。神妙な面持ちをしていた二人は顔を見合わせるなり弾けるように笑った。
三橋ちゃんってば、うちの二宮さんのそこに今ごろ気づいたの? 遅いな〜!」
「うん。でも、紗耶ちゃん、目の付けどころがシャープだねえ」
 犬飼と鳩原の口角も頬も眦も緩みきっている。
 それは、澄みきって晴れやかな青空の如く、未来を明るく照らすような、それぞれに冠せられた名前にも負けない眩しい笑顔だった。たまらずに背も頬も両肩をも震わせ続ける鳩原と犬飼のやわらかな笑み。誇らしげで、照れくさそうで。こちらまでこそばゆくなるようなそれに紗耶もつられて頬も口元も思い切り緩めた。

「おーい。紗耶! すまんな! 定時で終わらんかった!」
 やや間延びした声が飛び込んできた。
 肉体労働をしないと公言して憚らない兄が駆け足で現れた。
「おお、二宮くん……と愉快なその仲間たちではないか。今日も一日お疲れ様」
 胸ポケットに留め入れていたよれよれのネクタイを整え、兄が破顔した。
「お疲れ様です」
 調子の良い兄の声にも丁寧に頭を下げ、二宮は踵を返した。その広い背中を後輩たちが付かず離れず追いかけて行く。合図も掛け声もなかったのに、姿勢を正すタイミングも足を出す瞬間も見事に同時だった。兄が目も口も丸くしている。ぽかんと。
「じゃあね、三橋ちゃん。お兄さんも失礼しまーす!」
紗耶ちゃん、またね」
「うん。未来ちゃんも皆も楽しんできてね」
 口々に声を掛けてくれる二宮隊長の愉快な仲間たちに紗耶もまた会釈した。
 全員集合したはずなのに焼肉店に出発せず、まだこの場に留まってくれていたのだ。飲み物でウォーミングアップしたら美味しい肉の入る胃袋スペースが若干狭まりそうなのに、だ。晩秋の今は日が暮れるのが早い。日が沈むと一気に冷え込む。控えめに見積もっても紗耶の待ち合わせ相手の兄が現れるまで気遣ってくださっていたようにしか思えなかった。
 広くて大きくて、遥かに高くてシュッとしたその背中に紗耶は笑いかける。
「二宮先輩! ありがとうございました!」
 返事はなかった。けれども、飲みきったはずのコーンスープ缶が、紗耶の手のひらをじんわりと温め続けてくれていた。