
ひんやりとした空気に包まれた廊下を通ると、疲れきった体が一気に生き返るような心地がする。
のろのろと床に視線を落とせば、ぼんやりと映る自分の影が、先ほどよりも伸びている。
予定というものがたいていは未定であるいうことは不本意ながら知ってはいたが、それでも内心でため息をついた。
――せめて休んでからにしてくれればいいのに……。
そんなことを考えながら暖簾をくぐれば、食堂の空気は、普段よりもずっとあたたかだった。
「こんにちはー。あの、おばちゃん……こんな時間に無理を承知でお願いします。何か恵んで頂けませんか?」
室内に響いたのは、我ながら何とも情けない声であった。けれども、言葉を選び直す気力もなく、隅の座席に落ちるようにしゃがみ込んだ。上体を机に預けて、そのまま沈黙を吐き出す。
ぼんやりと影が触れた。自身のそれとは違う形のものがひとつ。
伽夜はゆっくりと顔を上げた。
かぐわしい匂いと湯気が立ち上がるあたたかい汁飯が、目の前に降臨していた。栗に茸、ごぼうや里芋がふんだんに使われており、人参は紅葉の形にくり抜かれていた。
夢ではなく、それが確かなものだと示すあたたかな声が、じんと響く。
「お残しは許しまへんで」
「おばちゃん……!」
伽夜は顔に熱が集まるのを自覚した。胸の前で手を組み合わせる。目の縁に熱いものが盛り上がった。
「潮江くんが取り置きを頼みに来てくれたのよ」
「おばちゃん……」
高揚した気分が、一気に盛り下がった。肩を落とし、うめいた。
苦笑を声音ににじませながらおばちゃんが言ってくる。
「あら、また怒られたの?」
真正面から向けられるおばちゃんのあたたかな眼差しから、僅かに視線を外す。
「渡り廊下で三時間ほど正座をさせられました……。実習明けでへとへとなのに、ひどすぎます……」
「まあまあ。潮江くんだって意地悪でしてるんじゃないんだから許しておやりよ。さっきだって、『思いっきりしょげてくるに決まってるから』って、できるだけあたたかいものを出してやってほしいと頼んでくれたのよ」
元気が出るように、って。そう云っておばちゃんは、やわらかく双眸を細めた。
「…………」
まっすぐでいて、あたたかなその微笑みに、眉が下がった。
――そりゃ、真剣に怒ってくれる人のほうが、ずっと大事にしてくれているということは分かってはいます……。
目を伏せて、紡ぐ。
「食べ終わったらお礼を言いに行きます……」
「よくできました。それでこそ伽夜ちゃんよ」
「はあ……」
嬉しいような、困ったような、可笑しいような、そんな色んな感情を混ぜこぜにしたようなため息が零れ落ちた。
ごちそうになったお礼にと、おばちゃんに熱い茶を淹れる。
湯呑を受け取って、彼女はほっと息をついた。目元が優しげに緩んでいく。伽夜も目元にゆっくりと弧を描いた。
「ありがとね。ごちそうさま」
「いえいえ。ごちそうさまでした」
「さて、いい息抜きもできたことだし、今晩の献立はどうしようかしらねえ……」
ふと、顔を上げて、おばちゃんはこちらに向き直った。きょとんとまばたきを返すこちらへ、詰め寄ってくる。
「伽夜ちゃん、何か食べたいものない? 参考にさせてちょうだいよ」
「え?」
相手は真剣な眼差しを注ぎ、こちらを向いている。まばたきをするごとに深刻さが増していくようであった。
お腹いっぱいで思いつかないし、おばちゃんの作るものならば何でも良い――だなんて気軽に言えるはずもなく、伽夜には曖昧に微笑むことしかできなかった。
と――聞き覚えのある声に暖簾が揺れた。
「失礼します」
「こんちはー」
天の助け、とそちらに慌てて視線を転じると、藤鼠色と茄子紺色の装束が見えた。
「あら、久々知くんに斉藤くんじゃないの。どうしたの?」
同学年の忍たまである久々知兵助と、四年生に編入したとかいう斉藤タカ丸であった。前者が深刻そうに額に皺を寄せているのに対し、後者の口元は愉しそうに緩んでいた。
「すみません。ちょっとだけ席を借りてもいいですか」
「いいわよ。勉強?」
うなずき、おばちゃんは立ち上がる。目を二、三度ぱちくりさせて二人を交互に見つめている。
「いえ、委員会会議です」
「あらあら。熱心ねえ……」
おばちゃんは新たに持ってきた二人分の湯呑に熱い茶を注いだ。
「はあ、すみません。由々しき事態が発生しまして……」
「あら、そうなの。席のことなら気にしなくていいから頑張って」
頭を下げて湯呑を受け取る二人へにっこりと笑みを浮かべ、彼女はカウンターへと去って行った。
その後ろ姿を見送り、湯呑を手の中で転がす。そのまま伽夜も首をかしげた。
「また焔硝蔵に曲者ですか?」
伽夜の向かいに腰を下ろすと、兵助は重々しく口を開いた。
「いや、学期始めの予算会議で潮江先輩に予算をばっさり削られてしまってさ……」
「…………へ、へえ」
今、一番会いたくて一番会いたくないひとの名前になんとなく気まずいものを感じて伽夜は視線をそらす。
けれども、久々知兵助は気にした風もなく、重々しくため息を吐き出した。
「誰かさんが雑費に甘酒代なんて書くから……」
ぎろり、と伽夜の隣に座るタカ丸を睨みつける。
しばし、沈黙してから――
視線を集めた主は、ぽん、と手を打った。あさっての方向に独りごちる。
「ああ、夕日が眩しいなあ」
「今日の天気は思いっきり曇りで、おまけに日が沈むまでまだだいぶ時間があるんだけど」
冷たい声で的確な指摘をする兵助を見つめ、尋ねる。
「何でそんなことを書いたんですか」
結果がどうなるかなんて分かりきっているじゃないですか、と伽夜は首を斜めに傾けた。
「だって、これからの季節、焔硝蔵はどんどん冷えて寒くなるのに、あそこは暖房が使えないからさあ。書いちゃった」
「だからって甘酒代はないだろ」
冷たく、兵助が言ってくる。あっはっはっはっ、と豪快に肩を揺らし、タカ丸は再び視線をそらした。
そんな二人のやり取りを見つめ、伽夜は口を開く。
「……予算をかけずに簡単に暖を取る方法ならば、ありますよ。三つほど」
「なになに!?」
「本当か? 上月さん! ぜひ教えてくれ! この際だから手段は選ばない!」
伽夜の呟きに、二人は目をきらきらと輝かせた。涙をこぼしそうな勢いで身を乗り出してくる二人の少年に、伽夜は正直戸惑って顔を引いた。
とりあえず、こほん、と軽く咳払いをして指を一本立てる。
「まずは、焚き」
「却下!」
見事こちらの言葉を遮った非難の声に伽夜は眉を顰めた。
「まだ言い終わってないじゃないですか……」
「言い終わらんでもわかるわい! ていうか、不吉な言葉を出すんじゃない! うちの委員会は火気厳禁だっ!」
兵助は、目を文字通り三角につり上げて怒鳴り込んでくる。
それを受け流すつもりで伽夜はゆっくりとまばたきを繰り返した。
ぽん、と手を打つ。
「そういえば、火のない所に煙は立ちませんものね」
「お、うまい。おばちゃん、座布団一枚」
顔を輝かせて手を打つタカ丸に、伽夜も微笑みを返す。
「……あのさあ、二人とも真面目に考えてくれないかなあ。頼むから」
唇を噛むような表情で、久々知兵助。
「はーい」
よい子の返事の斉唱に、彼はなぜか疲れたようなため息を漏らした。
とりえあず、それはほうっておいて、伽夜は再び拳から指を一本立てた。
「では次。こちらは一番にお勧めしたい方法です」
伽夜は指をゆっくりと下ろすと、懐から包みを取り出した。ぽん、と机の上に載せてやる。
相手はさらに眉間に皺を深く刻みながらも、無言でそれを開き始めた。赤い粉末を視界に認めるが早いか、怪訝そうな顔つきでこちらを見つめてきた。
「七味唐辛子……?」
「はい。辛いものを食べるというのはどうでしょう。特にこちらの上月伽夜・秋のすぺさるぶれんどなんて、体の芯から刺激大爆発で――」
「断る!」
べし、と畳んだ包みを机に叩きつけ、彼が叫んだ。
「なぜです?」
ひょい、と首をかしげる。相手はというと、なにやら険悪な表情でまくし立ててきた。
「確かにいい案かもしれないけど、飲み水を用意する者が出るだろうから、駄目駄目。絶対に駄目だ。湿り気も厳禁なんだよ。うちの委員会は……」
「僕もくくちくんに賛成だなあ。なんか、見てるだけで口の中が辛くなってきたよ……」
タカ丸も八の字に眉を下げ、困惑したような声をあげた。
「まったく。注文の多い委員会ですねえ。手段は選ばないんじゃなかったんですか……」
包みをしまい込むと、伽夜はやれやれと肩をすくめた。
「仕方ないので最後の一つに行きましょう」
言葉を切り、軽く咳払いをする。
「ちなみにこれが一番お手軽な方法です」
兵助とタカ丸が緊張感を含ませた視線をこちらに寄こしてくる。伽夜は、ゆっくりと深呼吸し、うなずいた。
顔を上げ、視線を引き締め、指を立てる。
「まず、蔵の四隅に一人ずつ立ちます。それから一人が壁伝いに歩き、別の角の人に触れます。触れられた人は、同じように次の角に向かって歩き、行きつく角の人に触れます。で、あとは蔵の中を回るようにこれを延々と繰り返すという寸法です」
「おおー。すごい!」
タカ丸が、熱心な声で手を叩く。
感心したように兵助もうなずき返した。
「うん。経費も道具も必要ないだなんて夢のようだ……」
だが、虚空を見上げ――
ぽつりと呟いた。
「……ちょっと待った」
「なんです?」
伽夜はゆっくりと瞬きしながら、呆れたように聞き返す。
「無理だよ」
こちらに顔を近づけて、兵助は声を鋭くさせた。
「できるわけがない。火薬委員会は四人しかいないんだ……」
「…………」
つらくて重い沈黙が、あたりを覆った。
けれども、それはあっさりと終わりを告げた。ぱちぱちとまばたきを繰り返して、タカ丸が疑問符を飛ばしてきた。
「え、なんで? ちゃんと四人いるからできるじゃん」
たまらずに兵助の顔を見上げると、彼もまた困惑したような視線をこちらに寄こしてきた。黙したまま、伽夜は弱々しく目元を緩める。
大きくため息をついてから――兵助は、ぐったりと口を開いた。
「いいかい、タカ丸さん。怖いからというよりも、むしろ、うちの委員会がまだ四人しかいないということを思い知らされてむなしくなるだけだから詳しくは省くけど」
その声はひどくこわばっていた。漆黒の瞳に、暗い影が宿る。
「ええと……」
言葉を濁して、先を促す。
「部屋の角に立つ四人と、歩いている一人。つまり、五人いなければこれは絶対にできないんだ」
「…………」
更に、しばしの静かな時間。
がたん――とこれは、タカ丸が席を立った音だが、彼は立ち上がりながら驚愕の声をあげた。
「…………どわあああっ!? 本当だっ! 四人じゃ無理だよ!」
正面に視線を戻すと、久々知兵助はもう疲れたのか、机に突っ伏していた。
とりあえず、伽夜は眉の力を抜いて微笑んだ。
「まあまあ。元気出して下さいよ、久々知くん。最後の方法だって、土井先生をお誘いすればいいじゃないですか。ね?」
「…………」
いらえはなかった。ただ、静寂の狭間にしくしくと泣き声が聞こえてくる……
「……無理だって。土井先生は一年は組の補習授業でご多忙なんだから。ああ、なんでうちの委員会は予算も上級生の数も少ないかなあ。他の委員会ほど面々が濃くなくていいんだけど、もう少しこう……」
隣のタカ丸と思わず顔を見合わせる。彼もまた弱々しい微笑みを浮かべていた。伽夜もひきつった笑みで応じた。
ふと、脳裏に閃くものがあった。
「そうだ!」
ぱちん、と手を合わせる。努めて明るい笑みで、呼びかける。
「久々知くん、朗報です。この間リクエストして下さった例の本、本日めでたく入荷されましたよ」
「え? リクエスト? 俺が」
困惑したように彼が目をぱちくりさせた。
多少生気の宿るその表情にほっと安堵し、大きくうなずいてやる。
「はい。先日、久々知くんの変装をした鉢屋くんが代わりに、と注文していきました」
こめかみに手を当て、彼は声を震わせた。
「…………突っ込みたいところが盛りだくさんなんだけど。念のため聞こうか。何の本?」
「『豆腐大全』」
「…………」
目の端で、黒髪が小刻みに揺れていた。彼は再び机に突っ伏していた。
「あれ? 久々知くん? もしもーし。聞こえませんでしたか?」
もう一回だけ言いますよ、という声を待たずに相手が跳ね起きた。がっしと食卓に張り付いて、怒気を含んだ声で叫ぶ。
「悪いけどっていうか、俺はこれっぽっちも悪くないんだけど! 絶対に借りません!」
「えー……」
ひきつりまくった笑みを浮かべたまま、伽夜は言葉を失う。
「じゃあ、おばちゃんが借りようかしら」
そのとき、時間が止まった。
唐突に降りた声に一同は顔を見合せて、ばっと振り返った。
カウンターの向かいに立ったおばちゃんが、にこにこと笑みを浮かべている。
「久々知くんの顔を見ていたら、今日の晩御飯のメニューに豆腐もいいかもなんて思えてきたの」
屈託のないその言葉に、久々知少年は複雑な表情で叫んだ。
「ちょっと待って下さい。勝手に人の顔見て豆腐を思い浮かべないで下さいよっ」
「そうですよ!」
伽夜もうなずき、ぐっと拳を握った。
「おばちゃん、それは間違ってます。久々知くんに対して失礼です!」
「上月さん……」
兵助の感嘆の声を無視して伽夜は続ける。
「久々知くんといえば豆腐じゃなくて、豆腐といえば久々知くんなんですから! それに、時々でいいから(頭の隅からいなくなってしまいがちな)火薬委員ということを思い出してあげて下さい」
「こらーっ!」
だんっ、と食卓を叩いて兵助が立ちあがった。何やらその目は血走っていた。ぜえはあと息を弾ませながら、向き直ってくる。
「何のフォローにもなってないぞっ! それにさらっと失礼なことを省略するなあ!」
「そうかなあ?」
「思いっきり事実じゃないですか。一体何が不満なんです?」
「うんうん。本当のことよねえ」
三者はまばたきを繰り返し、はてなと顔を見合わせる。十は数えた頃だろうか――
みしっ、と音を立てたのは彼の心の音……ではなく彼が手をついている食卓の脚だった。
「うわーん」
泣き声だか叫び声だかをあげながら、彼はその場から走り去って行った。
「…………」
きょとんとその背を見送りながら、伽夜はぽつりと呟いた。
「反抗期でしょうか……優等生も大変ですねえ」
こちらが肩をすくめるのを、タカ丸は黙したまま見つめてくる。見上げれば、彼も八の字に眉を下げて笑っていた。
「あ」
ぽつり、とおばちゃんが呟いた。
「おばちゃん、どうしました?」
伽夜の問いにおばちゃんは口の両端を上げた。洗いたての釜をにこにこと眺め、
「いえね――いいことを思いついてしまったものだから」
と云ったのだった。
加薬ごはんと青菜の白和え。ふっくらとした五目豆に焼き秋刀魚。じゃこと豆腐たっぷりの味噌汁――その晩の忍術学園の食卓を彩ったメニューであった。