寒凪に届くエール
そびえ立つ看板を背に、大きく息を吐く。ぐっと握り、ぱっと手のひらを開く。
丁寧に磨かれていそうな革靴が、底冷えするアスファルトを踏むのが見えた。そこから細身の見慣れた濃淡チェックの制服スラックスが伸びている。
「お、三橋ちゃん。おはよう」
「カンダタダくんおはよう」
「多い多い。一個多い、なんか一個多いぞ」
肩をこけさせつつも爽やかに名前を訂正してくれる神田忠臣である。律儀でいい子だなあとしみじみしながら、紗耶は携帯端末を大きく掲げた。やさしき脚長族は少しだけ身をかがめ、液晶画面を覗き込んでくる。
「ええと、なになに。『戦タいタにタタタ臨タみタしタタ者よ、三タ門タ市タタ立タ大タ学タ正タタ門タにてタタ待タつ。タカタタンタタタダタタタダをタガタタタータドタしタタタなタがタら、正タタ門へタ向タタかタタうタとタタよタしタ』」
「すごい! 噛まずに読めた!」
「いやいやどうもどうも……ってなんだこれ?」
顔は笑っているが、困惑しきりと言った声音で神田が問うてくる。
「最後の絵文字にご注目ください」
「え? 絵文字? え……? なんか葉っぱと、犬……じゃなくてタヌキか?」
「いえーす。ざっつらいと!」
我ながらいまひとつ英会話の発音に難はあるがひとまずそれは無視をする。親指をぐ、と天に向け、神田に笑いかける。ご唱和ください、と。
「せーの!」
「『戦いに臨みし者よ、三門市立大学正門にて待つ。カンダタダをガードしながら、正門へ向かうとよし』」
タヌキの絵文字指定の通り「タ」を抜いて、神田と改めて音読した。採れたてほやほや、たしかなまんぞくを覚えたはずなのに神田は首を傾げていた。
「やっぱり一個多い……」
「まあまあ。そういうわけなので、不肖三橋、僭越ながら神田くんの護衛をいたしまーす!」
ちゃ、と右手をあげ手のひらを左下方に向け、人さし指を額の右斜めに当ててみせる。
「うーん。よくわからんが、よろしく頼むよ」
「三橋、了解」
三歩進んだところで、右斜め上からそっと声が降ってきた。
「なあ、三橋ちゃん」
「はい」
「今日は通常の三倍はカクカクしてるぞ。緊張していらっしゃる?」
「……ききき緊張ではないですし武者震いでもなく作画処理の都合ですのでお構いなくのーさんきゅー!」
右手と右足がまたしても一緒に前へ出てしまったが、些事である。眉間にきりりと力を入れる。カクカクしながら神田を護衛する。これは北風が真向かいから吹いてきたからである。緊張などでは決してない。
五十歩も歩けば、錬鉄の門が見えてきた。三門市立大学正門である。ミッションコンプリート。護衛の任務完了である。わずか五十歩の任務ではあったが。紗耶にとって極めて難しい任務であった。歩くたびに神田のカクカクチェックが入ったので。恥を搔いたが、共に戦う者に笑いと温もりをお届けできたのならばOKです。忘れたくない大切にしたいまごころを思い出し、ほっと息をつく。
湯気のように揺れる白い息で指先を温め直し、護衛対象こと神田を見上げれば、彼は目をまあるくさせていた。
「やあ、カンダタダ」
「よう、タヌキの王子様。いつもより一個多いぞ」
神田の苦情にそのひとは肩をすくめて見せた。
「ごめんごめん。今朝は芯から冷えているからねえ、指がいつもより優雅に華麗にタップしてしまったよ」
淡い色素の髪と黒いコート、翠玉の瞳が冬ざれの朝陽を受けていらっしゃる。なにやらきらきらぴかぴかした光が産地直送で目に届く。おとなりさんの王子様――隣家の王子さんちのご長男、王子一彰くんそのひとは逆光を受けて立っていた。
「おいおい、小せえことだろ気にすんな! 一個多いくらいが御利益だって多くあるって」
藤丸ののが一彰の真後ろからひょっこり顔を出した。チョコレート色の丸いボブヘアがさらりと揺れる。
「ののさん、どうしたんです?」
「何って、今日は天下分け目の戦いだろ? 任務の入ってない三門市立大組でおめえたち高校三年受験組を激励に来たんだよ」
ほっそりとした指先が示した人だかりには、弓場琢磨が仁王立ちで降臨しているのが見えた。見知った六穎館高生と三門市立高生が彼を囲み、エールを全身で浴びている。思わず両手を合わせて拝んでしまう紗耶である。
「なんで王子も?」
「フッ、良い質問だねカンダタ」
一彰は一般試験ではなく、推薦試験で一足早く春を迎えている。推薦合格者もよほどの理由がない限りは、三門市立高校でも大学入学共通テストを受験することになっているのでここに居るのは不思議ではない。同じチャレンジャーである。
一彰は白い歯をきらりと見せてくれた。
「何故って面白そうだからさ」
「だよなあ……」
がっくりと肩を落とす神田の背中を、藤丸が叩いた。
「うお」
「神田ァ! 気合い入れろ気合ィ!」
「うす!」
背筋を伸ばす神田につられ、紗耶もしゃんと姿勢を正す。
「とうとう来たな、今日が。じたばたしねえで歯ァ食いしばって腹くくれ」
言葉を切って、藤丸は思い切り破顔した。ニカッ、と。
「今日まで雨の日も風の日もコツコツ前に進むことを諦めなかったおめーらを信じるあたしたちを信じろ!」
藤丸のエールは、気休めの「がんばれ」でも、「大丈夫」でもない。いつも通りのトーンだ。けれど、防衛任務でもランク戦でも、いつでも神田や紗耶たち隊員の背を押し、何度でも立ち上がらせてくれた落ち着いたその声が、耳を、全身を静かに熱く震わせた。
「はい!」
「よし、いい返事だ」
胸を張って返事をした二人に藤丸は百点満点花丸の眩しい笑みを咲かせた。
王子から使い捨てカイロが、藤丸から受験生にその名称の縁起の良さで定評のあるチョコレート菓子が授与される。
恭しく両手で受け取った神田と紗耶に、タヌキの王子さまこと、王子一彰が翡翠色の眦を細めて問う。
「きみたちの戦いは?」
「まだこれからだ‼」
気合いの入った神田と紗耶の大合唱に笑い声が弾けた。
「神田くん」
「うん」
「神田先生と三橋先生が迎え撃つ春にご期待ください――実現、目指そう! ご武運を!」
「うん。お互い頑張ろうな」
眩しげに目を細めて応える神田に、紗耶も頬と肩の力を抜いた。
選手宣誓をした直後、紗耶の右手と右足が同時に出てしまったのを指摘し、神田がまた笑う。
今シーズン一番の冷え込みを記録した朝。
寒さが空気の底に、試験会場の三門市立大学キャンパスに、厚手のタイツの爪先に、そっと、しかし確実に染みこんでいくように、今日と明日の大学入学共通テストに臨む者たちの体の隅々まで、蒼く熱い炎は揺らめいている。