ささの葉さらさら
ノックしようと拳を上げ、止まる。
「太刀川さんはパンダだったのだ……?」
太刀川隊隊室前に笹の葉が飾られていた。ででん、と。大層立派なサイズである。
「んなわけないでしょ」
呆れた声が上から降ってきた。振り向けば、猫に似た吊り目がこちらを見下ろしていた。
「出水くん。こんにちは」
「こんちわ」
挨拶をすればストレートによく通る声音の挨拶が返ってくる。爽やか。わーるどいずびゅーてぃふる。善きかな。……自分よりも背の高い脚長族の後輩が頭を下げてくれるのは正直戸惑うものもあるのだが、ボーダーも学校も自分より背の低い後輩の方が年々希少価値が上がっているので気にしたら負けだ。
だが、隣に立った出水の脚はすらりと長い。色素の薄い髪から覗くつむじがなんだか遠い。また背が伸びたらしい。短足族の自分の真横に立って欲しくないという気持ちと、今こそ友人に教わった遠近感を駆使する時だ! という強い思想が激しくせめぎ合う。
高校二年生。出水は成長期真っ只中の伸び盛りだ。彼はこのあと更にぐんぐん背丈を伸ばすのだろう。だが、出水にも伸びしろがあるように、一学年上の紗耶にだって伸びしろはまだある。はずだ。短足族のセンチメンタリズムをじわじわ噛みしめていると、
「先輩、中へどーぞ。柚宇さんなら炭酸買いに行くって一旦外に出てます」
「ありがとう。お邪魔します」
国近柚宇に借りた本を返しに来たのだ。手招きに甘えて待たせてもらうことにする。頷くなり、出水が眉を上げた。
「うちの太刀川さんがパンダって何です?」
「ほら、太刀川さん、ランク戦室にいつもいらっしゃるでしょう?」
「はい」
「ランク戦をしないと成仏できなくて現世にずっと留まり続ける幽霊説。夏になるとまことしやかに流れるじゃない? 特に夏休みはランク戦に居る以外の時間に何しているのか謎だってよく言われているから。笹食べてる説もアリかな、と」
人差し指を立ててみれば、出水はまばたきを二度ほどしてから口を開いた。
「あー……うーん。でも、あのひと、パンダよりはずっと身体動かすし、仕事のデキる働くひとですよ。速いし、よく斬るし」
「すごいよねえ太刀川さん。わたしもさっき一秒で六枚におろされてきた」
「うわ! さすが太刀川さん! しっかし、サーヤ先輩も懲りないひとだなあ……」
出水がたまらずといったように噴き出した。色素の薄い髪が小刻みに揺れた。
去年の秋、三橋紗耶の所属部隊が解散することになった。最後のランク戦で一花咲かせようと、紗耶が弧月の練習に励んでいたことは同じ射手仲間の彼にも知られている。出水もまた隊長の太刀川に負けず劣らずランク戦室によく詰め、研鑽に励んでいるからだ。A級一位。この隊長にしてこの隊員あり、とはよく言ったものだ。
そして、出水は紗耶の弧月があまり上達しなかったこともよくご存じなのである。
けれども、出水はとてもよい子である。攻撃手に秒速で何枚にもおろされ、千切りにされ、根こそぎポイントを持って行かれてしょぼしょぼ肩を落とす紗耶に今日と明日の食堂定食メニューを教えてくれる親切な子なのだ。叱咤するでもなく、激励するでもない。ただその気遣いがやさしくてありがたい。
太刀川隊隊室内は相変わらずというか、いつもながらほどよく雑然としていた。読みかけの漫画単行本に先週号と先々週号の『週刊少年ジャンプ』にチョコレートとおかきのバラエティパック。ちょっといいとこのハムの箱に、ボールペンに消しゴム、食堂の食券。
机の上にはこよりを付けた細長い紙が散らばっている。
「あ、そうか! 七夕! 夏だねえ」
そういえば、駅にもスーパーにも大きな笹が飾られていた。
「持ってきたのは太刀川さんですけど、笹食うために持ってきたわけじゃねえっスよ」
「おお……」
「まあ、ランク戦室にいつもいるひとですけど、地縛霊じゃないんで。外にもフツーに出てます出てます。で、時々ふらっと、どっかからか笹持ってきたり、アイスと花火持ってきたり、ちょっといいとこのハムを担いできたりします」
なんだか季節を知らせに訪れる気まぐれな妖精とか、お中元を届けに来る親戚のお兄さんめいたムーブである。つられて紗耶も噴き出してしまった。
机の上には、短冊の他に、紙の網飾りや提灯も転がっている。器用だな、と感心してしまう。太刀川隊皆で準備している光景を想像すると、なんだか微笑ましい。
「一枚、どうです?」
出水が笑いかけてきた。筆ペンと短冊をこちらへ差し出しながら。
姿勢を正し、さらさらと願い事を書く。顔を上げれば、出水が瞳を丸くさせていた。色素の薄い吊り目がぱちぱち動く。大きな猫のようだ。
「うん?」
首を傾げれば、彼がぼそりと言った。
「意外。大学合格、じゃないんスね」
質問でも疑問でもなく、ただ不明な点を確認するような口調に紗耶は頬を緩め、頷いてみせた。
「そういうのは叶えてもらうものじゃなくて、自分で叶えるものだからね」
「おお! さすが模範受験生!」
ぱちぱちぱち、と惜しみなく拍手を送ってくれる後輩に、ちゃ、と人差し指と中指でVの字を作り、応じる。
「……願い事っつーよりはリクエストじゃないスか。まあ、志はご立派なんスけど」
「うん。願えば、叶う」
きりりと眉を引き締めて大きく頷いてみせる。出水も笑った。違いない、と。
「じゃあ、叶うように高いところに掛けておきましょうか。ついでに飾りも付けないと。うちのひとたち、作るのに満足して誰も飾らないから部屋がますますカオス化してるんですよ……。唯我まで網飾り量産に燃えるし。すいません、柚宇さんが戻るまで手伝ってもらってもいいスか?」
「三橋、了解」
両手で持ち、短冊を彼に託す。彼もまた厳かな面持ちで受け取ってくれた。
『からっとジューシー揚げたてサクサクコロッケと鰹出汁しみしみコロッケ蕎麦が食べたい』
代わりに出水が寄越したのは、網飾りだ。言われてみれば、確かに網飾りが机どころかあちこちに転がっている。壊れないように慎重に持つ。
あれ、と紗耶はまばたきを繰り返した。……よく見ると、飾りには「市民と社会」と書かれた文字があった。壊さないように紙を少し捲ってみる。どうやら大学の前期末試験要項のプリントで作られているようだ。確か、三門市立大学の試験は七月中旬以降に行われると聞く。風間さんと諏訪さんが、防衛任務と大学生組の試験やレポートが重ならないよう全員の時間割やシフトを細かく確認していたはずだ。
――太刀川さん、大丈夫かな。
紗耶には分からない。だが、一つだけ確かなことがある。要項プリントも本懐を遂げる前にここまで丁寧にハサミで切り刻まれる運命は予期していなかったことだ。