アルビレオの領分

春遠からじ

 むかしむかし。宮廷サロンで名を馳せた先人はかく記した。冬はつとめて、と。
 けれど、冬の夜もなかなかよいものである。
 肺を満たす空気は冷たいが、澄んでいて心地よい。

 唇から零れる白い息をスヌードに押し込んで、首筋を温める。

 風邪は首から来るのだと、おとなりに昔から住んでいる王子さまが教えてくれた。以来、少女は首元の温活に余念がない。
 しんと澄んだ空気は鼻腔をつんと凍らせる。
 指先を擦り合わせて見上げた空は、凍てついて昏い。大きな刷毛で銀砂を散らした星ばかりが瞬いている。葉の落ちた木々が寒そうに上空へと枝を伸ばしている。枝に銀星がかかり、まるで木に星がなっているように見えて綺麗だ。

「星の実を集めて生やし冬木立(三橋紗耶)」

 なかなかよい一句である。紗耶は確かな満足を覚えて一つ頷いた。

「本番に向けて俳句の腕磨きとは感心だね、サーヤ
 くつくつと忍び笑いが聞こえ、ゆっくりと振り返る。
あっくん。こんばんは」
「こんばんは」
 おとなりのベランダに星の王子さまが佇んでいた。ダークカラーの艶々したジャケットにオフホワイトのハイゲージタートルネック、淡い色素の髪と翠玉の瞳が冬銀河の明かりを受けてきらきらしていらっしゃる。冬の一等星の如く、周囲に惜しみなく光を届けてくれている。おとなりさんの王子さま――隣家の王子さんちのご長男、王子一彰くんそのひとである。
「レベルアップ可能時には迷うなかれとボーダーで教わったからねえ。でも、俳句はわたしの試験科目に含まれていないのでした。がっくり」
「そう。それは残念」
 言葉とは裏腹に清々しい笑顔で返してくれる幼馴染み殿に紗耶も肩の力を抜いた。

 それはおいておいて、と両手でエア荷物を持ち上げて下ろすジェスチャーをする。一彰もつられたように同じ動作をしてくれた。
「遅くまで防衛任務お疲れ様」
「ありがとう。夜遅くからは大学生や大人の皆さんが代わってくれたからね。サーヤも受験勉強お疲れ様」

「ありがとう……」
「おや、元気がない」
 目を伏せて呟く紗耶に一彰の声が届いた。
「ええと、あの、ありがとう。ごめんね。労いはとても嬉しいの。嬉しいのだけれど、わたしはそれに見合った結果をきちんと試験本番で出せるのかなって。労いへの照れくささと試験へのプレッシャーとでぎゅうぎゅうのサンドイッチになる今日この頃です」
「なるほどお味は塩辛そうだ」
 長くて骨張った人差し指をくるりと回し、一彰は目元を緩めて微笑んだ。いいことを教えてあげよう、と。

「なるようになる」
「急におみくじみたいなことをおっしゃる……」
 紗耶が半眼になると、
「じゃあ、確かめに行こう」
 一彰はにっこりと笑った。
「あたたかくしてから玄関前に集合。持ち物はお賽銭とおみくじ代」
 紗耶が目を丸くしているうちに一彰はてきぱきと指示を出した。それから、くるりと背を向け、王子家のベランダから部屋の奥へと去ってしまった。風と共に。


 父と祖父母に声を掛け、一彰と近くの神社へと向かう。
 学校帰りや防衛任務で遅い時間に外を歩くこともある。だが、年の瀬の昏い道を家の反対方向に向かって歩くのは、時間に追われて家路を急ぐ常とは違い、不思議と特別感がある。同じように凍てつく空気に頬を上気させ、白い息をもくもくと走らせながら行き交うご近所さんたちに軽く微笑んで会釈する。
 ラジオ体操やカブトムシ捕りに出かけた小学生の頃の夏休みのイベントを思い出してスヌードの下で紗耶は笑った。
 お参りに訪れた人々の列に一彰と紗耶も並ぶ。
「なるようになる。為せば成る。おみくじも戦国武将から拝借しているんじゃないかな。名君と名高い米沢藩主だって家臣にこの言葉を借りて詠み与えていると言われているらしいからパワーワードだよ。きっとね」
 為せば成る為さねば成らぬ成る業を成らぬと捨つる人のはかなさ、のことかな、と紗耶も頷いた。
「パワーワードというくらいだからなんらかのパワーがおそらく秘められていると思うね、ぼくは」
「なんらかなんだ……」
 なんらかと形容されることでいまひとつパワーが足りなくなるように感じるのは何故だろうか。けれども、例によって例の如く一彰の軽妙な言葉の力で紗耶の凝っていた肩も、寄っていた眉も力が抜けたことは確かだ。

 手を合わせて参拝を終えた頃には、零時を回っていた。境内で配られた甘酒は冷えた身体をゆっくりと温めてくれる。喉を通っていくほのかな甘みに紗耶はほっと息を出す。
 おみくじは一彰が吉で、紗耶が末吉だった。
 意識調査と違い、「大いに」「やや」と冠されていないのでいまひとつ難しい。首を大きく傾げる二人に巫女が笑いながら教えてくれた。どちらも努力次第で上向きに行くポテンシャルを秘めている、ということらしい。
あっくん。お参りに連れ出してくれてありがとう。正直、煮詰まって頭冷やしてた所だったので助かりました」
「神社の方なんとなく吉」
「なんとなくなんだ……」
 除夜の鐘の音の響き渡る中、なんともふわふわした助言(?)を王子さまは授けてくれた。
 紗耶の指摘に返事はなかった。彼はおもむろにジャケットのポケットから橙色に輝く丸くて小さきものを取り出した。それを、厳かな顔つきで紗耶の手のひらに載せた。
「やまい、風邪は首から来る。用心せよ」
 両の手のひらで三門みかんを授かり、紗耶は頬を緩めた。
「今年初めての明確なアドバイスだねえ」
「我が家では母さんが冬になるといつも目を光らせるんだ。気を付けて。ガードの弱さが見つかると、もこもこふわふわのマフラーでぐるぐる巻きにされる」
 渋面を作って一彰が肩をすくめた。一彰は暖かさが保証されるのと引き換えに首元が窮屈になるのはあまり好きではないらしい。学ランの詰め襟も緩めていた。

「学問、なるようになる。安心して勉学せよ」
「ありがたき幸せ。おとなりを司るオウジケノカズアキミコトの託宣、大事にします」

「受験終了後には」

 穏やかな声が上から降り注ぐ。

「春、来たる。とびきり穏やかで晴れやかな春が」
 声と共に落とされたのは、甘くてやわらかいのにどこか癖のある、清涼感のある薄荷の香りを春風に静かに乗せたあたたかな笑みだった。
「そうだといいなあ」
 長く息を出す。白い煙のように寒空に溶けていく。
「学問、なるようになる。安心して勉学せよ」
「二回言うんだ」
「大事なことだからね」
 緑柱玉の瞳に悪戯めいた星を灯らせ、少年も笑う。
 少女のいっとう好きな笑みだった。こんなとき、紗耶は自分の肩をずっと凝り固めていた重荷がふわりと軽くなるような、あたたかい心地に包まれる。
 幼馴染み二人が軽口を交わしながら行く家路を、冬銀河が静かに照らしていた。