
秋来ぬと、目にはさやかに見えねども、と、少女は口の中で転がしてみる。
風が涼しい。頬を撫でるそれには湿っぽさも温さも含まれていないのだ。
このところ、ぐんと涼しくなった。今のように陽が高く登っている昼日中はさすがに汗がにじむけれども、朝晩ともなれば冷めた外気が肌を冷やして、日陰に入ると少し寒く感じるほどであった。
とんとん、と本の高さを揃える。受付台に返却されたものだ。
伽夜はぼんやり、窓の外を眺める。風が涼しい、とは言いつつも、今日の風はまた一段と強い。雲が速く流れ、木々がさかんに枝を揺らしている。雨でも降るのかな、と首を傾げる。大きく息を吸う。湿っぽい匂いはまだしない。
けれども、ひっそりと息をひそめるような気配の図書室に、風が窓を叩く音が響き、落ち着かない。図書室へ来る道のりで見かけた花は散ってしまうだろうか。
ふう、と息をついて立ち上がる。棚に戻す本を持ち上げた瞬間、戸が開く音がして顔を上げる。
「おや」
思わず声が漏れた。
「失礼しまーす」
からりと明るい合唱が室内に響いた。よく聞き慣れた声である。五年い組の尾浜勘右衛門だった。
「こんにちは。尾浜くん。どうしたんですか?」
聞いてしまってから、はたと気づく。どうしたも何も、ここは図書室である。本を読みに来たのだろう。
「おう、上月。委員会活動の一環だな。邪魔するぞ」
快活に言ってのけるなり、彼は二回りほど小さい忍たまの肩をぽんと叩いた。
「うへえ」
「失礼します」
眉間に深い影を刻みながら声をあげたのは図書委員会の後輩きり丸で、きっちり頭を下げて入室したのは勘右衛門の所属する学級委員長委員会の今福彦四郎である。共によい子のうら若き一年生だ。
「こんにちは。あらら、きり丸くん、元気です? 顔色がなんだか悪いですよ」
「こんちわ。いや、その、ちょっと衝撃が大きくて……」
きり丸はふらふらと身体を揺らしながら受付台の隣にやって来る。
「おやおや。課題がたくさん出た、とか?」
伽夜が首を傾げると、きり丸は巨大なため息をついた。目を潤ませて言ってくる。
「違いますよう。伽夜先輩が先に来ているだなんて。明日は雨かあ……。さよなら俺の洗濯バイト。秋晴れ期間は稼ぎ時なのに」
「え、泣くほど……?」
顔から全部出るものを出し始めた後輩に、伽夜は戸惑って声も頬も引きつらせる。彦四郎が大きな瞳をぱちくりさせた。
明るく晴れやかな声がこれまた図書室に響き渡る。
「つまりだな、学園で五指に入ると名高い方向音痴の上月が最短経路で図書室に辿り着くという極めて珍しい出来事が起きたのだ。事件と言っても過言ではない」
「ああ、それは珍しいですね。明日は雨が降ってもおかしくないかと……」
ぴん、と人差し指を立てた勘右衛門の親切な解説に、彦四郎がうんうん、と頷いた。とてもよい子である。伽夜はがっくりと肩を落とした。
「尾浜くん。事件だなんて心外です。少し不思議なことにいつも通る道順が何故だか変わっているだけなんですから。毎日新鮮ですし、最終的には目的地にも辿り着いていますし問題なしですよう」
「いやいや、不思議すぎるし問題しかないだろ」
勘右衛門が真顔でなにやら言っているが、とりあえずそれは無視。よい子に笑いかける。
「今福くん、委員会で何かお探しですか?」
やや緊張した面持ちで背筋を伸ばした今福少年が、おずおずと口を開いた。
「はい。今度のオリエンテーリングに向けて、まずはぼくたち学級委員長委員会が学園内で練習をすることになりまして。学園長先生にお題のものを見つけてくるよう指示をいただいたのでこちらに来ました」
ときめきサバイバルでうきうきハイキングだか、わくわくピクニックだったか……なにやら学園長先生の提案で行われる今度の大がかりな行事の予行練習らしい。
ぎくしゃくとぎこちない動きで彦四郎が紙片を差し出してきた。
そんなに緊張しなくても、と苦笑しながら伽夜も丁寧にお辞儀をして受け取る。
「ええと、『本の海に灯る星』ですか。風流ですねえ」
流麗な筆の運びで書かれたお題に伽夜は大きく瞬いた。
「火薬庫ではないので暗くなれば図書室は灯りに火も入れますけど……」
「まだ真っ昼間ですもんねえ。火がもったいない」
きり丸が顔をしかめた。節約、だいじ。
そう、今はまだ昼下がり。秋の日はつるべ落としとはいえ、日暮れまでは随分ある。当然どこにも火は灯していない。なよ竹のかぐや姫でもあるまいし、と四人で顔を突き合わせ、同時に首を傾げた。
「だよなあ。悪いが、ちょっと図書室内を彷徨かせてもらうぞ」
「わかりました。お静かにお願いしますね」
風が強くなってきたとはいえ、晴れているからか、今日は図書室を訪れている生徒が少ない。ぐるぐる図書室を散策されても邪魔にはならないだろう。
一も二もなく大きく首肯する。勘右衛門も口元を大きくほころばせた。彦四郎に指示を出すなり、颯爽と二手に分かれた。高く結われた長い髪が、軽やかに足早に遠ざかっていく。
事件(そもそも未遂である)の尾を引いているのか、きり丸はまだ元気がない。ひとまず彼に受付係を任せ、伽夜は返却された本を両手に抱え、書棚に向かった。
開け放った窓から風が時折入ってくるが、湿った匂いは全くしない。からりとしている。明日もご安心ご安全な洗濯日和であろう。と――
「あった! 尾浜先輩! 見つけました! 星です!」
明るい笑い声が図書室いっぱいに満ちた。
声がしたのは入荷されたばかりの本を展示する棚の前だ。そこは、顧問の松千代中心に図書委員全員が力を入れて新しく購入した本を宣伝している場所だ。隣の書棚からひょい、と窺えば、
「でかした彦四郎!」
思い切り破顔した勘右衛門が彦四郎の頭をわしゃわしゃと撫で回していた。大きく揺れる彦四郎の顔はほのかに朱く染まり、眦も頬も口元も大きくほころんでいる。
二人の前に灯っているのは――
紫色の星だ。星が小さく象られた花――桔梗だ。松千代が摘み、宣伝の場所に飾ったのだろう。
彦四郎と勘右衛門の明るい笑い声が、爽籟に乗って耳を撫でる。図書室で見つけた小さな秋。朗らかに清らかに笑う二人につられ、伽夜も頬をふにゃりと緩めた。