明らかに清らかに
一回。二回どころか三回でも足りない。彼は、目を六回閉じて開いた。
「……これは何ですか?」
声に出たのは、教科書に掲載されていそうな基礎例文だった。
「冬島さん。お疲れ様です」
世の女性陣がこぞって羨ましがりそうなほど色素の薄い色合いの長い睫毛を震わせ、男が顔を上げた。やわらかに微笑むと、これまた同じく淡い色素の双眸に濃い影が落ちる。腕利きの美術家が丹精込めて創り上げた彫像だとか、特別展示でいつも人だかりができている美術作品だとか比喩されても不思議ではないほどまでに麗しい見目をしている。
後輩のエンジニアである三橋柊介は、すらりとした人差し指と中指を顔の横で揃え、きらん、と星を飛ばした。同時にシャッター音が鳴った。
「聞きたいですか?」
質問を質問で返すなよ、と言いかけて冬島慎次は真顔になった。
定時で上がれる貴重な秋の夜である。この後輩の小粋でとびきりゴキゲンなトーーク(本人談)とやらを聞くのは何としても避けたい。今夜こそ家でゆっくり休みたい。何を隠そう、この男、アルコールの類を一滴も飲まずともずっと喋り続けることができるのだ。鬼怒田室長が一言も発しない暗澹たる会議ではこれが一人で何人分も話してくれるので便利といえば便利(ではないこともないの)だが、疲労困憊の今、耳を傾けるには時間も体力も惜しい。
三橋柊介はとても麗しい見目をした後輩である――ただし、口さえ開かなければ。
「けっこうです」
じゃ、と力なく会釈して背を向けた冬島の後ろ襟を、素早く掴まれた。ぐわし。その細い腕のどこにパワーがあるのか、ギリギリミシミシと首が締まる。
「いやだなあ、冬島さん! そんなつれないこと言わないでくださいよう!」
肉体労働はしないと公言しているこの後輩、案外パワータイプであることを知る。知りたくもない情報だし、早く開放されたい。と――
「すとっぷ! お兄ちゃん!」
援護射撃――制止の声が入った。かなり下方から。
「冬島さんが見たことないくらい顔色悪くしてるでしょう⁉ やめなよ!」
教室で悪乗りした生徒を委員長が窘めるシーンが何故か脳裏に過った。かなり下の方から入った助け舟だが。
「おお、本当だ! 冬島さん、顔色悪いですよ! 土気色じゃないですか! 残業のし過ぎは体に良くないって俺たち後輩に説いてくれる冬島さんが‼ くっ、俺、そんなやさしい冬島さんのこと、いつまでも忘れませんから……!」
襟を緩め、深く長い息を吐き出した。
「あのなあ……」
言いたいことは百も千もある。が、この後輩、一を聞けば億は返してくる喋り魔なのだ。定時で上がれる夜こそまともに相手をしたくない。
もう一度息を吐く。それから眼前の長身に自然と隠れていた後輩の歳の離れた妹殿に向き直る。少女は小さな手のひらで大事そうに携帯端末を抱えている。
「兄妹二人で写真撮影?」
自隊の隊員たちと食事を囲むとき、当真がいつも真木に声を掛けるのだ。「真木ちゃん撮らねえの?」と、自分の丼に手を付ける前に。エンスタだかオンスタだか、女子高生の間で流行っているSNS用に写真撮影をするか否か当真が声を掛けるくらいには、巷でも定番となりつつある光景だ。
ぱちぱち。三橋
「いえ、兄の写真撮影です」
「え……」
戸惑いを覚えて顔を引く。三橋
そんな三橋が敢えて自撮りをしている――
思わず後ろの窓を振り仰ぐ。
「いやだなあ冬島さん。明日も快晴ですって」
笑みを含んだ声を掛けてくる三橋兄を見返すと、子犬に袖を掴まれた。否、三橋妹だ。上目遣い――身長の差でどうしてもそうなるのだが、妹殿はこちらをまっすぐと見上げて頷いた。
「あの、冬島さん、大丈夫です。兄はいつも通りです……」
「うん?」
「こらこら妹よ。お兄様に向かってなんだその形容は」
「すみません。冬島さん。兄はいつも通り大丈夫じゃないです」
「うん……」
半眼のまま言い直す妹殿に冬島は心底から首肯した。
「冬島さんも紗耶もひどいなあ。これはお詫びに冬島さんから上から目線で撮ってもらわないと立ち上がれないなあ。紗耶に撮ってもらうと下からのアングルにしかならないんですよう」
毛並みの良い大型犬が散歩中にずぶ濡れになったような顔つきで、三橋がよろよろとしゃがみ込んだ。冬島が返事をする前に携帯端末を差し出してくる。
「お兄ちゃん! 生産者を明らかにするのにそれはだめ、これはダメとあれこれわたしの撮影法にたくさん注文しておきながらそれはないでしょう?」
ぷうと思い切り頬を膨らませた子犬の頭を、大型犬が上機嫌に撫でた。
「うははは。すまんすまん。他のアングルもそろそろ欲しくなってだな」
「脚長族滅脚長族滅……」
「はいはい、お二人さん。はい、バター……」
兄妹の戯れ合う微笑ましい光景に、冬島はシャッターボタンを押した。
ラウンジでひしめく見知った隊員たちから辛くも逃げ出し、冬島は自販機コーナーで息を吐いた。手持ちのチョコレートと飴の大入り袋をすべて巻き上げられ、ようやく逃げ切れたのだ。菓子か悪戯か。子どもたちがねだるハロウィンはすっかりイベントとして定着した。
「トリート・オア・トリート!」
やけに明るい声がした。
振り返ると上着代わりに白衣を纏った三橋柊介がニヤニヤ笑っている。
「冬島さんお疲れ様です。甘いものでもいかがです? 今日のログインボーナス」
こちらの返事を待たずに小袋を差し出してくる。『ボーダーのステラおばさん』を自称するこの後輩は、クッキーを焼くのが趣味だ。豪語するだけあって、美味いものを焼く。昼食を食べ損ねたこともあり、ありがたく受け取る。丁寧に包まれたオレンジ色の袋を受け取ると、チョコレートとバターのほのかに甘い香りがした。包みを開きかけた冬島は二度見する。そこに貼られていたのは――
やたらと美しい見目の男がきらきら屈託ない笑みで映る写真シールだ。「私が作りました」と流麗なロゴが七色に輝いている。
ラウンジではこの後輩の妹もにこやかに友人たちとハロウィン菓子交換を満喫していた。あの注文の多い撮影会は、クッキーの生産者を明らかにすることで大事な妹に接近しようとする輩を清らかに牽制したい兄なりの作戦だったのだ。
手を伸ばし、後輩の頭をがしがし撫でる。毛並みの良い大型犬が首を傾げた。
「何です冬島さん?」
「いや、三橋。おまえも良い兄貴なんだなあ」
クッキーは、甘くてちょっぴりほろ苦い味がした。